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完全版 「おカネの教室」ができるまで 兼業作家のデビュー奮闘記【無料公開】

これはKindleストアで発売中の「『おカネの教室』ができるまで」の完全版全文です。
note連載時の各回はこちらのマガジン、総集編シリーズ1~3と番外編はこちらのマガジンにあります。内容はほぼ重複しています。小ネタや圧縮・リライト過程に興味のある物好きな方はどうぞ。

はじめに 

このコンテンツはnoteに連載した「おカネの教室ができるまで」シリーズを加筆・編集したものです。
「おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密」は2018年3月にインプレス×ミシマ社のコラボレーベル「しごとのわ」からリリースされてから9刷を重ね、Kindle版と合わせて5万部を超えるベストセラーになっています。

「おカネの教室」はもともと著者の家庭内連載読み物でした。
はじめ、長女に向けて軽い気持ちで書きはじめたお話は、アレヨアレヨと登場人物たちが暴走してしまい、気が付いたら7年もの長期連載となりました。
この三姉妹だけに読ませるつもりで書いた読み物を友人・知人に配ったところ大変好評で、試しにKindleで個人出版してみたら、これまたアレヨアレヨと大ヒットに。
これまた試しに出版社に売り込んでみたら、「本にしましょうか」ととんとん拍子で話が進んだ――こんな顛末を書いています。

「おカネの教室」の読者には作品の内幕ものとして楽しんでいただけますし、また「いつかは本を出してみたい」と思っている方には、創作や個人出版のノウハウやヒントになると思います。

このKindle版の作成にあたっては、表紙と作中挿絵で、ウルバノヴィチかなさんにイラストやラフの使用をご快諾いただきました。
また、巻末の著者インタビューはインプレスのサイトに発表されたものの転載です(注:noteで公開中。リンクはこちら
ともに、ご厚意に感謝いたします。

表紙のデザインは「葉月」こと、高井家の次女が担当しました。親馬鹿は承知ですが、私がイメージしていたより、カッコよく仕上がりました。

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(Kindle版の表紙です。メイキングドキュメントはこちら

なお、編集の過程で、連載時に入っていた「小ネタ」の多くは削りました。
Kindleという端末の特性上、note連載時より画像も少なめにしてあります。
ご興味のある方は、高井浩章名義のnoteの元原稿をご覧いただけると幸いです。
それでは、「おカネの教室」という変な本が世に出るまでの物語をお楽しみください。

I なぜ7年も… 家庭内連載編

「おカネの教室」の家庭内連載は2010年から2016年まで、7年の長きにわたった。サラリーマン記者である兼業作家の辛さで、執筆ペースは乱れがち。おまけに、登場人物たちの「暴走」で話は膨らむばかり…。
でも、そこには、自分の娘という最良の読者と、「筆任せ」で物語を紡ぐ喜びがあった。

 1 「もう、自分で書いちゃおう」

「おカネの教室」は2010年5月の大型連休に家庭内連載が始まった。連載開始といっても、私がパチパチと執筆し、プリントアウトしたものを長女に「読んでみな」と手渡しただけのことだ。
A4で7ページ、4600字ほどの初稿は「思ったとおり、教室はがらんとしていた。」という一文で始まっている。書籍版とほぼ同じ書き出しだ。
長女は2000年生まれのいわゆるミレニアムベイビーで、連載開始時は10歳。5年生になったばかりだった。

「ピンとくる本がない!」

よく指摘されるように、日本は金銭・経済教育が貧弱だ。「学校には任せておけない」と思えば、親が自分で補うしかない。
高学年にもなれば、お小遣いやお年玉を自己管理するようになる。2010年は、我が家の子育てにおいても、そろそろ「経済の基礎」を教えねば、というタイミングだった。

まずは「何か良い本はないか」と本屋を漁った。
私は子供のころから「本の虫」で、当時も今も、月に数度は大型書店を1~2時間、回遊するのを常としている。いつもの本屋巡りのついでに、長女向けのテキストをかなり真剣に探してみた。だが、ピンとくる本はなかなか見つからなかった。

理由ははっきりしていた。手堅くまとまってはいても、「腹に落ちる」ような読書体験が望めないものばかりだったのだ。
誰もが経験するように、興味のない教科の教科書の内容をアタマに詰め込むのは苦痛だ。そして、詰め込んだ知識は、血肉とはならず、テストが終われば忘れ去られる。
私の目には、「おカネの仕組みがわかる!」という類の本は、こんな教科書のように映った。そもそも、読者=長女は、お金や経済の本など興味はないのだ。
馬を水辺まで連れて行っても、水を飲ませることはできない。

「いい本ないし、もう、自分で書いちゃおう」。
これが私の結論だった。本業は経済記者であり、「おカネの教室」の前にも「ポドモド」という童話を家庭内で連載していた。「次のネタはお金にしよう」と思っただけで、書くこと自体は「決断」という気分すらなかった。
こんな経緯なので、帯や広告で謳っている「娘に贈った」という「おカネの教室」の売り文句は、嘘ではない。

書く喜び

執筆は自分の楽しみでもあった。普段の仕事とは違ったスタイルで文章が書けるからだ。

日本の新聞は「笑い」を排除した精神と文章作法で作られる。欧米紙がユーモアを(時に鼻につくほど)誇るのとは対照的だ。日本には真面目さを知的活動の模範とする妙な「伝統」があり、一方、欧米ではユーモアのセンスのない人間は知性に欠けるとみなされる。
エッセイストの山本夏彦はかつて「新聞は苦笑いしない」と喝破した。「成熟した大人なら、浮世は、苦笑いするしかない現実や矛盾に満ち溢れていると知っているはずだ」という山本の目には、日本の新聞は幼稚で野暮に映ったことだろう。

閑話休題。
私は普段、笑ってばかりいる人間だ。仕事中ですらケラケラ笑っていることが多い。
しかし、記事を書く際には、新聞の文体に合わせて「笑い」は封印する。新聞記事には、物語を書くときのような想像力の出番もない。
「おカネの教室」の軽い文体は、私が雑文を書く際の本来のスタイルに近い。家庭内連載は、本性を解放する絶好の場だった。「娘のために」は、多めに見積もっても執筆の動機の5割程度だっただろうか。

こんな経緯で、深く考えず、まして、いつか出版するなんてことは微塵も考えず、「サクサク書けば半年くらいで終わるだろう」と軽い気持ちで連載を決めた。
実際には連載は、長期休載をはさんで7年も続いたわけだが…。

 2 深夜のヒラメキ「6つの方法」

家庭内連載を始める時点で、「お金と経済」というテーマ以外に決めていたことがあった。「おカネの教室」というタイトルと、男の子と女の子を相手におかしな講師が講義をするという設定だ。
タイトルと設定は、野矢茂樹さんの「無限論の教室」から拝借した。無限という概念の不可思議さとゲーデルの不完全性定理の解説を軽い文体で展開する同書は、繰り返し読んだ愛読書。家庭内連載だったので何のためらいもなく真似してしまった…。野矢先生、ご容赦を。

小学生でもわかるように

「これは外せない」という要素は、いくつか見えていた。
まず、作中でいう「かせぐ」に当たる、付加価値の創造と経済成長というテーマ。これには「お父さんが稼いでいるから、君はご飯を食べてかわいい服を着てお小遣いももらえるのだよ」と理解させたいという「下心」もあったのは否めない。
お金はトリッキーで付き合い方は難しい、特に借金という行為は要注意だということも知ってほしい。これは私の骨がらみのテーマで、子供時代、親の借金で貧乏暮らしをした経験が色濃く出ている。
市場メカニズムが果たす「見えざる手」の絶妙な役割も必須だ。
当時はリーマンショックの余韻が残る時期だった。金融危機の背景や、世界的な貧富の格差といった問題も盛り込みたい。

むろん、こんな説教臭い内容を並べても、娘は読んでくれないし、書いていて楽しくもない。お金の不思議さ、面白さ、お金って何なんだろうという問いを、どう楽しく、わかりやすく読ませるか。

まず、登場人物の少年少女は、連載開始時の長女と同じ5年生とした(書籍版は2人を中学生に再設定してリライトしている)。
娘にとって身近な設定のもと、小学生にもわかるような言葉遣いで、面白い読み物にする。飽きっぽい我が娘に通読させるのと、「我が事」のように物語に感情移入してストンと腹に落ちる読書にするのが狙いだった。

頭の中で大風呂敷を広げて構想を練るのは、実に楽しい時間だった。

「和語」で行こう!

そんなある日、仕事を終えて深夜に帰宅して床に入り、習慣になっていた脳内一人企画会議を開いたときのことだった。
ふと、「『かせぐ』とか『ぬすむ』みたいな和語の動詞で経済活動を分類すれば、小学生でもとっつきやすいんじゃないか」というアイデアが浮かんだ。
そして、「お金を手に入れる方法って、いくつあるのかな」と数えてみた。
すぐに思いつくのは、上記の2つに「もらう」「かりる」「ふやす」を加えた5つ。
そして、ちょっと考えて、6つ目の方法も思い浮かんだ(ネタバレは避けます。気になる方は「おカネの教室」をご覧ください)
その後30分ほど、いろいろな経済活動を点検してみて、この6つでほぼすべてを語れると確信した。しかも、6つ目はお金の本質を握る意外な方法で、娘はそうそう気づきそうにない。
「これで行ける」と興奮して、その夜はなかなか寝付けなかった。

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(この「???」と、もう1つの謎が、物語を進める2つのエンジン)

舞台設定とストーリーの軸は固まった。あとは魅力的なキャラクターを配置すれば、書くだけだ。「これは面白い連載になるぞ」という予感を感じつつ、作中人物の造形に取り掛かった。

 3 3人組の誕生とキング方式

村上春樹は2015年刊の「職業としての小説家」でこう書いている。

たとえば、登場人物に名前を与えることが長いあいだできませんでした。(中略)うまく言えないんだけど、僕みたいな者が勝手に人に(たとえそれが自分がこしらえた架空の人物であれ)名前を賦与するなんて、「なんか嘘っぽい」という気がしたんです。

村上が登場人物に姓名を持たせたのは「ノルウェーの森」からで、デビューから8年ほどは「鼠」や「ジェイ」といった名前で乗り切っている。

命名の憂鬱

小説という虚構のなかでも、人物の名前は特に虚構の度合いが高い。力めば「中二病」を発症するし、ありきたりすぎては埋没してしまう。
河野多恵子は「小説の秘密をめぐる十二章」のなかで、「珍しすぎず、ありふれていない」名前を選ぶため、知己の多い友人に「こんな名前の知り合いはいるか」と尋ねるという面白い手法を披露している。

(相手が)ちょっと考えて「一人いらっしゃいます」という返事であれば、しめしめと思う。「三人あります」となれば、厭気がさして見合わせたくなる。

私も「なんだか気恥ずかしい」という気分があり、登場人物たちの名前はできるだけ肩の力をぬいて、あっさり決めたかった。

よし、まずは語り手である少年、「僕」。コイツから片付けよう。
社内を見渡すと、たまたま「城戸」という同僚の名前が目に留まった。知る限り、数千人の社員で一人しかいないようだ。これなら「河野基準」もクリアしている。そのままだと同僚の顔が浮かんでしまうので、一文字変えて「木戸」とした。
下の名前は甥っ子の「隼人」を採用。単純に、長女が「あ、隼人くんが出てきた」と面白がると思ったからだ。

これで良し、と冒頭の自己紹介のシーンを書き出してみると、「木戸隼人」という字面に引っかかるものがあった。少し考えて、苗字が長州、隼人が薩摩を連想させるからだと気づいた。
それで「僕」のニックネームを「サッチョウさん」とするアイデアが浮かんだ。芋づる式で顧問は「カイシュウ先生」、女の子は「ビャッコさん」と幕末絡みの呼び名がつくよう、名前を決めていった。
命名はこうして偶然と思い付きで乗り切ったわけだが、3人にカタカナ表記のちょっと変わった呼び名、コードネームのようなものを持たせることは先に決めていた。非日常感が出て秘密結社のメンバーのような結束感が芽生えそうだし、読者=長女にも親しみを持ってもらえるだろうと考えた。

ビジュアルとしても、人名が浮き上がり、文面が「白く」なる効果を期待した。河野も「主要人物は画数の多い漢字は避けるべき」として、繰り返し出てくると「見た目に汚らしい」と指摘している。
もう1つ、大きな要素は「音」で覚えやすいことだ。
私は音読を前提としたリズム重視の文章を書く。読み手として好きな文章も音読に耐えるものだ。3人組のニックネームは、リズムがあり、これは書きやすさ、書く楽しさを増してくれた。

筆任せ「スティーブン・キング」方式

その後は完全な「筆任せ」で書いた。決めていたのは以下のようなポイントぐらいだった。

・主人公は平凡な少年。意に反して「そろばんクラブ」に入る
・女の子は大富豪の娘。「恵まれすぎ」な自分に少女らしい罪悪感を持つ
・講師の経歴等は謎。言葉遣いは丁寧だが、毒舌。綺麗ごとは言わない
・講師が次々と課題を出す(読者=長女に一緒に考えさせる)
・課題にそって「お金を手に入れる6つの方法」を掘り下げる
・最初の課題は「あなたのお値段、おいくら?」
・これで「かせぐ」と「もらう」と「ぬすむ」という基本を提示
・基本が終わったら、「かりる」と「ふやす」で金融論に展開
・6つ目の答えで「その手があったか!」とびっくりさせる

平凡な少年と大富豪の令嬢という組み合わせは、コントラストと多様性が経済の論点や物語の展開を助けてくれると思って設定した。主人公が無色の方がわき役の輪郭がくっきりするとも考えていた。
顧問の先生を2メートルの長身としたのは登場シーンを書いたときの思い付きだ。主人公がびっくりする、いわば「つかみ」のためのキャラ作りだった。極端な容姿の方が教室内の講義という地味な設定に変化が生じるという計算はあった。
そのとき浮かんだのがジョージ・マイカンという黎明期のプロバスケの名選手だったので、後々、外国人かハーフという具合に話が展開するだろうとな、とは考えた。

こんな調子で、登場人物たちの肉付けも、筆に任せてその場その場で決めていった。「そろばん勘定クラブ」というネーミングすら、カイシュウ先生が「そろばんクラブ」と板書してから思いついた。

こうした書き方は、スティーブン・キングの「書くことについて」の影響だ。
2001年に「小説作法」というタイトルで単行本が出たときから何度も読み返している愛読書で、原題はOn Writing。少し引用してみる。

最初に状況設定がある。そのあとにはまだなんの個性も陰影も持たない人物が登場する。心のなかでこういった設定がすむと、叙述にとりかかる。結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。

キングはこの小説指南書のなかで、ストーリーとキャラクターの動きを縛るプロットを「粗暴で、無個性で、反創造的」な削岩機にたとえている。彼にとって、ストーリーテリングは、地中に埋もれた化石を掘り出すような繊細な作業だという。
キングによれば、小説に必要なのは、

1 物語を一歩ずつ進める叙述
2 リアリティを保つ描写
3 登場人物に生命を吹き込む会話

の3要素であって、プロットは無用の長物と切り捨てる。敷かれたレールのような筋書きは、登場人物から躍動感を奪う有害な縛りだという考え方だ。

無論、「これが唯一の正解」ではないだろうが、前述した家庭内連載第1号の童話「ポドモド」でキング方式を試したところ、ぐんぐん書き進められるだけでなく、書いている自分自身が先が読めない面白さを実感した。

「書くことについて」から、もう一か所、大好きな部分を紹介する。
6歳になったキングは、戦記物のコミックを模倣して読み物を書き出す。それを見せると、母は驚いた表情をみせたあとで、「これはオリジナルなのか」と聞く。キングが模倣だと認め、母は言う。

「スティーヴィー、お前ならもっといいものが書けるはずよ。自分で書きなさい」
私は覚えている。母の言葉に無限の可能性を感じたことを。豪壮な邸宅に通されて、どのドアをあけてもいいという許可を与えられたようなものだ。そこにあるドアの数はひとが一生かかってもあけられないほど多い。そのときも、いまも、私はそう思っている。

私も、「おカネの教室」というドアを開けて、物語を起動させた。期待通り、いや期待以上に、キャラクターたちは自由に動き出し、ストーリーと連載は思いもよらない方向へと進んでいった。

 4 勝手に動き出す登場人物たち

当初、作品は10章程度の短編で、月に2本として年内には連載は終わるだろう、と計算していた。
連載が想定外に長期化したのは、「キング方式」の威力で、登場人物たちの言動や思惑が作者の手から大きく離れてしまったためだ。

「おカネの教室」の読者からは、顧問のカイシュウ先生は作者の分身では、という指摘をよく受ける。
実際、物事の説明の仕方や考え方は似ているところはある。毒舌で、すきあらばウンチクを傾けるところなどはそっくりかもしれない(書籍版ではごっそり削ったが、家庭内連載版では彼はウンチク魔である)。
だが、実際には、カイシュウ先生は、分身どころか、ちっとも作者の思うようには動かないキャラだった。
特に、彼の前歴がマーケット分析に高度な数学を駆使する「クオンツ」だったと判明(事前設定はなし)したあたりから、彼自身の人生遍歴が語り口や少年・少女との関係に影響を与え始めた。
たとえばリーマンショックを読み解くシーン。危機の分析は私の個人的見解に沿ったもので、怒りに似た感情はカイシュウ先生と共有している。だが、彼にとってはそれ以上に、忸怩たる思い、後悔の念を想起させる人生の転機でもある。この感情は彼だけのものだ。

