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第二章 芸術と真理――アリストテレス
まぁ、そういうわけで、プラトンのイチャモンみたいな話に対して、アリストテレスは割と否定的なんですね。それ違くね?って。
アリアスとテレスは、詩学のという本の中で、「悲劇はそれ自身の自然本性を獲得したときに発展をやめた[完成し・終焉した]」と言っています。生き物が成長を通して「終極」に至るように、「悲劇」もその展開過程を通して「終極」に至ると言っています。で、それは「形相」の獲得であるんだと。何のこっちゃいなというわけですけど、まぁ、いろいろ試行錯誤して、とりあえず終わりまで作りきってしまえば、何らかの形になる。で、なんかここ違くない?って話をいろんな人がしながら、その典型みたいなのを作ってく、で作りきった形が、「形相」だ。って言ってるわけです。で、アリストテレスは、詩学を書いた時点で「悲劇」は終焉を迎えており、「自然本性を獲得している」ので、その本質を語ることがで、そこに芸術のあるべき姿を見出し、論理化したというわけです。
で、アリストテレスはプラトンが言ったような「いろいろ知ってるようなこと言うけど、本当はよく知らないじゃないか」みたいなことは言わなくて、「詩作」には「詩作」のテクニックがあるよね、それはそれですごいよね!って言ってます。
じゃあ、どう言うテクニックかと言うと「全部書かなくてもわかるように書く」みたいな話かなぁ。何となく、(書かれてないけど)この主人公はこう行動したに違いない、と言うことを想像させるテクニックが詩作のテクニックだと言っています。真似するにしても、一部を真似するんじゃなくて、全体として真似をすれば、それはそれで成り立つんだ、とも言っています。
あと、アリストテレスは芸術っていうのは開かれたもので、普遍的なものなんです。「詩人の仕事
は実際に起こったことを語るのではなく、起こりそうなことを語ることだ」と言ってます。詩と歴史を対比して、歴史は実際に起きた出来事、詩はおこりそうな出来事と言って、詩の方が哲学的であり価値が多いと言っています。だから、そういう普遍的なものに関わるテクニックがあるしそれには価値があると言っています。プラトンが批判した弁論術もこの点において、批判の対象ではないと言っています。
じゃあ、この普遍性ってのはなんじゃらほい?というわけなんですけど、アリストテレスはこう言っています「詩人は可能であっても信じがたいことより、不可能であっても説得力を持つ事柄を選ぶべきである」と。何でかと言いと、びっくりしないと興味がひけないから、というわけなんですけど。弁論術は「びっくりしないこと」を積み重ねていって普遍性を求めるわけです。でもね詩はただただびっくりさせればいいんじゃなくて、よくあることを超えながらも、まぁ全体としては、お話として成り立ってなければならない。というわけです。全部イリュージョンじゃだめってことですね。イリュージョンに至るまでの話をまぁ、何となくそんな話あるよね、という流れで構成することが大事だし、イリュージョンに至るように話の筋をつけるテクニックこそ、優れた詩人が持つものだ、というわけです。落語家か?これと同じようなことを絵画についても言っています。真実は書かれていないけど、それらしいものが書かれているとか、模範は現実を凌駕するとかね。そういう話。絵に描いた餅は、実際に作るもちよりもよく書かれているってことね。そういう理想化みたいなことにアリストテレスは真実らしさを見たわけです。
まとめ、アリストテレスは、芸術作品とみんながそれぞれ思っていることとの対応ではなく、芸術作品が内的整合性を介して人間の理想的にして普遍的な事柄との対応を求め、そこが芸術作品って素敵だなぁという、ことを言っています。