〔余白の創造性〕やる気について
余白の創造性連載第十五回目の今回のテーマは
”やる気について”
誰しもがやる気という言葉は幼い頃から幾度となく触れてきたと思います。
勉強をするにしても、スポーツをするにしても、楽器をするにしても
いわゆる鍛錬、練習の必要なものにはやる気という言葉は付きもののようですよね。
やる気というのは、その物事に対しての気持ちと言いますか、それを行うときの心持ちを表しているわけですが、
やる気がある/ないは何で分かれるのでしょうか?
まず、やる気がある状態になるのは
その物事を行うことが得な場合、それが好きなモノであるとき、もしくは必要にかられているなどでしょうか。
逆にやる気がない状態になるのは、一旦、それらとは正反対の状況の場合ということにしましょう。
その物事を行っても損で、嫌いなモノで、必要にかられていない。
そんなところでしょうか。
しかし、損得や必要か否かのように、自分にとって利益があるかどうか、その行動によって目に見えて対価があるかどうかで作られるやる気と、
好き/嫌いのように感情で作られるやる気は必ずしも一致するわけではないですよね。
好きなことでも、必要なことではなく、損をする場合もありますし、
嫌いなことだけれど、必要なことで、得をする場合もあります。
感情によって生まれるやる気には利益があるかどうかは関係無いのかもしれません。
ただ、一つ確かなことは、何事においても等価交換といいますか、質量保存の法則は化学に限った法則ではなく、日常生活においてもそれは真理だと思うのです。
求める利益を得るためには、相応の労力を掛けなければならないわけで、
自分にとって必要なことや得なことというのを得るためには、それだけの労力を掛けなければなりません。
大抵の場合、損得については掛ける労力に対して利益がどれほどであるかです。
上回るようならばやる気になり、下回りそうであればやる気はなくなる。
一方で、感情によって生まれるやる気に関しては、物質的な結果だけが判断材料ではありません。
精神的な充足、例えば達成感のようなものも加算した利益が、労力に見合うかどうかを判断します。
つまり、どれだけの労力を要するとしても、それによって得られる利益が対等以上であるならば、好き嫌いに関係なくやる気にはなります。
嫌いな科目でも行きたい大学に合格するために必要ならばやる気を出して勉強しますし、
走り込みは嫌いでも一試合走り抜く体力を付けるためには走ります。
しかし”好きこそものの上手なれ”と言うように、
好きなことには熱心になりますし、出来る限りの工夫を凝らすので、それは得られる結果にも影響します。
感情というのは質量のないものです。
物質的に掛ける労力には相応の利益しか得られませんが、
そこに質量保存の法則と関係のない感情が加わることで、想定される以上の結果が得られるのではないでしょうか。
そして、想定以上の結果が得られるというのは、精神的な充足感が増すわけですから、心が満たされてさらにそのモノを好きになるきっかけにもなります。
つまり“好き”という感情のようなポジティブな感情から生まれる”やる気”が利益の最大値を上げていくのではないでしょうか。
感情には質量がないので、それこそいくらでも増減できるので。
誰しも自分の人生を歩んでいくなかで、それが物質的にしろ精神的にしても、より幸せに、より豊かに生きたいものです。
その最大値を上げていくヒントは”やる気の質”なのかもしれません。
本当は好きなことをするのが人生において最大の利益を得られることではないでしょうか。
それでも、やはり好きなことで生きていくのは難しいし、我慢も必要と考えてしまいます。
それは、精神的充足感は目に見えないからでしょう。
人間は短期的には後悔が多く、長期的には自己肯定する生き物です。
すぐに目に見える分かりやすい結果が得られないと不安になるものです。
しかし、そこで止めずに長い目で見てみれば結果を得られることだってあります。
目に見えるモノに囚われて見逃してしまっている見えないモノを掬い上げていくことが、好きなことをして生きていくということなのかもしれません。
やる気になれること、好きになれることを探しながら生きたいですね。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は“やる気”について考えてみたのですが、何とも実体のつかめないモノでした。
また機会があれば別の角度から考えてみたいです。
連載第十六回目の次回のテーマは
”みえるもの、みえないもの”です。
それでは、また来週の金曜日に。