ビャッコさんよ、お前もか

勝手に動き出したのはカイシュウ先生だけではない。
ビャッコさんの家庭の事情も、書き進めてみると意外と深刻で(繰り返すが、事前の設定はない)、特に父親との関係悪化は、娘を持つ身として他人事ではない気分にさせられた。
ネタバレになるので詳しく書けないが、このあたりから、「お金を手に入れる6つ目の方法」と並ぶ、この作品のもう一つの謎が作者の頭の中にもちらつくようになった。
「この謎はどう決着するのだろう」という興味は、後述するように、長期休載で作品が中絶されなかった理由の一つだった。実際、作品を書き上げてみると、その「謎」は作者が思っていたのと違った着地を見せた。その場面に差し掛かってみて、「ああ、そうだったのか」と驚くとともに、とてもスッキリしたのを覚えている。

そして、「僕」ことサッチョウさん。この少年は「無色の語り手にしてツッコミ役」という狂言回しに徹するはずだったのだが、案の定、ビャッコさんに無謀な恋心を抱きはじめ、私は書きながら「お前、こんな高嶺の花に惚れてどうするつもりだ? 嫌な予感しかしないぞ?」とニヤニヤと見守るような気分になっていた。そのうち講義で意外な活躍をみせて、「やるな」と見直したりもした。

こんな具合にキャラクターを自由に泳がせる「キング方式」は、特殊な方法ではない。村上春樹も「職業としての小説家」にこう書いている。

多くの場合、僕の小説に登場するキャラクターは、話の流れの中で自然に形成されていきます。「こういうキャラクターを出そう」と前もって決めることは、僅かな例外を別にすれば、まずありません。書き進めていくうち、出てくる人々のあり様の軸みたいなものが自然に立ち上がり、そこにいろんなディテールが次々に勝手にくっついていきます。磁石が鉄片をくっつけていくみたいに、そのようにして全体的な人物像ができあがっていきます。

この本には、登場人物が起こすサプライズについて、こんな下りもある。

「リアルで、興味深く、ある程度予測不可能」という以上に、小説のキャラクターにとって重要だと僕が考えるのは、「その人物がどれくらい話を前に導いてくれるか」ということです。その登場人物をこしらえたのはもちろん作者ですが、本当の意味で生きた登場人物は、ある時点で作者の手を離れ、自立的に行動し始めます。(中略)その結果、小説家はただ目の前で進行していることをそのまま文章に書き写せばいいという、きわめて幸福な状況が現出します。そしてある場合には、そのキャラクターが小説家の手を取って、彼をあるいは彼女を、前もって予想もしなかったような意外な場所に導くことになります。

村上は一例に「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を挙げる。作者はもともと短編として書いていたのに、登場人物のたった一つのセリフをきっかけに小説の方向性が一変して長編にサイズアップしたという。村上は「それは僕自身にとっても大きな驚きでした」と振り返っている。

「離れ業」の快感

登場人物が勝手に動き出したことは、村上が言うように、書いていて楽しく、「きわめて幸福な状況」だったが、「経済の基礎」を長女に伝えるという本来の連載の目的からすると、難しさが出てきた。想定していた「サクッと、大づかみに基礎を教える」では済まなくなってしまったのだ。

大上段に構えると、少女ビャッコさんの悩みは、市場経済のあるべき姿や格差問題といった根深く、簡単には答えられない問いを含んでいる。特に地主という存在をどう位置づけるかという問題が、一筋縄ではいかず、実に厄介だった。頑固なビャッコさんが納得する答えを示そうとカイシュウ先生が奮闘すると、内容も踏み込んだものにならざるを得ない。
一方で、「これは入れたい」と思っていた基礎の一部、たとえば為替市場や中央銀行などの要素はほぼ完全に抜け落ちてしまった。経済入門書としてみればこれは欠点だろうが、仕方ない。登場人物たちが興味を持ってくれないのだから。

それでも、私はキングの教えにならい、登場人物たちの世界の成り行きに身をゆだねて、「叙述と描写と会話」を重ねることに専念した。どうせ家庭内連載だし、締め切りがあるわけでもない。楽しんで書いてしまおう、という気楽な開き直りだった。
同時に、この方針は私に、「市場経済をベースとした現代社会の全体像」を小中学生でもわかる言葉で表現するという離れ業を強いることになった。
そうしないと、ストーリーが前に進まないのだ。
それは、簡単ではないが、とても刺激的で、とても達成感が大きい作業だった。
どの程度、その試みが成功したかは、読者の判断に委ねたい。

こうして物語が軌道に乗ってペースがつかめた頃、現実世界から「待った」がかかった。本業が忙しすぎて、執筆に手が回らなくなったのである。

 5 長期休載は「死の接吻」

最初に述べた通り、私の本業はサラリーマン記者だ。執筆ペースが仕事の繁閑に左右されるのは避けられない。「お金の教室」の連載ペースを見てみよう。初稿は32ほどのチャプターから成り立っていた。

2010年 1~7章 7回
2011年 8~13章 6回
2012年 14~16章 3回
2013年 17~20章 4回
2014~15年 休載
2016年 21~32章 12回

ご覧のように、連載初年から徐々にペースダウンし、2014~15年の休載を経て、16年の連載再開後に一気にゴールまで突っ走っている。
この連載ペースは、綺麗に本業とリンクしている。
2012年末に安倍政権が誕生。株式や債券などマーケット報道チームの責任者(キャップ)だった私は、文字通り、忙殺状態に陥った。アベノミクス相場の到来だ。キャップ業は2年にわたり、この間、執筆ペースは大きく落ちた。

2014年には未経験の国際ニュース報道の担当部署で、しかも初めてエディター(デスク)をやることになった。ここでの1年も、ロシアのクリミア併合から「イスラム国」台頭など怒涛の日々で、「おカネの教室」に回せる時間も余裕も皆無だった。

国際報道担当は1年でお役御免となり、2015年春には慣れた前の部署に戻った。
だが、多少の余裕はできたのに、連載は再開できなかった。
なぜか。再び、キングの「書くことについて」から引く。

いったんとりかかったら、よほどのことがないかぎり中断もしないし、ペースダウンもしない。毎日こつこつ書きつづけていないと、頭の中で登場人物が艶を失い、薄っぺらになってしまう。語り口は切れ味が鈍り、プロットやペースを制御することができなくなる。なお悪いことに、新しいストーリーを紡ぎだす感興そのものが色褪せてしまう。こうなると、仕事は苦役と変わりなくなる。大方の作家にとって、それは死の接吻に等しい。文章がもっとも光り輝くのは(いつだって、いつだって、いつだって)インスピレーションに導かれて書いたときだ。

ただでさえ間が空きがちな休日作家。コンスタントに書いていたときでも、執筆前はそこまで書いた部分を読み返す「助走」が欠かせなかった。実際、前半の各章は軽く100回以上読み返していると思う。
1年も物語から離れれば、キングが言う「苦役」状態は避けがたい。
幸か不幸か、読者=長女の「取り立て」は甘かった。「そのうち書くね」とごまかし続けた。

そんな日々のなかで、折にふれて申し訳ない気持ちが沸き起こった。
長女に対してではなく、登場人物の3人組に対して申し訳なかった。
この頃には、彼らはまるで独立した人格を持つ友人のような存在になっていた。それはそうだろう。もう4~5年の「付き合い」だったのだから。
ふと考え事をしたり、布団に入ったりしていると、彼らが思考に割り込んできて、「先を書け」と催促するような目で見られることがしばしばあった。頭の中で、作中では描いていない会話やシーンが展開され、それを「傍聴」することもあった。彼らは作品の世界で生きていた。
だが、彼らは生きてはいても、作品が中断されたところで「足踏み」していた。私が物語を書き続ける運動のなかでしか、彼らの世界の時計の針は進まないようだった。

ビャッコさんの悩みはどうなるのだろう。物語はどんな結末を迎えるのだろう。
私自身、先は気になるし、彼らには催促されるし…でも、仕事がそこそこ忙しいのもあり、「苦役」に向かう気が起きない。
提出期限のない宿題を抱えた子供のような心境で、日々は過ぎていった。

そこに転機が訪れた。2015年の年末に、翌春からのロンドン赴任が決まったのだ。

 6 ロンドンで連載再開

結局、私と家族は2018年の春まで、ロンドンで2年暮らすことになる。自分にとって初めての海外生活だった。私は現在も国際ニュースの担当デスクをやっているが、留学も駐在記者としての経験もなく、いわゆる「まるドメ」人生を歩んできた。いまでも英語は苦手だ。当初は生活を軌道に乗せるのに四苦八苦した。

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(一足先に立つ私に長女がくれたイラスト。家族は5月に合流した。右上から時計回りに奥さん、長女、三女、次女)

幸い、理解のある上司で、「仕事は焦らず、向こう半年は慣れることを優先せよ」と寛容な指示をいただき、私もそのつもりでマイペースを保っていた。

あの、運命の6月23日までは。

まさかのBrexit

2016年6月23日、イギリスは大方の予想を裏切って国民投票で欧州連合からの離脱、いわゆるBrexitを決めた。詳細は省くが、そこから怒涛の日々が始まった。とてもじゃないが、「おカネの教室」に割く余力は無かった。
だが、人間とは不思議なものだ。忙しくなるほど、逆に「何か仕事以外で発散したい」という思いも強くなった。
ロンドンでの仕事はいわば「仕切り役」で、自分で記事を書くことはほぼない。記者の原稿を編集する機会も激減した。Brexit騒動が少し落ち着くと、「何か書きたい」という欲求が高まってきた。

もともと、私には「時間がとれるロンドンにいる間に1つか2つ、小説を書き上げよう」という心づもりがあった。若いころから小説が好きで、「いつかは」と思い続け、長年、練っていた構想もいくつかあった。
この時点では「おカネの教室」は、あくまで「その前に片付ける私的読み物」でしかなかった。頭の中の「彼ら」を満足させてご退場願わないと、新たなキャラクターたちを遊ばせる余地ができないと感じていた。

「今書けなかったら、一生書けない」

ロンドンは東京との時差が絶妙で、仕事はそれなりに忙しいものの、勤務時間はきわめて「ホワイト」だった。早朝の東京との電話打ち合わせを除けば、「9時5時」に近い。残業もそれほどなく、平日でも夕食後に1~2時間は執筆時間が取れる。おまけに土日はほぼ休み。まとまった休暇は家族で旅行三昧だったが、これだけ時間があれば、あとは「やる気」の問題だった。「今、書けなかったら、自分は一生、小説を書きあげることはできないだろうな」。そんな思いが、執筆中断に伴う「苦役」に立ち向かう力をくれた。

意を決して、「まずはこれを片付けよう」と久しぶりに「おカネの教室」を丹念に読み返してみると、のんきな話だが、「これ、面白いじゃないか」と自分で感心してしまった。同時に「続きが気になる。最後はどうなるんだろう」という興味がよみがえった。
こうなると、手ぐすね引いてまっていた3人組が「復活」するのに時間はかからなかった。

2年も凍り付いていた物語が、再び動き出した。

 7 ついに完結

執筆を再開したのは、「体育館での講義」のあたりだった。
カイシュウ先生が講義全体を総括し、それを格差問題の核心を突くピケティの仮説につなげる、「おカネの教室」のハイライトともいえるシーンだ。
完成後に試読してもらった友人のファンドマネジャー、平山賢一さんからは「読んでいて、ピケティが出てきたところには仰け反りました」という感想をいただいた。

それはそうだろう。書いていた本人が、のけぞるほど驚いたのだから。

「あ、これ、本になるかも」

誇張ではなく、3人の会話の中から突然、「ピケティの不等式」が飛び出してきたのだ。
もちろん「21世紀の資本」を読んでいたし、長年関心を持ってきた格差問題は、どこかで触れたいと思っていた。
しかし、こんな形でこの上ないほど自然な形でピケティとストーリーがつながるとは、まったく予想していなかった。
書いていて、「カイシュウ先生、やるな!」と感心するとともに、ふと、「あ、これ、本になるかも」という思いが浮かんだ。内輪ネタ満載の家庭内連載に、初めて将来の出版の可能性を感じた瞬間だった。
今でも、ピケティにつなげた離れ業は、私ではなく、カイシュウ先生のお手柄だと思っている。
キング方式、恐るべし。

そこからは、一気呵成だった。
ネタバレになるので詳しく書けないが、「もう1つの謎解き」のシーンでも、作者の予想は裏切られ、「おお、そうきたか」と驚かされた。
この場面は、完全に作中人物たちにストーリーテリングの主導権を握られてしまい、私は書記兼第一読者という状態で、あっという間に書きあがった。
のちに何度もリライトを重ねたときも、このパートはほとんど書き直していない。

文章がもっとも光り輝くのは(いつだって、いつだって、いつだって)インスピレーションに導かれて書いたときだ。

前掲のキングの言葉は、真実だった。

残るは「お金を手に入れる6つ目の方法」の謎解きのクライマックスと、エピローグだけ。さすがにここまでくれば、私には着地点が見えてきた。
それでも、3人組は最後まで、いくつかの嬉しい誤算、作者の思惑を超えた言動をみせてくれて、書く喜びを堪能させてもらった。

7年の長期連載に幕

そして2016年10月某日。
ついに約21万文字、原稿用紙換算で530枚超の「おカネの教室」の初稿が完成した。

これは、職業作家なら1~3か月もあれば書ける分量だろう。兼業作家でも、集中して取り組めば、半年か1年で書けるかもしれない。7年もかかったのは私の怠慢によるところ大、だが、良い点もあった。読者=長女の成長にあわせて、内容が徐々に高度で濃密なものにシフトしていったことだ。
連載期間は10歳だった娘が中学、高校と進学する時期にわたっている。その時々の時事問題を織り込みつつ、大ぶりのテーマをカバーすることができた。
そんな「骨格」を持っているからこそ、リライトを経て、「おカネの教室」は大人でも楽しんでもらえる読み物になったのだと思う。

最終回をプリントアウトすると、待ちわびていた次女がさっそく読んで、「よし!6つ目の方法、合ってた!」と喜んでいた姿をよく覚えている。
その晩は完成を記念して、ロンドン・ウエストアクトン名物、日本食材店アタリヤの極上ネタで手巻き寿司パーティーとなった。
エールを飲みつつ、私は、長期連載を終えた達成感とともに、3人組とお別れする寂しさを感じていた。

だが、そんな感傷はまったくの勘違いだった。
Kindle版の個人出版と、その1年後の2018年春の書籍化に向けたリライトで、彼らとはまだまだ濃密な「お付き合い」が続くのだった。

II 1万ダウンロード! Kindle個人出版編

Kindleの個人出版「Kindle Direct Publishing(KDP)は」、誰でもほぼノーコストで電子書籍市場に参入できる、作家・ライター志望者には夢のようなインフラだ。
このKDP版で「おカネの教室」は累計1万ダウンロード超の異例のヒットを記録した。

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この快挙はいかにして成し遂げられたか。個人出版編では、コンテンツ作りやKDPのマーケティング、ロイヤリティー収入の内幕などを詳細に紹介する。

「ダウンロード数」について、定義のようなものを下記に記します(KDPの詳細に興味のない方は下のボックスは飛ばしてください)

Kindleには「Unlimited」という定額読み放題サービスがある。月額980円払えば、文字通り、数十万の対象コンテンツが無制限に読める。「おカネの教室」の場合、読者の9割はUnlimitedだった。コンテンツ購入と違い、Unlimitedはダウンロードしたかどうか作者にはわからない。分かるのは読んだもらったぺージ数だけだ。そこで便宜上、この既読ページ総数を作品のページ数で割った「読了換算数」をダウンロード数として集計した。途中で投げ出す人もいるだろうから、単純なダウンロードより堅めの数字になるはずだ。

 8 リライトの極意「寝かせて、削る」

7年にわたる家庭内連載が完結したのは2016年10月のことだった。
この時点ではKDPを含めて出版の予定はなかったが、私は全面的にリライトして作品の完成度を高めるつもりだった。
「完成形にして娘たちに繰り返し読んでもらえるものにしたい」という思いとともに、「せっかくだから友人や知人にばらまこう」と考えたからだ。
見栄っ張りなので、未完成のものを拡散するのはプライドが許さなかった。

1か月「寝かせる」

まずはリライトの準備に取り掛かった。
とよりも、何も取り掛からないことにした。
原稿を「寝かせた」のだ。
私のバイブル、スティーブン・キングの「書くことについて」から引用する。

