ひとつの、ありようとして。息子の不登校。

長男は発達障害だ。
息子はこの障害のお陰で、なんやかんやあった。

最初にお断りしておくが、不登校を闘っている方には共感する部分もあるかもしれないし、不快感やトラウマに触れる部分もあるかもしれない。
ご注意いただきたい。

長男は中学2年で不登校になった。

この頃はまだ、発達障害も起立性調節障害も診断はおりておらず、正直何がなんやらわからないまま、欠席日数はかさんでいった。
ままならない体調を、癲癇の主治医に相談しながら、何とかこなしていた中学校生活だった。
しかし夏休みが終わって半月もすると、とうとう体力も気力もつきて外出が困難になった。

母親からみて、とうに限界に達しているはずの息子が、這ってでも車に乗り込むのは友情のためだ。
少人数クラスの思いやりに満ちた仲間の誰かが、ふらつく彼の背に手を当てていてくれる様子がよく見られた。

しかし、とうとうある日、息子は私の運転する車で学校の駐車場に到着したものの、土気色の顔をして、震えが止まらず、座席に張りついていた。
様子を見に来た何人かの教師が彼の姿に凍りつく横を、中学二年時の担任は何枚かのプリントを整理しながら足早に通り抜け、息子の顔に一瞥もせずこう話し始めた。
「職業体験が近いのは知ってるよね。その日程表があるんだけどね。」
私は正直、絶句した。
側にいた教師がさすがに見かねて、
「先生、彼の顔を…。」
と制止した。
担任はいぶかしげに、その日はじめて息子の顔を見た。
「ああ、相変わらず具合悪いのか~。じゃ行けないかな?職業体験。」
息子は顔を押さえてうずくまった。

私は集まった教師たちに向かって、
「息子は明日からはずっとお休みします。
登校はしませんので朝の連絡もいたしません。
私はPTA会長としての役目のある限り毎週のように顔を出しますので、用件はその際承ります。」
というと車に乗り込んだ。
多くの教師は深く頭を下げたが、担任はきょとんとした顔のまま、私たちを見送った。
不登校はここから、本格始動した。

それからの息子は日中、うずくまって茶色の毛布をかぶってすごすようになった。
巨大な「おはぎ」のような姿は半年ほど続くことになる。

一方担任は、毎日夕食の支度をする頃にあらわれては、息子に会わせてくれとせがんだ。
私はその日一日をどう過ごしたかを、なるべく丁寧に伝えた。
一日つっぷして、毛布にくるまっている。
あまり食べれなくて、頭痛がひどくて、誰とも会いたくないと。
担任はカーテンを引いた窓を眺めた末に、さも不満そうに帰っていく。

担任は教師のマニュアルにしたがって、不登校が家庭内暴力や過保護によるものでないのか、生徒の安全を確認したいのだ。
「クラスの皆が待ってる。」
「心から心配している。せめて顔を見せて欲しい。」
毎日毎日、担任は同じ言葉を繰り返す。
「できないんです。
できるなら、しているはずです。」
毎日毎日、私も同じ言葉を繰り返す。
「なぜ、顔を見せる程度のことにこたえれないのか?
後ろめたいことがあるんじゃないか?」
そう見られていることは承知のうえで。

担任が自分の帰宅時間に合わせるので、我が家がようやく夕食になる頃合いに決まって訪問となる。
お腹は空くし、息子も私も不機嫌になる。
当時小学生だった次男は怖がり、インターホンが鳴る前にカーテンをしめるようになった。
いよいよもて余し、主幹教諭に理解を求めたところ、私の目の前で担任を注意し、真摯に詫びてくれた。
拷問じみた家庭訪問は二ヶ月ほどで終息した。

学校側からは何の案内もなかったが、通学支援教室があることを友人から教えてもらえた。
校長と直接話し合いそちらへ通うことに決めたが、担任はその後も私と息子の悩みのタネだった。

「中学校には通いません。
たとえ用事ができても一日を過ごすことはあり得ません。」
こう伝えていたものの、給食費は年度末に私が気がつくまで、3ヶ月分が徴収されつづけた。
担任は給食費を止めろとは言われなかったからと、困った顔をするだけだった。
市の担当部署に問い合わせると、窓口の女性は、
「学校に来たとき給食がないと可哀想でしょう。
先生のやさしさがわからないんですか!」
といい、話す余地も価値もなさそうだった。
息子の分の給食は、友だちの誰かの成長に役立ったと思ってあきらめた。

