生きるということ
一所懸命、今を生きていますか
一昨々年、アリゾナにあるトッドガルシアのラボ “lofae” で冷凍献体での人体解剖を行いました。
5日間、敬意と尊厳をもって献体と向き合い、初めて人体の内側にふれました。
親族の死、友人の死を通して、死ということを知っているはずでした。
しかし、ラボで献体と僕が経験してきた死は全く別のもので、それは実に生々しいものでした。
生きているということと、死んでいるということの境は何なんだろうとずっと考えていました。
心臓の拍動?
脳が機能しているから?
意識があるから?
臓器が機能しているから?
しかし死してなお、肉体は残ります。
肉体が残るということは、分子レベルでは存在しているということです。
人の70%は水分で構成されているとも言われていますが、私たちは水ではありません。
しかし水分があるから私たちは健康的に生きることができるのです。
答えはシンプルなのかもしれないけれど、考えれば考えるほどその違いが分からなくなりました。
ひょっとしたら僕たちが「生」だと思っているものは、素粒子がこすれ合って起きるホログラムなのかもしれません。
そのぐらい、生と死の境は曖昧で、生きているということが奇跡の連続なのだと思いました。
生を全うする
自分の力でできたことなんて何一つありません。
全て、周りに人が居てくれたからです。
自分という存在が証明されるのも、周りに人が居てくれるからです。
ありきたりかもしれませんが、今こうして生きていることは実はすごく有難いことなのです。
あなたが居てくれるから、私が在る。
死から学ぶことがあるとしたら、生を全うすることなのかもしれません。
では、生を全うするとはどう言うことなのでしょうか。
あなたの好きなことは、きっと誰かのためになる。
好きなことができるのは幸せだと思います。
それは仕事でも趣味でも同じではないでしょうか。
好きなことを仕事にし、趣味も好きなことをやって、好きな場所に住んで、好きなものを食べて、好きなことを追求することができる。
人は「好きなこと」には全力を注げるのではないでしょうか。
嫌いなことに全力を注ぐケースは、さまざまな外的要因で強制される場合を除いて恐らくないのではないかと思います。
もし、世界中のすべての人が好きなことをして、そのことが好きなことをしている他の誰かのためになっていたら、世の中から悲しい出来事がなくなるのかもしれません。
人は「そんなことできっこない」「私には無理だ」と言うかもしれません。
だけどやってみないとどうなるかなんて誰にもわかりません。
あなたは自分が好きだと思うことを自信を持って一生懸命やっていると言えますか。
生きるということは、情熱を燃やすこと
一昨年、闘病生活の末に、ある人の肉体から魂が旅立ちました。
享年45歳でした。
仕事が好きで、情熱を持って新しいことにチャレンジし続ける人でした。
病に伏せてもなお、持ち前の明るさとパワーで人のための仕事に尽力した姿勢は本当に凄いなと思いました。
死は誰にでも訪れるものです。
それが寿命だったり、病気だったり、事故だったり、形こそ違うけれど死は必ず訪れます。
その死が訪れる瞬間まで、情熱を持って好きなことに対して一所懸命だった姿勢は見習いたいです。
なくしてからじゃないと気づけないではもったいない。
生きている間は「生きている」ということをそんなに意識することはありません。
そして、自分の仕事が誰かのためになっていると考える機会も少ないのではないでしょうか。
自分自身、アリゾナでの経験から、生きているのと死んでいるのは本当に紙一重だと思うのです。
ですから、生きている間に想像力をフルに働かせて、好きなことをとことん追求する時間であったり、好きな人たちと共有している瞬間であったり、生きていることの有り難さをしっかり感じながら、(人の為になるかもしれない自分が好きなことで)それを表現してみてください。
表現に力がこもってくると、ひょっとしたら行く行くは誰かのためになるのかもしれません。
R.I.P