原稿をどれだけ寝かせたらいいかはひとによってちがうが、私は六週間を最低の目安としている。(中略) あなたはその原稿のことが気になってならず、何度もそれを取り出したいという衝動に駆られるだろう。(中略) だが、誘惑に負けてはならない。(中略) 機はまだ熟していない。(中略) かつて数か月にわたって毎日数時間をあてた非現実の世界をほぼ忘れかけたときが、ようやく引き出しのなかの原稿に向きあえるときなのだ。

昔から「夜書いた手紙は朝読みなおしてから出せ」と言われる。今ならSNSの投稿がそうだろう。「寝かす」ことには、そういった頭を冷やすという効能以上の意味がある。さらにキングを引こう。

はじめて経験する者は、六週間ぶりに自分の原稿を読むことに不思議な感慨を覚えるだろう。(中略)「自分と瓜ふたつの他人が書いた原稿を読んでいるような気がするにちがいない。それでいい。それこそが時間を置いた理由なのだ。いつだって、自分が愛している者より、他人が愛している者を切り捨てる方が気が楽だ。

「切り捨てる」とは、原稿をバサバサと削ることを差す。キングの教えにならい、1か月ほど原稿を寝かせてから、私は第2稿に取り掛かった。

初稿から2割カット

リライトがどう進んだのか、初稿と第2稿の分量を比べてみよう。

初稿  21万4600文字 229ページ
第2稿 16万9600文字 175ページ

文字数、ページ数とも2割ほど圧縮している。
どんな調子でガシガシやったか、少し長くなるが、初稿の冒頭シーンを引用する。読む必要はない。太字が「削り」対象なので、残した部分とのバランスだけご覧いただきたい。

 思ったとおり、教室はがらんとしていた。
 こういうとき、どこに座るかってのは、なかなか難しい問題だ。
 教壇の真ん前に座るのはいやだ。でも、一番うしろとかもまずい。「さ、空いてるから、前に」なんてちょいちょいと呼び寄せられて、結局、先生の目の前に座らされるかもしれない。

 ねらい目は真ん中あたり、しかも右か左にずらした席だな。ちょっと迷ってから、僕は校庭の窓側寄り二列目、前から三番目の席についた。
 外をながめると、校庭の真ん中では野球クラブとサッカークラブ、正門近くのスペースではテニスクラブが準備体操をしている。ため息が出る。
 こんなところに座ってなくちゃいけないのは、ひとえに僕のくじ運が最低の最悪だからだ。
 
 姉貴はいつも「くじ運は生まれつきの才能」と自慢する。確かにヤツは、強力な「引き」を持っている。この前なんて、ショッピングモールの抽選で、わずか六回のチャンスで二等と四等を引き当ててみせた。商品はポインセチアかなんかの植木とやわらかティッシュ二箱だったけど、父さんも母さんも大喜びだった。「さすが」とか言って。僕だってガラガラポンって球が飛び出るやつ、回してみたかったのに。母さんははじめから「ここは千秋の出番ね」なんて言って僕を軽く無視してくださった。
 まあ、いい。それより、僕のくじ運がひどいって話だ。
 サッカークラブから落ちたのは仕方ない。クラスの男子二十人のうち十八人が希望して、当選枠は五人しかなかったんだから。でも、四年生、五年生に続く三連敗は、けっこうへこむ。
 ひどかったのは野球クラブの抽選だ。希望が十人で五人が通るっていうわりと「広き門」だったのに。
 気がついたらバスケットボールとかほかのクラブはみんな埋まってて、
残ったのは英語クラブと、ここだけだった。英語は論外。姉貴が下手くそな巻き舌で教科書を読んでるのを聞いてるだけで鳥肌がたつ。
つまり、僕に選択の余地はなかったのだ。
 でも、こんなクラブ、五年の時には無かったよな。「なんで、いまどき」とぼやいたら、小木曽先生、ニヤニヤして「英語にしてもいいんだぞ」だって。さすが三年生から続けて担任だっただけに、僕の嫌いなものをよく知ってる。
 時計を見上げると、もう三時半を回っている。でも、まだ誰も来ない。よっぽど人気ないんだろうな。というか、顧問の先生すら来ないって、どういうこと?
「ようこそ!」
 突然、教室の後ろから大きな声がして、僕はビクッと飛び上がってしまった。大げさじゃなく、三センチくらい。ほんとに、飛んだ。

連載モノとしてはリズムが出るような描写や独白も、読み切りモノとしては冗長で退屈に感じる。こういう部分をバサバサと落とした。
ちなみに書籍版はこの第2稿からさらに削っている。後ほど商業出版編で比較してみるのでお楽しみに。

「削る」という基本方針について、キングの面白いエピソードを紹介しよう。ハイスクール時代、投稿した雑誌から次々届く不採用通知のなかに、キングの手法を一変させた一通があったという。

編集者の署名(印刷されたもの)の下に、こう記されていたのである。”悪くはないが、冗長。もっと切りつめたほうがいい。公式 ーー 2次稿=1次稿マイナス10%。成功を祈っています”

それまでキングの第2稿は、初稿より長くなりがちだったという。
やってみると分かるが、原稿というのはその気になれば削れる個所は多く、しかもほぼ間違いなく、削ったほうが良い文章になる。
この作業を徹底するためにも、「寝かせ」て他人になる儀式が必要なのだ。

「穴」を埋める

贅肉を落とす作業とともに大切なのは、ストーリーとキャラクターの一貫性の確保だ。
「おカネの教室」は連載時、キャラ任せ・筆任せの「キング方式」で執筆した。同じように「いきあたりばったり、思いつくままどんどん即興的に」書くという村上春樹は、第2稿の作り方をこう語る。

そういう書き方をしていると、結果的に矛盾する箇所、筋が通らない箇所がたくさん出てきます。登場人物の設定や性格が、途中でがらりと変わってしまったりもします。時間の設定が前後したりもします。そういう食い違った個所をひとつひとつ調整し、筋の通った整合的な物語にしていかなくてはなりません。(「職業としての小説家」より)

「おカネの教室」の場合、初稿には以下の2つの大きな「穴」があった。

①ビャッコさんのキャラがぶれている
②「かせぐ」「ぬすむ」「もらう」の説明が混乱している

①は、村上が言うように、キャラの性格が書いているうちにずれていった結果だった。初稿のビャッコさんは最初、ちょっと感じの悪いキャラとして描かれている。ちなみに作者の脳内イメージは「不機嫌な椎名林檎」だった。
心を閉ざし気味だったビャッコさんが徐々に打ち解ける、という流れ自体は残しつつ、前半と後半のギャップを埋め、変化をマイルドにした。

厄介だったのは②の講義内容の混乱だった。
これも「行き当たりばったり」の産物で、カイシュウ先生の説明は回りくどく、前後が食い違う部分もあった。書籍版では立て板に水の講義を展開する彼も、実は生徒2人のツッコミに大いに苦戦していたのだ。書いている私も一心同体で四苦八苦していたわけだが。
この②の解消はかなり難題で、結局、リライトには1か月程度かかった。

「世間」に出た家庭内連載

2016年12月14日、私はFacebookにこう投稿した。

三姉妹向けに書いていたお話が書きあがった。「おカネの教室」というタイトル。ということで、完成特別記念で(笑)、読んでみたいという奇特な方、以下のアドレスにリクエストいただいたらファイルをお送りします。Word形式です。

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この時点でもなお、私には、KDPも含めて出版の心づもりはなかった。配ったファイルの作者名は「おとうさん」のままだった。
ともあれ、家庭内連載はこうして初めて「世間」の目に触れることになった。そして、それは予想外の反応を呼び起こした。

 9 よみがえった「電子書籍の衝撃」の衝撃

投稿に反応してくれた親類や高校・大学時代の友人20人ほどにせっせとファイルを送った。しばらくして感想が返ってきた。
「超面白い」「本にしたら絶対売れる!」という声のほか、「こんな素晴らしい本をタダでシェアしてくれるなんて、アナタは素晴らしい人だ」なんていう面はゆいものもあった。
自分でも「これ、なかなか面白いよな」とは思っていたが、ここまでの反響は予想外だった。

商業出版に向かない「変な本」

とはいえ、「こんな変な本は出版社からは出せないだろう」というのが私の冷静な判断だった。「書店のどのコーナーに並ぶか想像できない」と思ったからだ。この「置く棚が決まらない」問題は商業出版後も続いている…。
しかも私は当時ロンドンにいた。出版社に伝手もなく、売り込みに歩くわけにもいかない。

「さて、どうしたものか」と思ったとき、浮かんだのが電子書籍の個人出版という選択だった。それには2010年刊の「電子書籍の衝撃」(佐々木俊尚)という本の記憶が強く影響していた。

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当時、情報通信業界の担当記者になった私は、お勉強の一環でこの本を読み、文字通り、衝撃を受けた。読了してすぐ米AmazonからKindleの端末を取り寄せたくらいだ。
最も印象深かったのは、書き手にとっての電子書籍のインパクトを指摘した部分だった。同書は電子書籍の「生態系」が完成し、従来の紙の本と違う世界を築く条件に、

①適切なデバイスの普及
②プラットフォームの出現

を挙げたあと、こう記している。

第三に、有名作家か無名のアマチュアかという属性が剥ぎ取られ、本がフラット化していくこと。
第四に、電子ブックと読者が素晴らしい出会いの機会をもたらす新しいマッチングモデルが構築されてくること。(「電子書籍の衝撃」より)

今読めば、「そりゃそうだろう」と思うかもしれない。
だが、この本が出たのは2010年、iPadの発売前なのだ。私個人で言えば、iPhone3GSでスマホデビューした直後のことだった。
今回、再読してみて、「予言の書」としての先見性に改めて驚いた。当時の自分が衝撃を受けたのも道理だ。
「電子書籍なら、いつか自分も自由に出せる」。
そのとき感じた興奮が「おカネの教室」の着地点とつながった。
偶然だが、「おカネの教室」の家庭内連載は「電子書籍の衝撃」を読んだのとほぼ同時期に始まっている。スティーブ・ジョブスが言い残した通り、「どの点とどの点がつながるかは、つながる時までわからない」ものだ。

最終確認のつもりで商業出版の経験者の友人2人にも「おカネの教室」を送って意見を求めた。2人はやはりほぼ私と同意見だった。
方針を固めた私は、Kindleでの個人出版について情報収集を始めた。
そして、その、あまりのお手軽さに、拍子抜けした。

 10 超お手軽 Kindle個人出版

当時も今も、「個人でKindle本を出したんですよ」と話すと、「すごいですね」という反応が返ってくることがある。
実はこれ、何もすごくない。少し調べればわかるが、Kindle Direct Publishing(KDP)は、あまりにも簡単で、コストもほぼゼロなのだ。
Amazonのアカウントを持っていれば、

①ロイヤリティーの受け取り口座設定
②コンテンツのアップロード

この2つだけでKindleストアに参入できる。ファイル形式は自動変換されるので原稿はWordでも大丈夫だ(この原稿もWordで編集している)
①はいわば初期設定だから、2冊目以降は文字通り、あっという間に出て、有名作家も無名のアマチュアも同列に「市場」に並ぶ。

本も見た目が9割?

「おカネの教室」の場合、目次や著者プロフィルなどを足した程度で、テキストの準備は1~2時間で終わった。

一方、表紙には時間をかけた。Kindleストア内で、商業出版とKDPの表紙のクオリティの違いは小さなサムネイルでも歴然としている。自分で回遊してみて「表紙が安っぽいKDP」は絶望的に読む気が起きないと悟った。
表紙の作成には長女が大活躍した。親馬鹿は承知だが、長女はデザインの感覚がかなり優れている。少なくとも私よりははるかにセンスがある。
最初に私が作った表紙は、我が家のアートディレクターから「読む気が起きない」と完全なダメ出しをくらった。
ディレクター様からはこんな指示が出た。

・もっと教室っぽい奥行きのある写真にする
・普通の本のように、推薦文付きの帯をつける
・文字は少なめ、フォントは大きめにする

アドバイスを受けて、まずはネットで素材を探して写真を購入。長女がデザイン全般と色使い、私が文言と題字(iPadの黒板アプリで指書きした)を担当した。前編・後編それぞれへの推薦文を前述の出版経験者のお2人にお願いした。
ちなみに作業はすべてiPadの無料アプリ「ibis Paint」でやったので、コストは写真代など総額500円ほどしかかかっていない。

ほぼ丸1日の作業で完成した最終バージョンがこれだ。

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(残念ながらKDP版は現在、新規配信停止中)

これは長女も私も「会心の出来」とかなり気にいっている。ストアで並んでも商業出版に引けをとっていなかった。この「顔」の良さはヒットにかなり貢献したのではないかと思う。
「この世にお金を…」という2行の文は、のちの商業出版の際にもほぼそのまま帯に採用されている。

あっという間にストアに

準備はすべて整った。
2017年3月5日のロンドン時間午前0時ごろ、私はKDPの著者管理サイトの「発売する」をクリックした。コンテンツのステータスは「下書き」から「レビュー中」となり、「審査は通常48時間以内に終わります」といった趣旨のメッセージが出た。
「明日か明後日には出るってことね」
私は「ついに、やっちまったな!」と思いながら、ベッドに入った。

その晩、私は夜中の3時前に小用に立った。寝ぼけ眼でスマホで検索してみると、Kindleストアにはもう「おカネの教室」が並んでいた。
「おい、いくらなんでも、簡単すぎんだろ!」
笑いと驚きで目が覚めてしまい、階下に降りてエールで一人で乾杯した。
こうして家庭内連載の「変な本」は、ひっそりと世に出た。

 11 Amazonレビューの光と闇

出したはいいが、無名の新人の個人出版など、誰も興味を持つはずがない。
誰も出たことすら気づかない。
最初に頼りになるのは知人と「口コミ」のみだ。Facebookで拡散すると、知人を中心に短期間でダウンロードがそこそこ伸びた。
そして実感したのはKindle市場の恐ろしい過疎っぷりであった。最初の2日で30部ほど売れると、売れ筋新刊コーナーでいきなり7位にランクイン。児童書部門の2位に躍り出た。
「だれでも本を出せるKDPは素晴らしい。でも、誰も読んでくれない」という情報は、事前にネットで把握はしていた。Kindle市場のコンテンツは数十万単位ある。よほどちゃんとマーケティングしないと、「コンテンツの海」に沈没するのは目に見えていた。

「後編400円」のワケ

マーケティングという視点から価格設定について触れておきたい。
「おカネの教室」は当初、前編100円、後編400円の2分冊とした。全体で500円というのはKDPではかなり高価格だ。
あえてそうしたのは、「後編を買ってくれた人=読了してくれた人」の数を把握したかったからだ。
前編は客寄せ用の試し読みで100円。
続きを読みたくもないのに400円追加で払う人はいないだろうから、「買った人=通読した人」と見てよいだろう。

私には「KDPでもうける」発想は全くなかった。事前の販売予想は1年で良くても1000部程度、収入は数万円だろうとみていた。うまいもの食って散財しよう、くらいの感覚だった。
収入より「多くの人に自分のお気に入りの作品を読んでほしい」「どれぐらい満足してもらえたのか知りたい」という気持ちが強かった。
あえて付け加えれば、「大事に読んでほしいから、たたき売りはしたくない」という気持ちもあった。

サクラレビューの真実

マーケティングのもう一つのポイントであり、死活的に売れ行きを左右するファクターが、レビューだ。
さて、Amazonレビューといえば、サクラ疑惑である。
白状しよう。私も最初、サクラを動員した。無料配布で読んでくれた友人や親類など数人に「レビューを書いて」と頼み込んだ。
「評価を盛りたい」というより、「呼び水」がないと普通の読者が感想を書き込みにくいと思ったからだ。自分でレビューを書き込むダークサイドまでは堕ちなかった…。

余談だが、先般、ある企業を取り上げた新刊が発売直後に5つ星レビュー連発でランキングトップに躍り出た。すると、いきなり「社員です」というタイトルで1つ星レビューが登場。会社に購入とサクラレビューを強要されていると告発した。そのレビューに「参考になった」が集中し、代表的レビューとして表示されるようになったかと思ったら、数日後にひっそりと削除されてしまった。
Amazonレビューの闇は深い…。

そんなホラーなケースと比べると、「おカネの教室」は、自分で言うのもなんだが、良心的(?)だったと思う。「頼むから書いて」という完全なサクラは最初の数件のみだ。
それ以外にもグレーゾーンの「お願い」は数件あった。
Facebookやメールで「面白かった!」と感想をくれた人に、「Amazonにレビューを書いてくれると嬉しい」と伝えた。実際にレビューを書いてくれたのは、おそらく5割弱ぐらいだろうか。書いたことがない人には、あれは面倒くさい作業なのだ。4つ星で、批判的な意見をきちんと指摘してくれた人もいた。これはサクラとはちょっと違うだろう。

完全な「クロ」のサクラと、グレーなお願いで、「ちょっと面白そうなコンテンツかも」と思ってもらえる体裁は整った。

 12 村上春樹を倒した個人出版Kindle本

次の問題は、無名の新人の最大の悩み、「露出」だ。
読者の目に触れる機会をいかに増やすか、書店で言えばいかに「良い棚」を取るか。これが売れ行きを大きく左右するのは当然だ。
この点で、KDP版「おカネの教室」は戦略と運の両面がうまくかみあった

