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幸せって何だろう??
こんにちは!
陽色しなです。
何を持って幸せとするのか。
幸せの定義って何だろうか。
今回は「幸せ」について考えてみたいなと思います。
ココロのしゃべり場のサーバーで
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毎月、バーチャルカウンセラーの心春なこさんと定期開催している「ココロのしゃべり場」というものがあるのですが、そのサーバー内で「幸せって一体何だろう?」という議論が活発になっています。
今回はその内容をこの記事で紹介し、さらにココロのしゃべり場で深められたらなと思っています。
ココロのしゃべり場は、YouTubeのライブ配信でやっているのですが、ゲスト参加は誰でもOK!
もし、ちょっとでも興味があれば、まずはサーバーに入ってほしいなと思います。
サーバーに入りたい方は、陽色しなもしくは心春なこさんのX(旧Twitter)のDMに連絡をくださいね!
「幸せ」を感じる時ってどんなとき?
ここからはサーバー内で実際にあがっている意見をまとめていきます。
私は無事に目をつぶって眠れる事が一番の幸せだと思います。
最終的に亡くなる時に「人生悔いなし」と思いながら静かに目を瞑りたいです。
極論、「穏やかであること」なのかなあって思います。
変なストレスもなく穏やかであれるのならばそれは幸せではないのかなと。
執着に関わる喪失で心を揺れ動かされず、今あるものや、自分自身を受け入れられ、満たされると気が付く(素直に思える)ことかなと思います。
「今幸せだ!」と感じることは少なく、過去を振り返った時に「あの時は幸せだった」と惜しむことが多かったので、気づきにくいものなのかなーと思っています。今幸せだと感じれるようになりたいですね。
幸せかどうか、を考えていない状態が「幸せ」なんじゃないかな~と思います。満ち足りているか不足しているか、意識しなくても大丈夫な状態が私にとっては幸せかもしれない。
みんなで同じ方向を向いていたり同じ事をしている時(自分だとライブ)はめちゃくちゃ幸せを感じます。
自然の中に置かれているとき
生かされてるんだなぁと感じると幸せだなぁと思います。
食べ物交換で捕獲した鹿を友達と交換して得た物を食べる時もありがたい、幸せ 生かされている
命を感じる
幸せ
みたいな感覚になりますね♪
つながりを感じること
が幸せに感じるのかもしれません
幸せ
友達や家族と過ごす幸せ
ひとりの時間を珈琲を飲みながらすごす幸せ
🍀見つけた小さな幸せ
宝くじが当たるおっきな幸せ
人を助ける幸せ
競争に勝つ幸せ
認められる幸せ
わがままを通した時の幸せ
苦しみの先にある幸せ
快楽の先にある幸せ
書き連ねるのも憚られるような、残酷な幸せもある。
なるほどな~。
人によって色んな幸せがありそうですよね。
あなたは、どんな時に「幸せ」を感じますか?
「幸せ」の定義
例えばの話。
戦争中の国に産まれた少年が幼い時から兵士になるための訓練を受けて、大人になり兵士として戦うこと、祖国のために戦えることに幸せを感じていたとして、日本からそれを見た時に第三者的には幸せとは呼べないかもしれないけれど、果たして彼は幸せなのか幸せではないのか。
日本においても宗教にのめり込む人も多くいて、唯一無二の存在(神)を崇拝できるのは、ある意味幸せなのかもしれないけれど、第三者から見ると宗教にのめり込む姿が幸せだと呼べるのかと疑問も感じるかもしれません。
皆さんはどのように考えるでしょうか?
少しズレるかもしれないですが…
どの感情、物事においても、自分自身と第三者の思うことはズレてくるのかなと思っています。
「こんなに辛い思いをしている」と思ってもある人は、「そんなことで辛いと感じるの?」と思っているかもしれません(口には出さないでしょうが…)幸せや絶望、挫折など色んな人が感じることはいろんな人が感じる分、色んな境遇、意見があるのだと思います。日本だけでも環境が異なり、色んな意見があるので、感じた本人はその気持ちを大切に。その意見を聞いた人は否定せず、認めてあげる。もしくは否定せず自分の意見を伝える。これが大事だと思っています!