また、夏休みの宿題の作文がある新聞社賞にえらばれたので授賞式に出られないかと伝えてきたこともあった。
息子は文章を作れない。
小学校低学年のような内容の数行の感想がやっとだ。
卒業した小学校から申し送りをしてもらい、私からも中学入学時から再三伝えてあった。
作文が出題され、やらないという選択肢が選べない場合は、母親との共同作になると…。
「それでもいいから提出だけはしてくれ。」
それが学校側のスタンスだった。
「あれは純粋に息子だけの作品ではないと知っていますよね。
自分の力で書いた子どもたちに失礼ですので、受賞は拒否します。」
私は様々な感情を堪えてそういった。
「では、ご本人の都合で辞退しますと伝えます。」
担任はそれだけいうと、そそくさと去っていった。
息子にはありのまま伝えた。
ものを投げて怒り狂った後、静かに泣いた。
その後、教頭がお詫びの電話をかけてきた。

年が明けると、担任は息子が修学旅行に行けるつもりで準備をはじめた。
以前から、修学旅行は無理だと伝えてあったが、まともにうけあってくれない。
「クラスの皆がガッカリする。」
と盛んにいうので、クラスメイトにも、その保護者にも息子の様子や一緒に行けない事情を説明し、理解を求めた。
皆、理解するばかりか寄り添ってくれた。
給食費の例もあるので、修学旅行の保護者説明会で修学旅行費用の全額返金を求めた。
「中学生活最大のイベントなんですよ。」
と食い下がるので、
「気圧の変化に敏感だとお話したはずです。
飛行機がもし急病人発生とした際、あなたが今だ理解していない息子の状態を航空会社にどう説明し、どう理解してもらうのですか?
全ての責任をおっていただけると一筆いただけますか?」
と返答すると、
「それは保険教諭が…。」
とうろたえた。
皆、呆れ顔で眺めていた。
主幹教諭に睨まれると、それ以上はなにも言わなくなった。

現状の教育システムでは、ここまでの担任の対応は間違っておらず寧ろ正しいと、のちのち教育学部の学生が教えてくれた。

先に少しふれたように、当時私は息子が行けなくなった学校のPTA会長をしていた。
生徒全員の顔を覚えるほど、献身的に活動をしていたつもりだった。
もしもいつか息子が戻れた時のために、なにより彼の優しい友人たちのために、パートと呼んでもいいほどのスケジュールをこなしていた。
また、母親の私自身に問題がないかを判断してもらうため、保険教諭や学校カウンセラーと面談を繰り返し、その様子は学校に全て伝えていた。
でも、それは信頼の糧にはならない。
何の役目もはたさない。

そもそも「国民の義務」を果たしていない家庭には信用がないのだ。
担任は日本の教育者を育てるプログラムにそって、あるべき姿になったとされて免許を取得した。
だから、問題のある家庭に丁寧で適切に、正義をもって対応しようとしただけなのだ。

担任の「マニュアル通りの正義」を止めてくれた主幹教諭は、教育システム上は反則をおかしているのだが、中学三年時は担任になり、誠心誠意の対応をしてくれた。
この先生がいなければ、私も精神を病んでいたかもしれない。

発達障害の診断を受けて、障害者手帳とヘルプマークを取得した。
肩書きやマニュアルに固執し、自分の正義を固く信じて疑わない、真の健常者ではない人はたくさんいる。中学二年時の担任との関わりについて綴ってきたが、不登校の理由は発達障害に起因する体調不良だ。
担任はきっかけのひとつに過ぎない。
もっと直接的な偏見や差別をぶつけてきた人も少なくない。
公的機関の職員、他の教員、医療関係者の中ですら、そういった人物はいた。
相方ですら、当初は不登校に理解を示さなかった。
であるのなら、障害者手帳はこれらの人々にわかる称号として、誇りをもって所持するようにと親子で話し合った。

私を支えていたのは、わかってくれない、もらえないと嘆くより、正しく闘うためにできることは全てやろうという思いだ。
私には双極性障害35年生の弟がいる。
高校入学をきっかけに発症した。
不登校、引きこもり、自傷行為やオーバードーズ、アルコール中毒…。
私はいやというほど見てきた。
かなりの熱量と、ありったけの理性と覚悟、常に客観的、冷静がないと、弟と母が陥った奈落に飲まれる。

私たちは間違ってないと、堂々と主張しなくてはいけない。
劣った人間ではないと、正しく怒らなければならない。
理不尽が正義をかざして迫ってきたとしても、折れてやる必要はない。

信用も知識も、かき集めようとすれば、かならず得られる。
やさしい人たちが私たちに向けてくれた、思いやりに感謝し、苦しみを同じくする人に、それ以上のものを渡そうと志す、そう生きたい願う。

強くあろうと覚悟したのだ。
そして、もちろん息子と共有した。
色々な人生がある。
それが運命だというのなら、ど真ん中をあるいてやればいい。

息子は、年齢的には二学年分遅れたものの、元気に高等専修学校に通い、新たな友だちにもめぐまれている。
不登校は過去のことになった。

あくまでこれは、いち家庭の、一人の母親とその長男のありようだ。


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