KDPの場合、「露出アップ」の武器は、1コンテンツにつき5日間限定で展開可能な無料キャンペーンだ。
リリースから1週間強たった2017年3月17日、私は前編を対象に3日間の無料キャンペーンを打った。
これが予想以上の大成功を収め、ダウンロード数は3日で300を超えた。無料部門の総合ランキング5位まで食い込み、露骨なエロコンテンツとPS4の宣材を除けば実質2位という快進撃となった。

後知恵で考えると、成功のポイントはこんな風にまとめられる。

①キャンペーンを週末にぶつけた
②事前にFacebookで「友達」を広げておいた
③ツイッターのbotが「無料キャンペーン中」と拡散してくれた
④レビューを見て「タダなら落としておこう」と思ってもらえた

①は当たり前として、②は少し説明がいるだろう。
ペンネームの「高井浩章」名義のアカウントを作った後、私は面識のない方にもどんどん「友達」申請の対象を広げた。重点ターゲットにしたのはフィナンシャル・プランナー(FP)や長期投資に取り組んでいるプロ・アマの投資家、金銭教育の関係者などだ。「おカネの教室」という作品の特徴に加え、SNSをビジネスに活用していて拡散力が高い人が多いと判断したからだ。実際、あるFPの方はブログの書評や投稿のシェアで数十という単位で読者を広げてくれた。

③のKindle系botの威力も、自分で出版してみて初めて分かった。割引中のコンテンツを片っ端から拡散するアカウントが「今ならタダ」としつこいほどリツーイトしてくれた。普段、タイムラインのゴミだと思っていたbot投稿に大いに助けてもらった。④については、良心を押し殺して「サクラ」を仕込んでおいて正解だった、ということだろう。

ここから先の展開が、本当に「想定外」だった。
キャンペーン翌週の週末から、読み放題サービス「Kindle Unlimited」の読者が爆発的に増えたのだ。

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(急増したKDPの既読ページ数。この日は最終的に1万2000に達した)

グラフはUnlimited経由の読者が「おカネの教室」を読んだページ数のグラフだ。
「Kindle Edition Normalized Pages=KENP」は「Unlimitedの読者が初めてその本を読んだページ数」を示す。再読してもダブルカウントされることはない。以下、KENPを単に「既読ページ数」と記す。

この既読ページ数の飛躍は、キャンペーンで露出のレベルが大きく上がった効果だった。無料ランキングTOP5に入り、有料に戻った後も前編はTOP100圏内をキープしていた。

マジックナンバーは「100」

Amazonのランキングは、100位以内をキープすることが極めて重要だ。書影のサムネイルがランキング画面に表示されるからだ。できれば本全体の総合ランキング、悪くてもサブカテゴリーで100位以内に入れば、ストア内の「露出」は格段にあがる。
このあたりの位置につけていれば、「投資」や「経済小説」といったサブカテゴリー内でトップになる可能性も高い。そうすると、タイトルや書影に「ベストセラー」のタグがつく。これも「売れてる感」を強めてくれる。
「売れているモノがさらに売れる」時代にあって、これは大きい。
ある程度売れれば、ご存知のAmazonのオススメ機能で「この本を読んでいる人はこんな本も」と推薦されて、読者へのリーチも一気に広がる。

こうした好循環の波に乗り、Unlimitedの既読ページ数は週末には1万超、平日も6000から8000という高原状態が続いた。これは「1日に30人から60人の読者が全編を読了している」という驚異的なペースだ。実際には1人の読者が数日から1週間ほどかけて読むだろうから、リアルタイムで読んでいる人数は数百人に達していたはずだ。
「これ、とんでもないことになってるな」。事態は私の想像をはるかに超えつつあった。

「騎士団長殺し」の殺し方

4月初旬には、それまでどうしても抜けなかった村上春樹の「騎士団長殺し」を「おカネの教室」が上回った。Kindleだけでなく紙の書籍を含む総合ランキングでのガチンコ勝負で、ついに日本を代表する作家の最新作を、個人出版の「変な本」が(わずか数日間とはいえ)抜いた。お値段が19分の1という事実を考えても、これは胸のすく達成だった。やれやれ。

しかし、好事魔多し、である。
読者が広がり、レビューも増えて、とんとん拍子だったところに「爆弾」が落ちた。1つ星レビューの登場である。
たかがレビュー1件と侮るなかれ。これを境に、ダウンロード、Unlimitedの読者数も、3割ほど目に見えて減ったのだ。これが最新レビューで目立つというのはあったにせよ、「こんなに効くのか」と驚いた。
時間がたてば影響は小さくなるとは思ったが、早めに対抗策を打つに越したことはない。
「爆弾」が落ちた翌週末には、「1000ダウンロード突破記念」と称して残り2日分の無料キャンペーンを展開した。幸い、今回も200部ほどのダウンロードを記録し、「1つ星爆弾」のダメージを帳消しにしてくれた。

レビューの増加と並行してブログ等での紹介記事も増え、「露出増→読者数増→露出増」という好循環が綺麗に回りだした。
部数は面白いように伸びて、5月の半ばごろには前編・後編合計で5000を突破した。

見えてきた商業出版

このころから「これだけ実績があれば、紙の書籍で出してもらえるのでは」と考えるようになった。Kindle版を出す時点で「まかり間違って大ヒットしたら…」と想像していたシナリオが現実になりつつあった。
実際、私は5月末ごろから複数の出版社へ接触を始めた。このあたりの経緯は「商業出版編」で詳述する。

部数は6月には累計6500部ほどに達し、そろそろ日々の販売数やUnlimitedの読者数もピークアウトがはっきりしてきた。
そこで7月25日、通常価格400円の後編を対象に一気に5日間の無料キャンペーンを打った。これも350部を超える大成功に終わった。

前述したとおり、KDPの無料キャンペーンは1つのコンテンツにつき5日しか打てない。
前編・後編とも枠を使い果たし、あとは自然体で行くしかないはずだったが、ここで私は温めていた「奇策」の投入を検討し始めた。
その奇策と計算外の突風が重なり、「1万ダウンロード突破」という快挙への道が開ける。

 13 もうかりまっか? もうかりまっせ!

ラストスパートのお話の前に、ご興味のある方も多いだろうから、生臭い話題を片付けておこう。
はたしてKDPはどれぐらいもうかるのか、というお話だ。

KDPには以下の2つの収入源がある。

① 読者のコンテンツ購入代金からのロイヤリティー
② Unlimitedで読まれたページ数に応じた分配金

意外だったのは、実際の収入は圧倒的に②が多かったことだ。
Unlimitedでは、新規読者が1ページ読むごとに作者に0.5円強の分配金が入る。再読はノーカウントで「銭」にはならない。
「おカネの教室」は前後編で約320ページの分量だったので、通読してもらうと1部170円(税前)ほどの収入になる。
ピーク時の1日1万ページペースだと、毎日5000~6000円ほども入ってくるわけだ。実際、4月、5月のKDP収入は軽く10万円(税前)を超えた。6月以降、多少下火になってからも1日2000~3000ページは読まれていたので、会社帰りにパブで一杯いけるぐらいの副収入にはなっていた計算だ。

ちなみに①の方のロイヤリティー率は価格によって違って、250円以上は著者の取り分が70%で、99円から249円なら35%。「おカネの教室」の場合、前編は1部売れると35円、後編が350円の収入になる。

「ポチっと」から「ペラっと」へ

最終的にKDP版「おカネの教室」は1年ちょっとで約80万円(税前!)のロイヤリティー収入を生んだ。その9割はUnlimitedの分配金が占め、コンテンツ購入のロイヤリティーは1割ほどにとどまる。

この事実はKDPのコンテンツの作り方に重要な意味を持つ。
端的に言えば、「エロい表紙で読者を釣っても銭にならん」のである。
購入型サービスなら「ポチっと」させれば儲かる。
KDPではそれは通じない。読者が10ページで放り出せば、作者には5円ほどしか入ってこない。最後までページをめくってもらえるコンテンツでなければ、もうからない。
「ポチっと」から「ペラっと」への革命である。
電子書籍で「ペラっと」というのも、妙な話だが、まあそういうことだ。

さて「おいおい、あんた、ボロ儲けしたんやな」と思った読者に言わずもがなの補足をしておきたい。
「おカネの教室」のロイヤリティーは、私の懐には1円も入っていない。
詳細は省くが、私はKDP収入の振込先を両親の口座にセットしておいた。「せいぜい数万円だろう」と高をくくっていたからなのだが、思いのほか大規模な仕送りになってしまった。娘のために書いた趣味的コンテンツで親孝行できたのだから、結果オーライということにしておこう。

 14 ついに1万部突破!

売れっぷりの話に戻ろう。
夏場になり、「おカネの教室」が完全に一服したころ、かねて温めていた作戦に打って出ることにした。
前編・後編の統合版を100円で投入する、実質8割引きの断行だ。統合版は別コンテンツなので、また5日間の無料キャンペーンも打てる。
統合版は8月2日にKindleストアに投入した。ここに計算外のファクターが加わり、第2ブームの波がやってきた。

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上は「おカネの教室」シリーズの既読ページ数のグラフだ。
発売直後の山と、9月の第2の山、その後ろに少し低めの第3の山がある。
第2、第3の山を作ったのは、私の立てた統合版投入作戦ではなく、計算外の突風だった。
ちなみに右端の第4の小山は、書籍版の発売後に並行販売していたKDP版が「売れてしまった」ためにできたものだ。

Kindleストアで「平積み」に

統合版のリリースからしばらくして、私は前編の読者が妙に増えているのに気付いた。統合版を出したのになぜ前編が、と首をひねるしかなかった。
数日後、たまたま、Kindleストアのホーム画面で前編がAmazon公式から「オススメ」に選出されているのを発見した。

Amazonは月に1度、110~120程度のKindle本を「オススメ」としてプッシュしている。書店で言えば一番棚で「平積み」されるようなものだ。大半が大手出版社の作品やマンガが占めるので「自分には関係ないな」とノーチェックだった。
選ばれてみると「平積み」効果は絶大だった。レビュー数や「星」の平均が高かったこともあり、「オススメコーナーの中のオススメランキング」で2位に入っていたからだ。
これでまた、爆発的にダウンロードが増えた。

3月のリリースから約10か月。「おカネの教室」の部数はついに1万の大台を突破した。3人の娘のために書き上げた物語が、想像もしなかった数の読者を得た。2018年1月にも再びKindleストアの「オススメ」に選ばれ、部数はさらに上積みされた。
このころには年明けの商業出版も正式決定していた。「Kindleで1万部突破のヒット作!」という文句は、書籍版で強力なキャッチコピーになった。

最後にモノを言うのは「中身」

KDP版「おカネの教室」が1万部を超える大ヒットになったのは、私なりにマーケティングに力を注いだ結果であり、その過程でいろんな方の助けや運にも恵まれた。
だが、「なぜ1万部を超えたのか」という問いへの最もシンプルな答えは、「面白いコンテンツとして読者に受け入れられたから」という、当たり前の事実だと思う。
ここにKDP版のレビューの最終集計がある。

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52件のレビューの8割が5つ星、4つ星までで94%を占める驚異的な高評価を受けている。「1つ星爆弾」が2発あるのはご愛敬。
前述したように、Unlimited中心のKindle市場では、「最後までページをめくらせる」コンテンツでなければ、ヒットになりえない。「買わせる」のではなく「読ませる」。青臭い物言いをすれば、良いコンテンツが報われる世界なのだ。
無名のアマチュアにとって、膨大なコンテンツの海に飛び込み、読者を得るのは並大抵のことではない。
それでも、誰もが読者と直接つながれるチャンスを与えてくれる電子書籍の個人出版には、挑戦する価値が十分にあると思う。

幸運に恵まれ、1万部突破という成果を手にし、出航の準備は整った。
「おカネの教室」には、さらに広い世界、商業出版への船出が待っていた。

III 本になった! 商業出版編

個人出版でヒットした「おカネの教室」はいかに商業ベースの「本」に練られていったか。
「コネゼロ」から始まった飛び込み営業的な売り込みは、壁に跳ね返されつつも、縁に恵まれて、インプレス×ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から発売が決まる。
商業出版編は、出版社への企画売り込みと、リライトやタイトルを巡る編集者とのバトル(?)、無名の新人がとったマーケティングの奇策などを紹介する。

 15 大手出版社の厚い「壁」

「おカネの教室」の商業出版化に本格的に動き出したのは2017年5月だった。
個人出版したKindle版は3月初めのリリースから2か月半でダウンロード数が前後編合わせて5000~6000を記録していた。
「本」の市場で電子書籍のシェアはアバウト1割。単純換算すれば、「おカネの教室」は紙の本なら数万部のヒット作に相当する売れ行きとなっていた。

家庭内連載編で書いた通り、執筆中にカイシュウ先生が「ピケティの不等式」を持ち出した瞬間、「これ、本になるかも」という予感はあった。Kindleの個人出版には「これは『変な本』だけど売れる」という証拠を数字で示す狙いもあった。Kindleの実績を示せば「大外れはなかろう」と興味をもってくれる出版社があると期待した。

「個人」で勝負したい

商業出版を決めたとき、私には普通の新人作家とは違って、ある選択問題があった。
「自社」から出すか「他社」から出すかという問題だ。
私の本業は新聞記者で、勤務先のグループ内には出版社もある。そこから出版するという選択肢があった。
「自社」の方が話が早いのは間違いない。「他社」にはツテもコネも何もなく、おまけに当時はロンドンにいたのだから

それでも私は「社内」という選択肢は避けようと決めていた。理由はおもに3つあった。
まず、この作品が商業出版に足りるのか、身内ではないプロの編集者の目で価値を測ってもらいたかった。
2つめは、この本を「業務」にしたくなかった。誤解を恐れず言えば、「おカネの教室」は私にとって「遊び」なのだ。商業出版となれば「本づくり」や販促に相当のエネルギーが必要だろう。「業務」ならゾッとするが、「遊び」としては最高のプレイグラウンドだ。
最も大きかったのは、ある種の変身願望のようなものだ。いつもの「高井記者」「高井デスク」と別の人格、「著者・高井浩章」の世界を持ち、それを広げたかった。
本が出て8か月。「ペンネームで他社から出す」という選択は正解だったという思いを強くしている。

怒涛の門前払い

ところが、「ツテ・コネゼロ」の状態で原稿の売り込みルートを探った私はすぐ絶望した。
大手の出版社はほぼすべて「持ち込みお断り」だったのだ。無知を恥じるしかないが、トライするまで何となくマンガのような持ち込み文化が残っているものと思い込んでいた。だが、要約すると、各社のスタンスは「無名の新人はまずウチの文学賞に応募してこい」というものだった。

「そうは言っても出版企画書ぐらい読んでもらえるだろう。それでパイプができたら原稿を送ろう」。
作品の概要やプロフィルにKindleでの販売実績を簡単にまとめた企画書はすでに用意していた。私はいわゆる「ビッグ3」とそれに次ぐ大手出版社数社の「一般のお問合せ」コーナーに、「出版企画書を送りたいが、どうしたら良いか」とメールや電話で問い合わせた。
このうち「担当者に回します」という返事があったのは1社のみだった。
他社は、粘ってみても「持ち込みは受け付けていません。文学賞に応募ください」というテンプレが返ってくるだけだった。「普通の小説」ならその手もあるが、自他ともに認める「変な本」のつけ入るスキはなかった。

 16 全公開!これが出版企画書だ!

