社会が求める人材について
自分は今まで、人として頭が良くなろうと努力していた。
教養とか知性とか。
でも、社会が自分に求めていることは、そういうものではないかもしれない。社会が個人に求めているものは、職業人としての存在である。そこに、社会は対価を払っている。人としての頭の良さはどうでもよいのではないか。
社会は個人に、職業人としての技術や知識、経験を求めており、人間性はそこに+αでしか求められていない。
つまり、プロフェッショナルかどうか、きちんとした職人であるかどうかを求めている。
それならばプロとは何か。「一日8時間、週5日勤務する人」はプロではない。それはただの労働者である。
プロになる為には、少なくとも仕事が終えた後に、勉強や練習という努力を積み重ねなければならない。これが、現代では時間外労働という括りにされ、社会問題になっているのかもしれない。でも、実はそれは社会が求めていることではないか。消費者は、プロの仕事を求めている。
個人がプロフェッショナルを追求していくとどうなるか。
すると、世の中のことが分からなくなる。なぜなら、仕事の専門的な内容のみを勉強することになるからだ。
その他のことは、無知になる。そうすると、プロの職人はある意味、無知になる。社会の構造上、そういうことになるのではないか。
プロの職人、仕事ができる人は世の中のことを何も知らない。それは専門的な勉強や練習に時間を割いているからだ。
ゆえに、世の中に合わせるように生きている人は、プロにはなれない。
色々なことを知っている教養がある人は、言い換えれば専門性がない。
毎日、新聞を隅から隅まで読んでいる人は、実は社会では使い物にならないのではないだろうか。
繰り返しになるが、社会は、もしくは消費者は専門性に特化した人を求めている。プロ野球選手には、教養はあまり求められていない。外科の医師に求められているのは、専門的な知識と技術と経験。人間としての賢さは、あったほうが良いが、何よりも高い専門性が求められる。
だから、社会は構造上、ある種の無知なる人を生産していく。
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