確かにそれぞれの感情の受け取り方は個人差があるとは思います。
感情の善し悪しに関わらず受け取り方の差があるからこそ、人間なんだなあって思います。
感情の受け取り方に視点を照らせば
病んでる、落ち込んでる時も幸せかと。
私自身が、の話なので他の方は関係ない話かもですが
病んでいて構ってもらえる、落ち込んで前を見なくていい
考えなくていい
生きるための最終防衛線みたいなイメージです
その頃に戻りたいとは思わないけど
その時の幸せを味わって生きている理由にしていたのかも、
幸せとはつまり、生きる理由?
だから戦争中の少年も、生きる理由があり、幸せ、彼なりに。
何かと思いました。
これについては私は個々人の認識が全てだと思っています。
なんでその幸せの追求が良いとか悪いとかを置いておいた暴論を言えば第三者がどう思おうともその人自身がそれで納得して幸せを感じているならそれはその人個人の幸せとしていいと思います。
ただ、人の目やジャッジから逃げられるようなメンタル持ってる人間はそうはいないので、第三者や社会の利益や常識と競合するような幸せの追求は、社会や他者との軋轢を生み、その軋轢に動じる=多少の不幸を感じることになるのではと思います。
社会や他者との軋轢が少ない幸せ追求をしたいものですw
幸せの定義かぁ……
誰がなんと言おうと私が知ってる私が私である
と言い切れる精神的・物質的生活ができている事ですかね
人間は環境に依存する、だからこそ、ほかの人の幸せ、違う環境の幸せに触れることで、幸せの感度が上がると思うのですよね~
日常では食べること=幸せだと考えています。食べるのが楽しくないと辛い毎日がずっと続くと考えております。スポーツ選手が引退の時に「ようやくトレーニングの食事が終わり、楽しんで食事が出来るのが一番うれしい」とお話される方も多くいます。
幸せを定義することもなかなか難しいなと感じました。
極論、僕は「自分が幸せだと思っていれば幸せ」だと言えるのかなとも思いますが、そう簡単なことでもないような気がします。
医学的な「幸せ」の定義
「幸せ」とは何か?
医学的には、一定の答えが出ているとも言えます。
幸福物質と言われる「ドーパミン」「オキシトシン」「セロトニン」
これらがバランスよく分泌されることが大切です。
サーバー内ではこういったお話がありました。
幸せ=「ドーパミン、オキシトシン、セロトニンが分泌される行動をとる」と定義しています。
だから、いわゆる脳内で幸福感を感じるような行動を取ったことが幸せであると考えています。
同時に、「『幸福感を感じる行動』が取れる『環境』」もまた幸せであるとも定義しています。そも行動する土壌がなければ何もできませんので。
だからこそ、あえて大きな幸せを掴むために、目の前にある小さな幸せを捨てることも要求されるのだろうなとも考えています。
大きな幸せのために小さな幸せが「環境要因」として邪魔になることもあるので
このあたりのお話は、個人的に精神科医である樺沢紫苑先生の著書「精神科医が見つけた 3つの幸福 最新科学から最高の人生をつくる方法」にのっている「幸せの3段重理論」がとても面白いです。
良かったら読んでみてくださいね。
「幸せ」について話し合ってみませんか?
冒頭でもお話したように、これらの議論をふまえて、さらにココロのしゃべり場で「幸せ」について深堀りをしていきたいと思っています。
次回のココロのしゃべり場は
10月28日(月)22時スタート
もし、少しでも興味が湧いたのであれば、DMをくれればなと思っています。
一緒に考えてみましょう!