「大手」の前には鉄壁のディフェンスが築かれている。
私は気を取り直し、出版社のホームページを片っ端から検索して「出版提案・持ち込みはこちらから」という会社をリストアップしていった。片手に余る数をピックアップするのに半日かかった。
結局、売り込み先は7社に絞られた。おおむね、経営規模順に列挙する。

A社 ビッグスリーに次ぐ大手の一角
B社 アグレッシブな総合出版社
C社 学習系に強い実用書系出版社
D社 ビジネス寄りの実用書系出版社
E社 D社と同タイプ
F社 実用書寄りながら文芸も手掛ける中堅総合出版社
G社 自費出版系出版社

「おカネの教室」は、「変な小説」だけど、商業出版では経済書・ビジネス書として出ることになるのは理解していた。
G社は「作品によっては自費ではなく出版社から出します」とあったのでトライしたが、結構な額の自己負担での出版を提案され、丁重にお断りした。
各社の窓口には、こんな問い合わせを送った。

Kindle本のヒット作の出版提案について
ご担当者さま、
唐突に失礼します。
3月に「おカネの教室」というKindle本を出版した者です。
自分の娘に書いた読み物をまとめたものですが、予想以上に幅広い読者に受け入れられ、3カ月で読み放題で60万ページ以上が読まれ、ダウンロード数換算で前編・後編で約6000冊のヒットを記録しています。
読者から「紙の本で是非出してほしい」という要望が多いので、現在、取り上げていただける出版社を探しているところです。
詳しくは以下のFacebookページをご参照いただければと思います。
窓口となっていただけるご担当者をご紹介いただければ深甚です。
よろしくお願いいたします。
高井浩章
追伸
こちらはペンネームでして、本名は高井X章と申します。
本業は新聞記者で、現在はロンドンに駐在しています。

この売り込みは「ここから出せたらいいなあ」という第1陣を5月、それ以外に可能性がありそうな第2陣を6月と2回にわけて送った。

思い付きだったミシマ社への売り込み

第1陣を送るとき、ふと「持ち込み不可らしいけど、ついでにミシマ社にも売り込んじゃえ」と思いついた。
なぜかは、正直、覚えていない。
熱烈なミシマ社ファンというわけではなかったが、「丁寧にユニークな本を作る会社」という認識はあった。改めてサイトで既刊のラインナップをみると、「変な本」をそのまま出してくれそうな気配を感じた。
とはいえ、「持ち込みお断り」の告知には「出版点数を絞っているから手が回りません」という強烈な拒否オーラが漂っていた。「ま、送るだけならタダだし、ダメ元で出しとくか」という程度の気分だった。

こちらから問い合わせてすぐ、ある社から「出版企画書の形で送ってほしい」という返信が来た。
以下、一部省略・修正した企画書を公開する。

「おカネの教室」出版企画書             高井浩章
▽本書の概要
 お金の本質は何か。働く意味とは。世界を豊かにするために我々に何ができるのか。
大事なことなのに、日本では、貨幣や経済について学校でも家庭でも本気の本音で教えられることはほとんどない。でも、身近な話題から説き起こせば、数式や専門用語を使わなくても、経済の仕組みを理解することはそんなに難しいことではない。
読みやすい対話形式で初歩から本質的議論までをカバーするため、小学校に新設された「そろばん勘定クラブ」という奇妙な課外活動を舞台に設定。欧米投資銀行出身の謎の教師の指導の下、町一番の富豪のお嬢様と、どこにでもいる小6男子の「僕」が、対話と宿題を通じて経済の本質に導かれていくストーリーを組み立てた。
貨幣の役割や市場経済や経済成長の仕組みなどの本筋以外に、金融危機の背景やギャンブル・戦争と経済の関係、高金利ローンの怖さ、資産運用の重要性、世界を揺るがす経済格差問題など興味深いテーマもカバー。サイドストーリーとしてヒロインの家庭不和と悩み、語り手の「ぼく」の彼女に対する淡い恋と成長物語も展開される。

▽著者プロフィル
本名 高井X章(昭和47年生まれ、44歳、愛知県出身)
1995年XX新聞社に入社。現在、デスクとしてロンドンに駐在。
記者・デスクとしてマーケット・国際問題を中心に20年以上の経験がある。新聞連載記事をまとめた経済関連の共著が数冊。書き下ろしの単著は本書が初めて。
高3、中2、小5の3人の娘の父親。長女が5年生になったころ「経済やお金のことをきちんと理解してほしい」と考えて良書を探したが見当たらなかったことが、本書を書くきっかけとなった。余暇に書き継いで、章単位にまとまったら連載小説のように家庭内でリリースするという作業を続け、足かけ7年で昨年末にようやく完結した。
連絡先 XXXXXXXX@XXXXXXXXX 携帯電話 +44-XXXX-XXX-XXX

▽本書のターゲット
知的好奇心の強い小学校5~6年生から大人まで、幅広い層に受け入れられる内容になっている。
単なる解説ではなく、魅力的なキャラクターを配した小説風の進行になっており、一種の謎解きや少年少女の成長物語としても楽しめる。リーマンショックやピケティの経済格差論の読み解き、冷戦崩壊後の世界経済の歩み、タックスヘイブン問題など、大人にとっても読み応えのあるテーマが盛り込まれている。実際、試読した30~50代の知人やAmazonのレビュー等で大人の読者層から「勉強になった」と好評を得ている。

▽大まかな構成
 全体は春の新学期から夏休みまでの20回のクラブ活動に沿って「1時間目」から「20時間目」までを各章として構成。間に「放課後」として自宅での家族の会話や宿題に取り組む様子が挟み込まれる。放課後は「その11」まであり、エピローグを含めると32章の構成で、36行×40文字で約180ページ、になっている。
1~4時間目
参加児童2人きりの「そろばん勘定クラブ」が始まる。教師から「お金を手に入れる方法6つある」という謎かけがなされて、「かせぐ」「ぬすむ」「もらう」「かりる」「ふやす」という5つの方法の違いや意味が、具体的な職業を例にとって示される。
(以下、ネタバレなので省略)
5~7時間目
8~14時間目
15~18時間目
19時間目、放課後 その11、20時間目
エピローグ

(参考資料=目次)
1時間目 そろばんクラブ、でかいおじさん、あなたの値段
2時間目 ビャッコさん、一億円と十億円、かせぐとぬすむ
3時間目 複利マジック、6つの方法、難問中の難問
(以下、20時間目、エピローグまで)

目次が商業出版版と違って三題噺風になっているのが懐かしい。

その後、数社から担当編集者からメールが届き、企画書もしくは原稿を送ってほしいと頼まれた。
7社のうち無反応の3社と自費出版系1社がこの時点で候補から消えていた。「残り3社のどこかから出せるといいがなあ」と思っていたところ、家族でパリに旅行中の5月末、1本のメールが届いた。

「ミシマ社のアライと申します」

反応もなく「やっぱり持ち込みはスルーか」とあきらめていたミシマ社からの接触だった。面白そうだから原稿を送ってみてちょうだい、という。
ファイルを送るとき、ふと悪戯心で「止まらなくなるから、時間があるときに読んだ方が良いですよ」と挑発の一文を入れた。
これはすぐ「アホなことを書いたもんだ」と苦笑する羽目になった。
その後、編集アライからの連絡はぷっつりと途絶えたからだ。

その間に他社の動きは急に慌ただしくなっていた。「原稿を読ませてくれ」という段階まで進んでいた3社から、出版に前向きな反応が相次いで返ってきたのだ。

 17 ダークホース・ミシマ社の即断力

「持ち込み原稿は編集者の机の上で最低1か月は放置される」。
こんな都市伝説を信じていた私は、すぐに複数のレスポンスがあったのに驚いた。しかも、どの社も「出版を前提に社内で企画提案したい」というのだから、さらに驚いた。
2017年6月初めにかけて反応があったのは以下の3社だった。

A社 ビッグスリーに次ぐ大手の一角
D社 ビジネス寄りの実用書系出版社
F社 実用書寄りながら文芸も手掛ける中堅総合出版社

このうちA社は早々に「難しいな」と判断した。先方の提案が「変な本を変な本のままペンネームで出す」という私の求める条件に合わなかったからだ。
他の2社は「このままの方がユニークな味があるので、大幅なリライト無しでいきたい」という趣旨のありがたいご提案だった。「ああ、プロの目で見てもこのコンテンツには市場価値があるのだな」と嬉しかった。

私の中では本命はF社になりつつあった。文芸も手掛けている出版社の方がコンテンツと相性が良いような気がしたからだ。担当編集者が「おカネの教室」をかなり気に入ってくれているのも、メールの文面から感じた。

この2社以外にもう1社、別の編集者「ミスターX」とも「時間ができたらじっくり読みます」というやり取りをしていた。この方の手掛けた本のリストを見て「一緒に作れば良い本ができそうだ」と感じた。

売り込みを始めて1か月弱。「おカネの教室」は最低2社、場合によっては3社からゴーサインが出そうな想定外の「モテ期」を迎えた。「どこか1社でもひっかかればラッキー」という期待値だったのに、どこから出すか選べるような贅沢な立場になった。

とはいえ、私には「二股」や「三股」をかますつもりはなかった。
原稿を読みこんで企画として練り、社内で通すというのは、骨の折れる作業だ。同業者に近いので、編集者がどれほど忙しいかも想像ができる。天秤にかけるような失礼なことはしたくなかった。
私が決めた方針は「早い者勝ち」だった。とにかく、最初に出版を確約してくれた会社から出そう。それが最低限、誠実な対応だと思った。
「競争心をくすぐろう」という多少の下心もコミで、各社に
①他社にも持ち込んでいること
②けっこう良い感触を得ていること
③最初に出版が確定したところにお世話になるつもりであること
を伝えた。
念のため、そのころには完全に音信不通状態だったミシマ社の編集アライにも、その旨メールしておいた。

そして2017年6月27日、ミシマ社の編集アライから、こんなメールが来た。

結論から申せば、ぜひご一緒に本作りを進められたら、と思っております!

おおおおおおおお!!!!!!
私はさっそく、

感激しています。これ、ここ数年で一番嬉しいメールかもしれません(笑)

と返信した。

「しごとのわ」?

編集アライからはその1週間ほど前、「インプレスと共同でやっている『しごとのわ』というレーベルにぴったりなので、社内の会議にあげてみたい」と連絡をもらっていた。
検索したサイトには謎の「わ」のマークがあり、「about」にはこんな文章があった。

仕事について考えるとき
成果や時間、お金を意識することがあっても、輪を意識することは少ないのではないでしょうか。
小さい輪でも大きな輪でも構いません。
会社や家庭、地域、過去と未来、わたしとあなた。
切り離さなければ、輪はできます。
仕事を考えるときそんな輪を大切にしたいという想いから、ミシマ社とインプレスの2 つの出版社で起ち上げたレーベルです。

「ビジネス書のコンセプトが、こんなポエミーでいいのか?」と心の中で突っ込みつつ、既刊のシリーズを見ると、確かに「変な本」を受け入れてくれる懐の広さというか、「いろいろやってみよう」感があった。

実は、ちょっと前に編集アライから「企画を出してみます」というメールをもらった段階で、他の2社からも「次の企画会議に上げます」という返事をいただいていた。
期せずして「おカネの教室」は、「企画会議通したモン勝ち短距離走」みたいな状態になっていたのだった。
それまでの接触で、他の2社の方が助走期間も長く、社内プロセスを着々と進めている印象を受けていた。
だが、見事な差し脚でゴールポストを最初に通過したのは、(後に知ったのだが)当時、仕事を山ほど抱えて死にそうになっていた、ダークホース・ミシマ社の編集アライだった。

出版が決まったと思い、私は何かと相談に乗ってくれていた某社編集ミスターXに報告メールを送った。
すると、「まだ油断できません。最終決定権は役員か社長が握っているはずです」という不吉な返信が来た。
私は編集アライに「最終決裁は社長マターと拝察しますので、そのクリアに向けて詰めましょうという段階でしょうか」と確認してみた。
返事はこうだった。

弊社の場合、企画会議に社長が必ず出るのと、社長がゴーと言わないかぎり企画が動かないので、ひとまず社長のゴーサインは出ている状況です。

「俺は聞いてない」と言わせないための根回しに慣れ切ったサラリーマンから見ると、胸のすくようなシンプルでスピード感のある意思決定プロセスだ。あらためて聞いたら、ミシマ社は社長を含め編集者3人体制で回しているという。

「本当に、『おカネの教室』は、本になるんだな」。なんとも言えない感慨が改めてこみあげてきた。
私は他社の編集者に「お世話になる先が決まりました」とお礼と報告のメールを送った。ある社の方からは「スピードには自信があったので負けるとは思わなかった。残念です」というありがたいお言葉をいただいた。
一番うれしかったのは、ミスターXのこんな言葉だった。
「何が売れるか分からない時代なので、売れるかはどうかはわかりません。でも、『残る』本になれる可能性を持った原稿だと思います」

国内の出版数は1年で約8万。1日200冊もの新刊が出て、売れなければ3か月ほどのサイクルで消えていく。徹底的に磨き上げなければ、「残る」本にはなれない。
ミシマ社×インプレスのレーベル「しごとのわ」という発射台が決まり、編集アライと二人三脚で、本格的な「本づくり」が始まろうとしていた。

 18 盲点だった「商品にする」発想

出版が決まった2017年6月の時点で、私はまだロンドンに住んでいた。
ミシマ社の編集アライとのやりとりはメールか電話かLINEで、根が昭和なオジサンには、「会ったこともない人と…」と少々落ち着かない共同作業だった。

商業出版に際してKindle版を全面リライトすることは決めていた。私から最初にこんな提案・問題提起をした。

・主人公2人を中学2年生に設定に変える
・章をまとめるなら4月から8月までの5章、プラス、エピローグ
・寄り道の薀蓄をどこまで削るべきか

7年の家庭内連載のうちに、読者=長女は10歳から16歳まで成長していった。それにあわせて内容も高度になっていったので、読者からも「こんな賢い小学生は非現実的」という指摘は多く、私自身、書いていて「ちょっと無理があるな」と感じていた。

章立てと構成は最終的に最初の私の提案に着地したわけだが、ここは後々、私と編集アライの「バトル」の中心テーマになる。
争点は「どこまでビジネス書寄りの作りにするか」だった。この辺りは後述する。

私はまず、「主人公たちと読み手が小学生」という前提を取っ払って、語彙の説明や表現を整理するリライトに取り掛かった。これは1週間ほどで終わり、6%ほど原稿をカットできた。もともと小学生という設定に無理があったので、自然で快適なリライトとなった。

4割カット!?

この初期バージョンを送ると、編集アライからの不穏なメールが届いた。

1ページを39字×15行づめにすると380ページoverという状態でして、読み物ビジネス書だと、ページ数がいっても240ページかな…というところなので、けっこうざっくり、カットする必要がありそうです。

編集アライはサクっと書いているが、これは「4割削り」という意味だ。
「それは、ない!」。
テイストと「質」を変えないで削れるのは1割程度が限界だと、かなり強硬な反論を送り付けた。
それに対する返信は2つのポイントをズバリと指摘するものだった。

①「経済初心者」には400ページはハードルが高い
②価格を1500~1600円にしたい。400ページでは1800円程度になる

恥ずかしながら、2点とも、私には盲点だった。
「おカネの教室」は「経済書など読まないヒト」をターゲットとする本だし、1800円では税込みで2000円近くなる。
私は編集アライのこのメールで、「これはやるしかない」と肚を固めた。

要は、私には「本を商品として仕上げる」という思考が欠けていたのだ。
ほぼノーコストで出版できて、価格も適当に付けられる個人出版と「商品としての本を作る」商業出版は、全く別の世界なのだった。
編集アライは、単に安くしたいのではなく、翻訳ものなどと競合する高めの価格帯では「この本の良さが生きない」というグッと来るフレーズまで盛り込んで、私の変心を後押しした。
最終的に「おカネの教室」は約270ページ、税抜き1600円で発売された。

実際には、削りに着手してみてすぐ、それが非常に良い選択だと確信した。
明らかにコンテンツとしての質が上がっていったからだ。
結局、7年もかけて書いた作品への愛着が「できるだけ手を入れたくない」という執着心になっていたのだった。

 19 狙うは「一気読み本」!

