生きるもの「イキモノ」
過去の記事で思考してきた「ものがもつ"力"をどのように引き出すか」ということにおいて、科学的に見れば "素材が持つ材料的特性" に注釈することになるが、人類学的に見ると、 "素材が持つ潜在的な魂"のような話になる。後者は「"ひと" が "もの" とどう暮らすのか」という大切な理念に関係する。今回はアニミズムの思考を通して「生きるもの」について考えたい。
【ただのもの「タダモノ」】
東京の都市写真を見ていると建物が、ただのモノに見える。皆が気持ちを寄せることなく、機械的に "モノ" として扱われる。そのようなものを「タダモノ」と名付けたい。タダモノは必要がなくなれば使い捨てられ、取り壊されて、また新しい機能に合わせたタダモノに取って代わる。スクラップアンドビルドの世界である。
【ひとと共に生きる「イキモノ」】
「タダモノ」ではないものとして "身長が刻まれた柱"を例にあげる。祖父母や親が子供の身長を柱に刻む、このような経験をした人も少なくないだろう。刻まれる跡が増えるごとに、その柱はひとと共に成長し、思い入れが強くなる。このようにひとと共に生きるものを "イキモノ" と名付けたい。
スケールを上げると日本の民家のようなものも「イキモノ」と呼べるだろう。日々生活していく中で、修復を重ね、ひとと共に歳をとる建築は、ひとに愛される建築になると思う。
【ものに魂を投影するアニミズム】
ここでは「宗教の人類学」8章の奥野克巳さんの記述をもとに、古くから日本にある宗教観であるアニミズムから "イキモノ" について考えていきたい。アニミズムとは、19世紀人類学者タイラーが提示した概念であり、「人間、動物、植物及び動かないものに精神を具体化する教義のことであり、人間以外の存在物に魂や霊の存在を認める」考え方である。
タイラーのアニミズム論では、
即ち、人間と非人間は、身体性も内面性も別物であり、人間が非人間に対して魂を投影することによって、非人間が魂を宿すという考え方である。
フィリピンではまさに「建築に魂を投影する」ことを考えながらの建築活動を行っていた。「手跡が残る建築」として、現地の技術や人々の手で建設を行うことで、皆の魂を建築へ投影しようとした。これは一種の「イキモノ」をつくる方法だと考えてる。
【ものが魂を持つアニミズム】
タイラーの考えに対して、フランスの人類学者デスコラは「人間と非人間が、異なる身体性をもつが、類似する内面性を有する事態にほかならない」とアニミズムを定義している。またブラジルの人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロは、「人間と非人間は、そもそも内面性において通じており、そうした相互の内面性の原始的連続性を認める」と主張している。
これに対して奥野克巳さんは、
と記述。デスコラやカストロの「非人間も魂を持つ」という論を否定せずに、「人間が魂を感じ取る」と表現をしている。
前回の記事にもでた石でベッドをつくったプロジェクトでは、石に宿る魂のようなものを感じた。魂を投影する方法とは別に、そこに存在する(感じる)魂を建築に押し出すということも「イキモノ」をつくる方法であろう。
【イキモノ】
学生時代長年関わり続けていた滋賀県立大学の陶器浩一研究室のプロジェクト「竹の会所」は、まさに「イキモノ」であったと思う。修復が続けられた建築には皆が魂を投影されていたと思うと同時に、建築そのものが持つ魂もあった。もはや、建築そのものが持った魂ひかれ、みんなの魂がさらに引き込まれ更に投影されていったのだと感じる。魂の宿るこの建築は多くの人に愛されていた。
今後も、思考をまとめながら「イキモノ」をつくる方法を模索し、人に愛される建築をつくっていきたいと思う。