原稿はどれほどスリム化されたのか。
家庭連載版の初稿とKindle版、商業出版に向けたリライトのバージョン1~4までの文字数・ページ数は以下の通りだ。

画像11

最終バージョンでは、家庭内連載版と比べてほぼ半分、Kindle版と比べても3割の削りを入れている。右端のページ数はWordファイルベース。

実際のリライトの例をどんな感じだったか。
少々長い引用になるが、以下はKindle版の冒頭部分だ。前述の比較と同様、読まなくてよい。太字が削り部分なので割合をざっとみてほしい。

予想通り、二年六組の教室はがらんとしていた。
ちょっと迷ってから、僕は窓から三列目、前から三番目の席についた。校庭の真ん中でサッカークラブが準備体操をしている。ため息が出た。クラスの男子十五人のうち十人がサッカークラブを希望して、当選枠は五人しかなかった。僕は四年生、五年生に続く三連敗で落選した。バスケ、野球クラブの抽選でも続けて落ちて、残ったのは英語クラブと、ここだけだった。英語は大嫌いだから選択の余地はなかった。こんなクラブ、五年の時には無かったし、「なんで、いまどき」とは思ったけど。
 もうクラブ開始時間を五分過ぎているのに、誰も来ない。よっぽど人気がないんだろう。それにしても顧問の先生すら来ないってのは、どういうことだ。
「ようこそ!」
突然、教室の後ろから大きな声がして、僕はビクッと飛び上がった。三センチくらい、ほんとにお尻が浮いた。振り向いて、今度は目の大きさが一センチくらい広がった。ドアから見えていたのはグレーのチェックのシャツと、白いズボンだけだったからだ。
「よいしょ」
首なしおばけが入り口をくぐると、丸メガネをかけたおじさんが現れた。それは僕が今まで生で見たなかで、一番でかい人間だった。
「では、あらためて、ようこそ!」
でかいおじさんは、ツカツカと歩いて黒板の前に立ち、チョークを手にすると、黒板をかるく見下ろしながら、体に似合わない几帳面な字でこう書いた。

そろばんクラブへようこそ

そう。僕が放り込まれたのは、いまどき「そろばん」を教えようっていう、時代遅れのクラブなのだ。
「こんにちは!」
おじさんはまっすぐ僕をみて、大きな声で言った。
「こんにちは」
ひとまず返事すると、おじさんはニッコリ笑ってうなずいた。

えーっと。おかしいな、みんなそろってないですね。もう一人、くるはずなんですが」
え。たった二人なの?
ま、そのうちくるでしょう。まずは自己紹介しましょう。ワタクシはエモリと言います。江戸を守ると書いてエモリ。江戸の森、と間違えないでください」
エモリ先生が笑顔で僕の顔をじっとみた。あ、僕の番か。僕は立ちあがった。
「六年二組の木戸隼人です。木戸は木のドア、隼人はハヤブサに人と書きます」
「木戸孝允と薩摩隼人で一人薩長連合状態ですか。なかなかオツですね」
これは歴史好きのおじさんにたまに言われるネタだ。木戸孝允は桂小五郎の名でも知られる長州藩の大物で、長州と薩摩は、手を組んで徳川幕府を倒した。
「薩長連合相手に江戸を守るとは、分が悪いですね」
エモリ先生が歴史ネタを引っ張っていたそのとき、
教室の前のドアががらりと開いて、女の子が一人、ペコリと頭を下げて入ってきた。
「おお。きましたね。好きなところに座ってください」
僕から一つあけた席に座ったその子を、僕は知っていた。同じクラスになったことはないし、話したこともないけれど、けっこうな有名人だからだ。
「今、自己紹介をしていたところです。ワタクシがエモリ、彼がキドくん。あなたは?」
女の子は軽く椅子を引いて立つと、ちょっと低い、よく通る声で言った。
「六年四組の福島です」
「はい、福島さん。下の名前は?」
福島さんが「乙女、です」と答えた。
「ほほう! 今度は会津に土佐ですか」
エモリ先生が一人で嬉しそうに笑うと、僕に「わかりますか?」と聞いた。
「福島県が昔は会津藩だった、のは知ってます」
「さすが薩長連合。乙女というのは、土佐の坂本竜馬のお姉さんの名前です。
佐幕派と倒幕の大立者のコラボレーションとは、こちらもオツです」
オトメって、ちょっと珍しい名前だよな。
「いやいや幕末モノつながりで、いいですね。では、これから木戸くんはサッチョウさんと呼ぶことといたしましょう」
いや、キド、の方が短いし。
「福島さんは、オトメさん、でいいですか?」
「いやです」
即答。
「ですか。困ったな。サッチョウさん、代案はありますか」
「いや、福島さん、でいいと思います」

「いや、フレンドリーにやりたいのです。福島さん、フッキー、はどうですか」
「…いやです」
「困りましたね。よし、これ、宿題にしましょう。次回までに考えてきてください」
「わたしも、ですよね?」
「そりゃそうです。自分のことなんだから。さて、自己紹介に手間取ってしまいましたね。
時は金なり。本題に入りましょう」
ようやくか。気が進まないけど、僕はかばんからそろばんを取り出した。お母さんが商業高校時代から使っていた年代物だ。
「おお。サッチョウさん、用意がいいですね」
目を上げると、エモリ先生がニヤニヤしていた。
「あの、わたし、自分の持ってきていません」
福島さんが言った。なんだか、僕だけ張り切ってるみたいだ。
「ああ、気にしないで。ワタクシも持ってませんから」
え?
「しかし、いまどき、そろばんとは。しかも相当年季が入った逸品ですね
いまどきとは、なんという言い草だ。いまどき、そろばんクラブを開いておいて。
「あの、今日はいらなかったってことですか」
「違います。今日は、じゃありません。そろばんは、いりません」
「え?」
あ、福島さんとハモッた。
「福島さん、そろばん勘定、って言葉、ご存じですか」
「損か得か、ちゃんと考えるという意味です」
「パーフェクト!」
おお。外国人みたいな発音だ。
「そうです。損得、つまりお金の物差しで物事を見極める、ということですね」
先生はくるりと黒板に向き、文言を書き換えた。

そろばん勘定クラブへようこそ

リライト版は1568文字、Kindle版は2202文字。ほぼ3割削った。
この部分は前述のとおり、家庭内連載版からKindle版の段階でほぼ半分に削ったから、商業版は初稿比で7割近くスリム化している計算だ。

削っただけでなく、商業出版バージョンでは情報を補足した部分もある。冒頭で言えば、教室が「2年6組」なこと、この学校には部活と別にクラブ活動があることの説明などが追記されている。
これらは編集アライからの「分かりにくい」「すっきり頭に入らない」といった指摘を反映したものだ。
これこそ、編集者という「第三者の目」のありがたさだ。「原稿を寝かせる」という手順を踏んで距離感を作っても、完全な他人にはなり切れない。
他にも編集アライからは、

・ニックネームと本名、家族内のニックネームが混在して分かりにくい
・なぜ「銀行家」で「銀行員」ではないのか、違いは何か

といった指摘があり、いずれもリライトで読みやすくなった。

冒頭わずか4ページでこの調子なわけで、商業版へのリライトはほとんど全文に手を入れる大規模なものだった。4つほどのエピソードは丸々落とし、細かい表現や語順にも徹底的に手を入れた。

楽しい「とんかち仕事」

この作業は、実に楽しかった。

村上春樹は「職業としての小説家」で、リライトについてかなりのページを割いている。ゲラが来ると真っ黒にして送り返し、再度送られてきたゲラをまた真っ黒にして「相手がうんざりするくらい何度もゲラを出してもらう」という村上はこう記す。

同じ文章を何度も読み返して響きを確かめたり、言葉の順番を入れ替えたり、些細な表現を変更したり、そういう「とんかち仕事」が僕は根っから好きなのです。ゲラが真っ黒になり、机に並べた十本ほどのHBの鉛筆がどんどん短くなっていくのを目にすることに、大きな喜びを感じます。

私もこの「とんかち仕事」が大好きなのだ。
村上は同書のなかで、同じような徹底リライト派だったレイモンド・カーヴァーが紹介した、ある作家の言葉を再引用している。

ひとつの短編小説を書いて、それをじっくり読み直し、コンマをいくつか取り去り、それからもう一度読み直して、前と同じ場所にまたコンマを置くとき、その短編小説が完成したことを私は知るのだ。

村上自身、同じようなことを経験していて、この作家の気持ちがよくわかるという。「このあたりが限度だ、これ以上書き直すと、かえってまずいこといなるかもしれない、という微妙なポイントがある」のだという。

「おカネの教室」のリライトでは、私もこれに近い心境まで「とんかち仕事」をやり切った。
「とにかく削らねば」という必要に迫られて始めた作業だったが、「同じ削るなら、徹底的にリズムがあって読みやすく、分かりやすい、一気読みできるものにしてやろう」と取り掛かると、それは知的なゲームへと変わった。
書き直しては音読して、また書き直す。最初から最後まで、全文について最低3度、「ここは」という部分はその数倍の手をかけて文章を練った。
そして、繰り返しになるが、この作業はとても楽しかったのだ。

全面リライトと大幅圧縮で、Kindle版と書籍版の「おカネの教室」の読み味はかなり変わった。のんびり、まったりとした読み物から、スピード感のあるストレスレスな一気読みコンテンツになったと思う。

もちろん、この過程で失われたものもある。特に、登場人物のちょっと愉快な掛け合いや距離感の微妙な変化、人物造形のバックグラウンドなどが薄くなり、「小説っぽさ」が下がったのは否めないだろう。
それを補っても、商品としてのコンテンツに磨きをかけるという点で、十分に満足のいく結果を出せた。
出版後に何度か読み返して、4刷目で2~3か所、ごくわずかに語句を足すなどの修正を入れた。その程度しか直したい部分は残っていなかった。

夏場から秋にかけて大幅な削りをやり、編集アライとやり取りしながら、年末年始の休暇で集中して「とんかち仕事」を進めた。
2018年の1月、私は編集アライに「ひとまず全力出しました」という文言を添えて、最終稿をメールで送った。出版決定から半年かけて、あとはゲラでの作業というところまでたどり着いた。

その後、編集アライからの「1500円にしたいからもう1割削れませんか」という提案に、「それは、ない!」と拒絶したことを付記しておこう。村上の言う「これ以上書き直すと、かえってまずいことになるかもしれない、という微妙なポイント」までたどり着いた感触が私にはあったからだ。

無論、本づくりは原稿を書いたら終わるわけではない。むしろ同時並行で進んでいた「パッケージとしての本づくり」にこそ、バトルの火種は残っていた。

 20 タイトル変更? あり得ない!

バトルの火ぶたを切ったのは、11月下旬にミシマ社の編集アライから届いたメールだった。そこにはサラッと、

「『おカネの教室』だと、いわゆる金融入門みたいなイメージがどうしても湧いてしまうので、タイトルはやはり、要検討かなと…!」

とあった。

私は即座に、

・長年「おカネの教室」でやってきたので変更は想像外
・馴染んでいるだけでなく、シンプルで良いタイトルだ
・Kindleでそこそこ売れてブランディングもできている
・デザインや帯で工夫の余地はある
・サブタイトルをつける手もある

と、過剰反応気味に反論した。

この頑ななオッサンに対して、編集アライはふわりと余裕をもって応じてきた。

「おカネの教室」にご愛着があるのはもちろん、よーーーくわかるのですが、すこしそれは横において、書籍として何が最適か?を考えていきたい次第です。
もちろん、考えた末に『おカネの教室』が一番だ!となるのはOKなのです。
が、「いやこれ以外考えられない」ではなくって、この本が青春経済小説であるようなことがなんとなく伝わり、数多くあるお金本のなかで、抜けだすことができる、そして一番大切なのが、内容にぴったり似合うこと。
タイトルという服を着せてあげて、世に送り出すのが、本に対しても一番のエールだと思います。

返信をみて、私は「コイツ…デキる…!」とうなった。読後には「そこまで言うなら、トコトン考えてみようじゃないの!」という気になっていたからだ。
こうして、ノセるの上手な編集者とノセられやすいオジサンの苦闘が始まった。

ゲラが組まれ、表紙や目次のデザインの詰めも進み、本づくりが着々と進むのと並行して「タイトル探し」は延々と続いた。
結局、発売1か月ちょっと前の2018年2月というギリギリまで、タイトルは確定しなかった。

私は暇さえあればタイトル案を練った。
だが、ゼロベースで考え直してみても「おカネの教室」よりしっくりくるものは出てこなかった。
編集アライの「服」というたとえにならえば、フィット感に欠ける「ビジネス書コーナーで座りの良いお仕着せの衣装」しか出てこないのだった。

タイトルは「問い」である

この頃、よく脳裏をよぎったのが、高校の現代国語の授業での教師シュンサクのこんな言葉だった。

「小説のタイトルは『問い』であり、本文はそれに対する答えだ」

シュンサクは、小澤征爾をちょっと縦に引き伸ばしたような藪にらみの風貌と、高校生相手に本気の文学論をぶちかます授業スタイルで人気の名物教師だった。
高1で受けた授業は、いまも鮮明に思いだせるほど衝撃的だった。私は初めてテキストを徹底解体するレベルまで掘り下げる「読み方」を知った。小説を乱読するだけだった高井少年には、目からウロコがボロボロ落ちる面白い講義だった。

シュンサク曰く、

「ここに『罪と罰』という本がある。これに『とは何か』を付け加える。『罪と罰とは何か』。本文から、この問いに対する答えを読み取る。それが文学を読むということだ」。

これは唯一の答えでもなんでもなく、「そんな視点もある」という見解だろうが、自分の本のタイトルをつけるという作業のなかで、この30年前の国語教師の言葉が鮮明によみがえった。

「おカネの教室」は、野矢茂樹さんの「無限論の教室」の安易な模倣だったとはいえ、「タイトルありき」だったのは間違いない。そして、「それ」への答えとして、私は時間をかけて物語を構築していったのだった。
このタイトルには、登場人物たちの造形や言動を引っ張る引力のようなものがあり、彼らが動き回れる「教室」という空間を形作っていった。
考えれば考えるほど、「これは『替え』がきかない」という確信が強まった。

もう1つ、大きなファクターだったのは三姉妹、特に次女の意見だった。
私は本作りの方向性についてしばしば「家族会議」を開いた。このコンテンツは長年親しんでくれた第一読者の娘たちとの共有物だったからだ。
予想通り、タイトル変更にはみな反対だったが、次女の「タイトル変えるぐらいなら、もう本出さなくていいよ!」という強硬意見には驚いた。次女は、「キャラクターのニックネームをやめて本名で通す」という案にも「あり得ない!絶対反対!」と猛反発した。
この次女の「ご意見」は、編集アライとの交渉(?)で大いに活用させてもらった。

タイトル論争の決着をみるには、本作り全体の方向性の決定が必要だった。そこには「置く棚のない変な本」という「おカネの教室」の特性が深く関わっていた。

 21 「ビジネス書」でいいのか?

作者は「おカネの教室」はビジネス書・経済書ではなく、「経済解説がストーリーの軸になっている青春小説」だと思っている。
一方、商品としての「おカネの教室」はまぎれもなくビジネス書・経済書に分類される。「しごとのわ」というシリーズ自体、ミシマ社とインプレスがコラボしたビジネス書のレーベルだ。

本は分類される運命にある

「日本図書分類コード」なるものがある。「C」の後ろに4桁の分類用の数字を添えたもので、Cコードとも呼ばれる。最初の数字は「販売対象」、2番目は「発行形態」、残りの右端の2つの数字が「内容」を表す。
おカネの教室の場合、「C0036 = 一般・単行本・社会」に分類される。
書店は基本、このCコードに沿って店頭に本を並べる。
これまであちこちの書店をのぞいたが、「日本文学」のコーナーに置いてあったのは丸善お茶の水店さんだけ。書店員さんが「これは文学だ!」と判断したのか、帯に「青春小説」とあるから間違えちゃったのかは不明だ。

本の分類には「日本十進分類法」というのもある。図書館の本の背表紙に貼ってあるあの数字だ。
例えば江東区立図書館での「おカネの教室」の分類は「330」。「3類」は社会科学で330は「経済」。以前、ある図書館の司書の方がネットで「9類でも良いほどの出来」という感想を書いていた。検索したところ、9類は「文学」だった

そうした例外はあっても、基本、「おカネの教室」は、経済・ビジネス書コーナーで売られる本なのだ。
そこに来るお客さんが手に取ってくれないと、いや、その前に書店に仕入れて並べてもらわないと、売れない。「ビジネス書の読者に合わせた体裁にする」のは当たり前のことだ。

問題は「程度」だ。
ビジネス書というのはおおよそ、

・インパクトのあるタイトルで効用を訴える
・タイトルから想定読者も分かるようになっている
・目次を見れば、内容がだいたい分かる

という作りになっている。これは小説の作りとは真逆だ。
ビジネス書に近づければ、経済青春小説というユニークさは薄まる。
でも、小説に寄り過ぎれば、売り場に並べてもらえない。
このバランスをどうとるか。

私は基本、編集アライの「まずはビジネス書の読者向けに寄せましょう」という提案に沿って本づくりを進めていった。

一例は目次の小見出しだ。
Kindle版に比べて商業出版は具体的な授業内容の説明になっている。「リーマンショックはなぜおきた」などが典型だ。
「4月」「5月」という章分けレベルでも具体的なテーマ、たとえば「市場経済」「金利のメカニズム」といった文言を入れようという案もあったが、これは私が却下した。ビジネス書寄りになりすぎると判断したからだ。

普通の小説では入らない「あとがき」の挿入は私も賛成した。「あとがきから読んで買う人もいる。娘のために長年かけて書いた家庭内連載から生まれたユニークな本だという成り立ちを知ってもらいたい」という編集アライの提案は「ごもっとも」と思ったからだ。

こうして「おカネの教室」は、ビジネス書コーナーで違和感がない作りに寄せられていった。
それはある種の妥協でもあったが、商品としての仕上がりは「絶妙のバランスに着地した」と感じている。

ビジネス書は「狭すぎる」

だが実は、このバランスが一気にビジネス書サイドに傾きそうになった危うい瞬間もあった。
火種はやはりタイトルだった。
発売まで2か月、というタイミングで、サブタイルをもっと実用書寄り、たとえば「なぜ?どうして?金融と経済」とする案が浮上した。
この提案に対して、私が編集アライに送ったメールを抜粋する。ちょっと長いのでポイントを太字にしておく。

結論から言うと、モロに実用書らしいサブタイトルを付けるのはやめるべきだと考えます。
すでにこの本の体裁はガッチリとビジネス書寄りになってます。
「ビジネス書の棚に並ぶのだから」という発想で、さらにノウハウ本臭を出せば、ビジネス書の山に埋没するだけではないでしょうか。
昨今の即物的な装丁やタイトルの書籍に比べると、本書は地味です。
そこを逆手に取って、ビジネス書としては違和感のある作りにした方が、逆に目立つと思います。

もっとぶっちゃけて言うと、この本はもともと、「並べる棚がない本」なんです。だからKindleで出したんです。
そりゃ、最初はビジネス書コーナーに並ぶんでしょう。でも、そこにとどまるなら、知る人ぞ知る良書にとどまって、尻すぼみだろうと思います。
この本がヒットするとしたら、それは、普通の棚に並ぶんじゃなくて、話題の本として平積みになったときです。棚に関係なく。あるいは、影響力の強い有名人なり、書評なり、SNSなりの評判で火がついたときだと思うのです。
それには、「類書のないユニークな本」という立ち位置を狙うべきと考えます。ビジネス書コーナー内で最適化するのではなく。
分かりやすすぎて野暮ったいサブタイトルを付けるのは、即効性を求めるビジネス書ファンは手っ取り早くつかめるかもしれませんが、間口を狭めるし、マーケティング上も得策ではないと思います。普通のビジネス書はダサいくらいの方が売れてるようですが、この本の場合、ダサさは致命的な欠点になると思います。

私は、本を出すのは初めてですが、これまで数千時間を書店や図書館の本棚の前で過ごし、数十万冊の中から、数千冊の本を買ってきました。
何度も愛読するような本は、見た瞬間に、これは自分に向けて書かれた本だ、と直感するものです。一発でジャケ買いした本、パラパラめくっただけでワクワクする本が、外れだったことはありません。
そこまでではなくとも、どこか自分との縁を感じる本、こちらを向いていると思える本なら、迷わずレジに持っていきます。
それは、ビジネス書やノンフィクションであってもそうで、具体的な効用への期待よりも、もっと感覚的な判断、直感がモノを言うのです。
こんなことが書いてあるらしい、こんなことが分かるから読んでみよう、と点数をつけるようにして選ぶのは、ダイエットやストレッチ、マネーのノウハウ本くらいじゃないでしょうか。本書は明らかにそんな即効性のある、安っぽい本ではありません。
そういうブックハンターとしての私の感覚からすると、本書の作りは、現時点で、読者を限定する「狭すぎ」に陥るギリギリのところに来ていると思います。

もちろん、何が書かれているか分からなくてよい、という訳ではありません。
でも、その部分は、帯と広告で補えるのではないでしょうか。
ですので、サブタイトルを付けるとしたら、私は、ソフィーの世界(サブタイトルは、哲学者からの不思議な手紙)や、アルケミスト(夢を旅した少年)のような方向であるべきと考えます。
小説家気取りをしたいわけじゃありません。普段はビジネス書や経済書を読まない人たちが手に取ってみようと思うよう、間口を広げるべきだからです。
そもそも、これは、「そういう人」の一人である、我が娘のために書いた本なのですから。

長文ご容赦。以上、言いたいことは全て書きました。
あー、スッキリした!

よくもまあ、こんな傲慢なモノを送り付けたものだ。「あー、スッキリした!」なんてのは、いい大人が仕事のメールで使って良い表現ではない。
もうこの頃には、編集アライとのやり取りは「あけすけに、ガチで行きましょう」というモードになっていたし、ロンドンと京都という物理的距離もあり、遠慮している余裕はなかった。

編集アライからは「率直な意見、ありがとうございます!」という返信とともに「これはもう、スカイプで打ち合わせしましょう!」という提案が来た。
会議に先立って、私は自説を補強するデータを集め、事前に編集アライと共有した。こちらも資料の抜粋を載せておこう。

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私が主張したかったのは、主に2点だった。

・ビジネス書の読者層は狭い。「小説」であることを売りにすべき
・タイトルは大事だが、帯やデザイン、「口コミ」等で補える

2018年1月20日、私と編集アライはオンラインではあるが、初めて「顔を突き合わせた打ち合わせ」をやった。
この日のはタイトル問題のほか、営業・販促の展開、カバーのデザインなどを詰めた。この頃には私が4月に日本に帰任すること、2月に一時帰国することが決まっていたので、その際のスケジュールなども話し合った。
懸案のタイトルについては、私の提案の線で行きましょう、という結論になった、はずだった。

揺れる乙女心

ところが、その2日後、編集アライから「サブタイトルがメインのほうがいいんじゃないか?という声があります」というメールが届いた。「『僕らがおかしなクラブで学んだ経済のカラクリ 〜物語・おカネの教室』という感じです」と具体例も挙げてあった。
そのメールには「それもいいのかなという気持ちもなきにしもあらず」とあるかと思いきや、「いや、『おカネの教室』は『飛ぶ教室』みたいな感じでええのでは、などとぐるぐる頭がまわりよくわからなくなっております」と揺れる乙女心が綴られていた。

私は「メーン・サブ入れ替えは絶対反対」と再度長めのメールを送り返すとともに、「むしろ経済入門書感を下げよう」と4つの代案を出した。

おカネの教室~~僕らの奇妙な課外クラブ活動日記
おカネの教室~~奇妙なクラブで僕らが学んだ世界のカラクリ
おカネの教室~~おかしなクラブで僕らが学んだ秘密
おカネの教室~~ようこそ、おかしな課外クラブへ

この3つ目は、最終案に限りなく近い。
そしてこのメールへの返信で、ついに編集アライが最終案にたどり着いた。

現状の私の意見としては、
『おカネの教室  僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』
をタイトル・サブとして、たとえば帯に(中略)
という感じでしょうか。あ、これけっこういいのかもしれない・・・・
ひとまず、追ってメールいたします!

私も、「きた!これだ!」と思い、すぐさまメールを返した。

そう!そういう感じですよ!
やっぱり自然ですよね、そのタイトル・サブのバランスが。

この直後に編集アライから来た返信が、タイトルバトルの最終決着となった。
そのメールに、私はまた「こいつ…デキる…!」とうなった。
それはこんな書き出しだった。

高井さま
こんにちは。
今日、丸善京都本店、ふたば書房御池ゼスト店さんに行ってきました。

編集アライは「いいかもしれない…」というタイトル案を携え、現場の書店員さんの率直な反応を現地調査してきたのだった。
「足で稼ぐ」
「迷ったら最前線のプロに聞く」
これは、私の本業の記者稼業でも基本中の基本だ。
編集アライの調査で、書店員さんからはこんな意見をもらった。

・内容を説明するようなタイトルの方が分かりやすいけど、「おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密」のほうがいろんな棚に置きやすい
・「経済のカラクリ」などと入ってしまうと、「あ、自分のことじゃないな」とむしろ手にとらなくなりそう
・要は「装丁次第!」

この「現場の声」に背中を押され、編集アライと私は「この線で詰めていきましょう!」と合意に至った。
その後、我々は「サブタイトル無しで『何だろう、この本』と思わせましょう!」というところまでラディカル路線へ突き進んだのだが、これは最後にオトナの人たちから「いや、それはいくら何でもワケワカランだろう」とブレーキがかかった。
今から振り返ると、オトナの皆さんのご意見は大変ごもっともだと思う。

結局、タイトルは、家庭内連載版から大きく変わらなかった。
では、「タイトル探し」は無駄だったのか。
そんなことはない。
「ゼロベースで徹底的に見直す」という作業を経て「これでいいのだ!」という確信が深まり、同時に「この本はどんなコンテンツなのか?」と考え抜くとても良い機会になったからだ。
編集アライの予言(?)通り「考えた末に『おカネの教室』が一番だ!となるのはOK」だったのだ。
恩師・シュンサクの教えを転倒させれば、「『答え=作品』に対して適切な『問い=タイトル』になっているのか」をトコトン考え抜いたという手ごたえを私は感じている。

さて、上記のように、書店員さんからは「要は装丁次第!」という声があった。
「顔」は決定的に本の売れ行きを左右する。本を「ジャケ買い」する傾向のある私も同意見だった。
そして「おカネの教室」は、ビジュアル面で素晴らしいチームに恵まれた。

 22 想像超えたデザインの力

「おカネの教室」のブックデザインを担当したのは佐藤亜沙美さんだ。
アトリエ「サトウサンカイ」のサイトを見れば一目瞭然の超売れっ子デザイナーだ。
編集アライから「デザインは佐藤さんにお願いする」と連絡をもらったとき、「デビュー作でこんな素敵な装丁家に…」と感激したのを覚えている。

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黒板をイメージした濃緑のカラーに、何が起きるのかワクワクするイラスト、目を引く「お金の手に入れる6つ方法」を配した、「ジャケ買い」してもらえる素晴らしい装丁は、間違いなくヒットの一因だ。カバーを取れば、福沢諭吉と「透かし」部分に並ぶ3人と、遊び心もあちこちにある。

サッチョウさんの「寝ぐせ」秘話

佐藤さんが起用してくれたイラストレーター、ウルバノヴィチかなさん(以下、かなさん)の貢献も特筆したい。

かなさんはあれこれ面白いことをやっているクリエーターで、書籍のイラストを手掛けるのは「おカネの教室」が初めてだったという。
作品をとても気に入ってくださっている、と編集アライ経由で聞いていたのだが、キャラクターのデザイン画が届いたとき、それが社交辞令ではないと確信した。

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(初期のキャラクター画)

私が驚いたのは、サッチョウさんの寝ぐせだった。
見た瞬間、「これだ! こいつが、サッチョウさんだ!」とイメージが一気に固まった。
スティーブン・キングのフレーズを借りれば、これは「人生に女の子が入ってくる前」の男子だ。私自身、小学校のときはもちろん、中学に入ってしばらくは寝ぐせも直さず学校に行っていたのを思い出してしまった。

実は、サッチョウさんについては、「ちょっとさえないフツーの中学生」というくらいで、作者のなかでも外見の明確なイメージはなかった。「無味・無色」な語り手としてあえて色がつかないようにしていた面もあった。
カイシュウさんには米バスケ黎明期の名選手ジョージ・マイカンという外見のモデルがあり、ビャッコさんにもある程度のイメージはあった。
この絵を見た後はもう「サッチョウさんは、こいつしかいない」というほどイメージが固定された。現在書きかけている続編のイメージを膨らませる助けにもなっている。
イラストレーターの洞察力には恐れ入るしかない。

ちなみに、かなさんの旦那さんのマテウシュ・ウルバノヴィチさんもポーランド出身のイラストレーターで、映画「君の名は」の背景で有名。「東京店構え」というイラスト集がベストセラーになっているのをご存知の方も多いかもしれない。

世界を広げてくれるイラストたち

キャラ絵のあとも、佐藤さんとかなさんからは、挿入する扉絵のラフなどが続々と届いた。見ているだけで「おカネの教室」の世界が広がっていくようだった。どれも素晴らしくて、選ぶのが大変だった。

最終的に各章にはワクワクする扉絵がついた。
佐藤さんのアイデアで扉絵に吹き出しをつけることになり、この宿題にはかなり苦労した。
特に悩まされたのが6月と8月だったが、苦労の甲斐あって、「お父さん、どうして?」というセリフを配した8月の扉絵は、作品のヤマ場を象徴する完璧な出来になったと自負している。

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エピローグの扉絵も素晴らしい。
是非、物語を読み進めてから、ご覧になっていただきたい。特に、ビャッコさんの表情を。

デザイナーの佐藤さんには最後の最後で「参りました」と思わされた。
「あとがき」の後ろ、プロフィールの下に並んだ3人のイラストにつけられたセリフが、それだ。
「またどこかで会いしましょう!」
これには「この物語はまだ語りつくされていないでしょ?」という問いを突き付けられた思いがした。

こうして本文、想定とも本作りがいよいよ佳境を迎えつつあった2018年2月の半ば、私は帰任後の家探しのため、日本に一時帰国した。いよいよ編集アライ、そして版元インプレスの皆さんとリアルにご対面する時がきた。

 23 本は「初速」が命!

2018年2月11日の早朝、私はほぼ2年ぶりに日本の地を踏んだ。
ロンドンからのフライトは約12時間。プレミアムエコノミーの座席は案外快適だったが、あいにく風邪気味で着いた時にはヘロヘロだった。
帰国の第一の目的は、3週間後に帰国予定の家族が入居するマンションを探すことだった。着いた日の午後からすぐに江東区・墨田区方面でいくつも物件を回り、現在この原稿を書いているマンションの一室を確保した。

そして2月某日、私は自由が丘のミシマ社東京オフィスでついに編集アライと対面を果たした。版元インプレスの「しごとのわ」担当、井上さんも加わって、3人で作戦会議を開いた。

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(問題の編集アライ。昭和家屋なミシマ社オフィスで)

実物の編集アライは驚くほど若く、お肌はつるつる。ときおり見せる鋭い目つきとちらつく棘が「コイツ、できる…」と思わせる「剛」のキャラだった。
インプレスの井上さんはほんわかした語りと目をみて「うんうん」と相槌を絶やさない「柔」のキャラ。
「しごとのわ」の2人は「なかなか良い凸凹コンビだな」と思った。

荒業・初版の印税放棄

発売まで約1か月。本作り自体は詰めの段階に来ていた。3人の打ち合わせは「この変な本をどうやって売り込むか」というテーマに集中した。
かねて私はマーケティングに関して、ある「武器」の投入を提案をしていた。
「武器」とは、初版分の印税のことだ。私は「初版分は印税はいらないので、それをプロモーションに投入してほしい」と提案していたのだった。

無名の新人の変な本だ。マーケティングの予算は限られるだろう。
初版分ということは「定価1600円×ウン千部×ウン%」なので、大層な金額ではない。それでも、アレコレ手は打てる。
3人でこの「武器」の活用法やその他のアイデアを練った。

すぐ決まったのが、発売直後にインプレスのサイトに載せた著者インタビューだった(こちらがリンク)。
ベタな手法ながら、これは効果抜群だった。ジャーナリストの佐々木俊尚さんがSNSで本の推薦と一緒にシェアしてくれて、一気に拡散されたからだ。佐々木さんには、ご著書に個人出版のKindle版を出す背中を押してもらい、Kindle版もオススメしてもらった御恩がある。
インタビューは後日やることとなり、この時は写真だけ撮った。カメラマン・編集アライがバシャバシャ撮る間、私は井上さん相手に「ロンドンでは豚骨ラーメンとカツカレーがブーム」といったくだらない話を熱く語った。

嬉し恥ずかし書店回りデビュー

この会議の後、私は編集アライとともに東京屈指のオサレ書店、青山ブックセンター(ABC)に向かった。「しごとのわ」シリーズを推してくれていて、ゲラを読んで「おカネの教室」も気に入ってくれた書店員さんがいるという。
10年ぶりくらいに行ったABCは、記憶の通り、デザイン系の大判の本が並ぶオサレな棚づくりで、正直、「ホントにこんなオサレな店に自分の本が並ぶのかいな」と半信半疑だった。
そんな気持ちは、ビジネス書担当の益子さん(当時。現在は「TSUTAYA LALAガーデンつくば」にご在籍)に対面して氷解した。
「うわー! 高井さん! もう、この『おカネ』、最高ですね! ほんと、この本、絶対売れるべきですよ!」
益子さんはテンションが異常に高く、ハッキリ言って、お仕事の初対面モードとしてはちょっと挙動不審だった。
もっとも挙動不審なのは益子さんだけではなかった。
同行者によると、この時、私は顔を真っ赤にして、テレまくって、困っていたらしい。自分の本がこんなに面と向かって絶賛されるのは想定外で、戸惑うしかなかった。
参ったのは、裏のセミナールームに連行されて書いた色紙だった。私は手書きの字がすこぶる汚いのだ。冷や汗をかきながらなんとか文句をひねり出し、ぎこちない手つきで何とか色紙を書き上げた。

ABCは「おカネの教室」の大展開をかなりの期間続けてくれて、全国の書店でも屈指の販売を記録した。

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(発売直後のABCの棚。入り口すぐの位置で色紙付き大展開。無名作家のデビュー作としては異例の扱い)

益子さんは現在お勤めの新天地でも「おカネの教室」をプッシュしてくれている応援団長のような人で、歳は離れているけどウマも合い、たまに飲んだりしている。つくづく、「おカネの教室」は、本作りでも、読者に届ける面でも、「縁」に恵まれた本だな、と思う。

現場の声から学んだこと

この一時帰国時には、ABCのほか、丸の内の丸善、新宿の紀伊國屋書店とブックファーストなど都内屈指の大型書店をいくつか回った。どこでも書店員さんとの会話からあれこれ学ぶことが多かった。
あえて一言に集約すれば、「本を売るのは大変だ!」という、当たり前の事実を、肌で実感できたのが収穫だった。
ある書店員さんは「この本は、このまま並べたら、ウチでは売れません」と即断した後、その場で「子供に読ませたいと思えるフレーズを添えて、お父さん、お母さんに手に取ってもらう」というポップ作戦を示してくれた。
別の書店員さんは「埋没しないように平積み用の目立つボックスを」とアドバイスしてくれて、インプレス井上さんが奮闘してリクエストに応じた。
「良い本なら売れる」などという甘い時代ではないのは、アタマでは分かっていたつもりだったが、現場の声を聴くほど「本は書いたら終わりじゃなくて、出してからが本番」という言葉が現実味をもって迫ってきた。

合言葉は「初速」

版元インプレスの神保町の本社での会議でも驚きがあった。「自分&アライ&井上プラス2人ぐらいのスモールミーティングだろう」と想像していたのだが、実際はマーケティング部門のトップから電子書籍のご担当、現場の営業の方々などで10人掛けのテーブルは満席。まわりの予備の椅子でギリギリなんとか収容、という大人数が集まった。
「こんなに多くの人が、自分の本を売るための作戦会議に参加してくれるのか」とちょっと感動した。

井上&アライ&私は「武器」と、その使用法のアイデアを説明した。

①書店向けの特製ポスターを作る
②特製しおりを数万枚、書店に配布する
③動画広告を街頭の大型ディスプレーに流す
④書店回りなどで印象に残るよう、特製名刺を作る

私はこの本の出版で「とことん、遊ぼう」と思っていた。言わずもがなだが、「遊び」というのは言葉の綾だ。
「真剣にやれ! 仕事じゃねーんだぞ!」という名文句がある。「遊ぶ」なら。本気でやらないと楽しめない。
できるだけ「長く、深く」遊ぶために必要なのは「サバイバル」だと認識していた。ビジネス書の新陳代謝は激しい。書店内で生き残ることが、優先課題だ。
それにはスタートダッシュが肝心。初版の印税放棄というアイデアはこのサバイバルの発想から来ていた。

インプレスの「チーム・おカネの教室」の会議で、私は自分の考えがその道のプロと一致しているのを確認できた。
会議で繰り返し出たキーワードは「初速」だった。
どうやって初速、つまり発売直後に販売を伸ばして、「置けば売れる本」と書店に認識してもらうか。
新陳代謝の激しいビジネス書の中で、無名の新人の本がサバイバルするのは容易ではない。下りのエスカレーターを上るぐらいでは足りず、鯉の滝登りぐらいの勢いを出さないと、店頭から消えてしまう。

この「初速」という言葉が印象的で、これ以降、私は初版印税分の販促費用プールのことを「燃料」と呼ぶようになった。地球脱出速度を出して衛星軌道に乗るためのブースター役のイメージだ。

会議はテーマを「初速」に集中させた有意義なものになった。内容もさることながら、私が嬉しかったのは、インプレスの方々が「おカネの教室」を読んだうえで「これは良い本だから、売れるべきだ」という意識を共有してくれていたことだった。
この「熱」にこたえるためにも、初速を出すのにやれることはやろう、という決意を新たにした。

この帰国時には、佐藤亜沙美さんの事務所「サトウサンカイ」にも伺った。
昭和なビルの素敵なアトリエで創作の裏話などをまじえて楽しいひとときを過ごした。ポスターや名刺のデザインも膝詰めで打ち合わせができた。
佐藤さんは物腰の柔らかい方で、とてもリラックスできる相手なのだが、本棚に並ぶ数々のヒット作や、所狭しと貼られたアートを担当されたイベントや雑誌のポスターに圧倒された。「こんな凄い人に『衣装』を着せてもらって幸せな本だなあ…」という感慨を新たにした。

編集作業、ついに完了!

約1週間の濃密な日程をこなし、2月18日、私はロンドンに舞い戻った。
帰任までの1か月ほどで引継ぎや帰国手続きなど、やるべきことは山ほどあった。「おカネの教室」の方も編集アライや井上さんと日々、忙しいやり取りが続いた。
そんなバタバタの日々を過ごしていた2月27日、編集アライからこんなメールが届いた。

先ほど、本文、装丁ともに完全に私の手から離れました!!!!!!
素敵な本を本当にありがとうございました。
とりいそぎのご連絡まで!

6月末からちょうど8か月で、ようやく「おカネの教室」の編集作業はゴールインした。私はすぐさま、

おおおおお!!!!!
お疲れ様でした!!!
あとは、売るだけ!!

と返信した。
ついに矢は放たれた。発売日の3月16日まで、もう3週間を切っていた。

 24 ついに発売! でも…

2018年3月初め、家族が先に帰国し、3週間余りの独身生活が始まった。ちょっと寂しいけど、ひとり身は身軽で気軽。「残りのロンドン生活、楽しみ倒してやろう」と目論んでいた。

まず拠点をロンドンの繁華街のど真ん中に移した。宿はAIRBNBを利用した。欧州ではエアビーがとてもリーズナブルかつ便利だ。
最初に泊ったのはコベントガーデン駅から歩いて5分の部屋。10億~20億円はする超豪華フラットの1室を借りるルームシェアタイプだった。
2番目はSOHOのど真ん中のワンベッドルームのフラット。どちらもロケーションは最高で、1泊100ポンドちょいだった。
部屋選びで重視したのは、ウエストエンドの各シアターに歩いてアクセスできることだった。帰国までの3週間ちょいの間に、ミュージカルを8本鑑賞した。仕事後に宿で軽食を食べ、歩いて劇場に行って、帰りにパブに寄ってエール片手にパンフレットを読み返すという極上の日々を過ごした。

ミュージカル漬けの日々の間隙をぬって、ベルリンへの弾丸ツアーも決行した。思春期に冷戦終結を体験した最後の Cold War Kids 世代として、どうしても行っておきたい場所だった。
ベルリンの壁やブランデンブルグ門、チェックポイントチャーリーなどベタなスポットを見て回ったのだが、記録的寒波で、人生で初めて「このままでは凍死する」と恐怖感を覚えるほど寒かった。

発売!されたんだよね…?

さて、私が欧州最後の日々をフラフラと過ごしているうちに、「おカネの教室」はちゃんと3月16日に発売され、店頭に並んだ。ギリギリ発売前日にはロンドンにも見本誌が届き、「おお、本になった!」という感慨はあった。
しかも、「おカネの教室」は予想以上の「初速」を発揮し、無名作家のデビュー作としては異例の売れ行きを見せた。
佐々木俊尚さんのご推薦のほか、ビジネスブックマラソン(BBM)も発売4日目にして「傑作です」と太鼓判を押してくれたのが大きかった。
Amazonのランキングはわずか数日で9000位前後から1000位以内、100位以内と文字通り「けた違い」に上昇し、最高28位まで食い込む「お祭り」状態になった。
インプレスの井上さんからは「書店でこんな展開になっています!」と平積み・面展開の写真が続々と届いていた。
発売から2週間足らずの3月28日には、早々に重版まで決まった。

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(ウルバノヴィチかなさんのお祝いイラスト)

絶好のスタート、望外の売れ行き、早々の重版。
当然、嬉しかった。
毎日、何度もAmazonのランキングをチェックして一喜一憂した。

でも、釈然としない思いもあった。
せっかくの「お祭り」状態なのに、私は「現場」の日本から遠く1万キロも離れたロンドンにいるのだ。どうにも実感がわかない。
先に帰国した家族からも「ホントに本屋に並んでるよ!すごい!」と報告があったが、聞けば聞くほど「祭りに乗り遅れた…」という「損した感」がぬぐえなかった。

帰国

そんな喜びとモヤモヤのもんじゃ焼きな日々も、忙しさのなかであっという間に過ぎた。
帰国直前、休暇を取って今さらながらのロンドン観光に1日を費やした。セントポール大聖堂の528段の階段を登りきると、晴天の下、絶景が広がっていた。

ロンドン最後の夜となった28日には同僚の記者たちが行きつけのパブ、Inn Of Courtで送別会を開いてくれた。「これが飲み納めだ!」としこたまエールを楽しんだ。

翌29日、ロンドンを午前に出て日本の早朝に着くという、時差ボケ確定便で帰国の途についた。案の定、機内ではほとんど寝られなかった。
羽田からタクシーで自宅に直行すると、家族と約1か月ぶりに再会した。さすがに疲れていたので、まずはひと眠りした。
数時間の仮眠のあと、私はそそくさと大手町に向かった。
目指すは、丸の内の丸善。
勝手知ったる行きつけの書店の入り口を、いつもとは違う、はやるような気持ちでくぐった。

当たり前だが、そこにはちゃんと、私の初めての本、「おカネの教室」が並んでいた。

画像19

(この透かしが入ったお札風の帯は貴重な初版バージョン)

「おいおい、ほんとに、売ってるよ!」
写真で散々見ていたはずだったが、現実に自分の目で見ると、それはやはりニヤニヤと頬が緩んでしまうのを抑えられない、格別の体験だった。

小学生の長女を相手にチマチマと書きはじめた家庭内連載は、8年の時を経て、いろんな縁に恵まれて、書籍として世に出た。
ちょうど連載開始時の長女と同じ年頃だったころ、本の虫だった高井少年が抱いた「いつか自分の本を出したい」という夢は、こうして叶ったのだった。

番外編 「深い」小説ってなんですか?

なぜか多い「映画化希望!」

書籍版、Kindle版を通じて、読者からたくさんの感想をいただいた。
リアルでお会いした方やAmazonレビュー、ブログのコメント等をあわせると、200人ぐらいの「声」に接したと思う。
大半を占めるのは以下の3パターンだ。

・経済やお金の仕組みがすっとわかる
・ストーリーが面白い
・子供に読ませたい

セールスポイントをまっすぐ受け止めてもらい、ありがたい限りである。
上記の3点とあわせて、かなりの数、映画・ドラマ等の映像化やマンガ化の要望を頂戴している。

片岡義男は20年ほど前、自選の18の短編に自らショートコメントをつけるというユニークな「小説作法」という本を出した。短編「パッシング・スルー」に添えたコメントにこうある。

自分が見た光景をいったん頭の中で映画フィルムに置き換え、そのフィルムを頭のなかで映写しつつ、スクリーンに映し出されるものを言葉で描写していく、という趣を強く感じる。少なくとも小説の場合、僕の書きかたは基本的にこうなのだ。

「おカネの教室」も同じような手法で書かれている。というより、シーンを思いうかべ、そこで繰り広げられる登場人物たちの言動を写し取っていく以外に、物語を書く方法はあるのだろうか。
いずれにせよ、こうした書き方が、映像化・マンガ化希望が多い一因だろう。読んでいると「絵が浮かぶ」のだと思う。
「できるまで」のシリーズ1総集編の繰り返しになるが、作者はこの作品を、「経済解説がストーリー上の重要な要素になっている青春小説」であって、「青春小説の要素を加味した経済解説書」ではないと思っている。
まだそこそこのヒットの段階で「映画化を」という声が上がるのは、この見解を裏付けてくれていると解釈している。

小説として「浅い」?

一方で、「おカネの教室」には、「小説としては浅い」という率直な意見もいただく。
出版社に売り込んだ際、ある編集者にはズバリと「単に小説としてみれば出版するレベルではない」と指摘された。
作者としては、「ごもっとも」と思う。
本作は「娘に読ませる私家版の軽い経済解説読み物」が小説に変質したものだ。成り立ちからしてリーダビリティが最優先で、そもそも小説志向というか、「小説性」とでもいえる要素は弱いのだろう。

そのうえで、「だが、しかし」とも思うのだ。

保坂和志は2003年刊の「書きあぐねている人のための小説入門」で、「『ネガティブなもの(事件、心理…など)を以て文学』という風潮が嫌だった」から、デビュー作「プレーンソング」を書く際、「悲しいことは起きない話にする」というルールを自らに課したと明かしている。

書いていく過程で、物事を叙述する文章というものがほとんど自動的に不幸の予感(または気配)を呼び寄せることに気づいた。 (中略) 小説にはそういうネガティブな“磁場”のようなものがあるらしいことが、書くにつれて強く強くわかってきた (中略) 感傷的な小説は非常に書きやすい。小説にはネガティブな磁場が充満しているから、何を書いても簡単にさまになってしまうのだ。

私はいわゆる「純文学」が苦手で、保坂の「小説の新たな地平を開く」といった方向性にはついていけないところもあるのだが、この本の「頭を小説モードにしない」という項の指摘には全面的に同意する。

原稿用紙やパソコンに向かったとたんに頭が小説モードに切り替わってしまうのだ。その結果、どこかで読んだような、きわめてステレオタイプな小説が出来上がってしまうわけだが、書いている本人はそうでないと小説ではないと思っている。つまり、小説の外見に守られることで、小説を書いているつもりになっている。 (中略) その小説は、小説ではなく、すでにあるものになってしまう。(太字は原文では傍点)

保坂は「『感傷的な小説』は罪悪である」という項で、さらに踏み込んでこう言い切る。

感傷的な文章やストーリーで書かれた小説は、ひらすら深刻なことばかりが書き連ねられている手記と同じようにベストセラーになることが多いけれど、それらがベストセラーになる理由は、「読者が成熟していないからだ」と、まず割り切ったほうがいい。

これは、読者を侮った言説、というより、保坂流の「売れたほうがいいけど、売れるために小説を書くわけじゃない」という矜持の表明だろう。

「小説として浅い」というご指摘には、その「浅さ」は認めつつ、保坂が指摘する「ネガティブなものを良しとする価値観」や「小説モードの文体に沿っていないことへの違和感」が混じっていると疑っている。

面白いは正義

私にとって小説とは「読んでいる間、その世界や文章に浸り、引き込まれてページをめくってしまう読み物」でしかない。
芸術としての文学の可能性とか、人間存在の根源を問う「深さ」とか、正直、どうでもよい。
書かれているのが焼きそばの作り方だろうが、リトルピープルであろうが、臓器移植を待つクローン人間だろうが、どうでもよい。
「面白いなー」と読み進めて、最後までページをめくって「面白かった!」と思えれば、それは良い小説だ。
ときにそれは、「面白い」ではなく、「すごい」とか、ただの唸り声かもしれない。「とにかく先を読まずにいられない何か」があれば、それで良い。

夢中で浸るためには、興が覚めてしまう「穴」は許されない。
たとえば最近読んだある話題作(「滅多にない極上の小説」という触れ込み)では、海外のバーで旅慣れた主人公がバーテンダーに「〆」のポーズで会計を頼むというシーンで一気に萎えた。居酒屋じゃないんだから。結局通読したのは、貧乏性のなせる業だ。
私は村上春樹の作品の大半を読んでいるが、それは、最後まで面白く読めること、「穴」が絶対にないことを信頼しているからだ(ほぼ再読しないのでハルキストではない、はず)

誰だったか思いだせないのだが、ある作家(中島敦?)は小説を読んで論評する席でも「面白いなぁ」としか感想を漏らさなかった、という逸話をどこかで読んだことがある。
そう、面白ければ、何でもよいのだ。たかが小説なんだから。
だから、「おカネの教室」について、「浅い」と言われても、「So what?」としか思わない。「つまらない」と言われれば、返す言葉もございませんが。

「おカネの教室」の書籍化に際して私が出版社につけた注文は、「ビジネス書風にリライトはせず、できるだけ『変な本のまま』出すこと」だった。
企画段階で、ある出版社からは「ストーリー風はやめて作中の講義内容を解説するビジネス書スタイルに全面リライトする」という提案をいただいた。「50万部行けます!」ということだったが、丁重にお断りした。
「おカネの教室」の講義内容は、経済書あるいはビジネス書としてみれば、大して新味はない。ロジックや細部の「詰め」には甘いところもある。せいぜい「現役記者が娘に書いた」ぐらいがセールスポイントの、ありふれた経済入門書になったことだろう。
一方、これを「変な本」、言い換えれば、「変な小説」としてみれば、かなりユニークなものになっている。知る限り、類書はない。

高橋源一郎は「一億三千万人のための小説教室」で小説をこう定義している(あるいは定義することを拒否している)。

小説には、形がない。確固としたものがない。それに向かう中心、それが小説であるという、明確ななにかはないのだ、とわたしは思うのです。
(中略)
だから、小説は、詩に似たり、評論に似たり、エッセイに似たり、テレビドラマに似たり、する。なにを、どう書いても、小説であることが許される。
それが小説なのです。

稚拙なデビュー作を名著と同列に扱うつもりは全くないが、ローラン・ビネの「HHhH」やリチャード・パワーズの「舞踏会に向かう三人の農夫」にしたって、評論なのか小説なのか判然としない、相当、変な小説だろう。パワーズは「絶対誰も読まないだろうという確信のもとに」このデビュー作を書いたという。

最後にこれまでAmazonでいただいた50件近いレビューから、一番のお気に入りを引用して締めくくりたい。

お金の話なのに
ストーリーに引き込まれて気づいたら読了。読後感は最高レベル。何だろうこれは。

評点は「1つマイナス」で4つ星なのだが、「何だろうこれは」の一言は、「変な本」への最大の賛辞と受け取っている。

あとがき

「『おカネの教室』ができるまで」、ご愛読ありがとうございます。
本編「おカネの教室」を読んだ方はもちろん、未読の方でも、楽しんでいただけるよう、アケスケに、赤裸々に、創作や本づくりの舞台裏を綴ってきました。

白状しますと、このデビュー体験記は初め、「おカネの教室」の販促活動の一環として始めました。note経由で本を買って下さった方々もいて、ある程度は効果もあったのだろう、と思います。
そうした「下心」を超えて、自分自身でも忘れていたような創作や個人出版の経緯、多くの人と一緒に「本を作り、売る」という作業を振り返ることができたのは貴重な体験でした。
「こんなの書いている暇があったら、さっさと続編を書きなさい」という声も無きにしも非ず、なわけですが、楽しんで書けたので、これも「本気の遊び」の一環とご笑読ください。

続編なのか、マンガ版なのか、映画化(!)なのか、形は分かりせんが、皆さんと「3人組」の再会を祈りつつ、それでは「またどこかで会いましょう!」。
2018年11月 高井浩章

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高井宏章
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