2.1 中央農村工作部への初登庁
(杜潤生「杜潤生自述」人民出版社2005より)(写真は占春園)
p.24 1952年11月、中央はしばらくの間、検討(籌劃)したあと、中共中央農村工作部の設立(成立)を決定した。鄧子恢を部長、陳伯達、廖魯言を副部長、私を秘書長とする。私は国務院第四辦公室(すなわち農業辦公室)副主任)の兼務であった(その主任もまた鄧子恢が兼任であった)。
農村工作部の中心任務は中央組織の支援と広大な農民の互助合作運動の指導であった。このほか農村工作の各項具体業務は政府の農業、林業、水利等部門がそれぞれ責任を担い、中央農工部は中央を代表して彼らの工作を指導した。
毛沢東との再会
1953年1月、私たちは中共中央中南局から北京に報告相談(上調)に赴いた。ある日(これがいつのことか明確でない。福光)、鄧子恢と私は一緒に毛主席と会いに出かけ、毛主席に報告した。毛主席はちょうど中南海のプールで泳いでいた。(主席が)上がって座ってから、鄧老がまず私を紹介した。毛主席は、私たち(主席と杜と)は会ったことがあり、話したこともあるといった。すぐ続けて私たち(鄧老と私)に、ちょうど良いところにいた。中央は農村工作部を設立する、(農村工作部は)全国の農村工作を担当(主持)する、主要任務は互助合作の決議を中央に遂行させること。中央のこの文書(文件)については、おそらく君たちは全部知っているだろう。この文書は農民には2つの積極性があることを正式に提起(提出)した。一つは個人の経済的積極性、(もう)一つは互助合作の積極性である。互助合作を進めるとき、個人の積極性の保護は必須であり、それ(個人の積極性)を挫折させる必要はない。さらに続けてこう言った。上編、下編二編の文章があり、上編では民主革命をやり、下編では社会主義をやるといったではないか。農村についていえば、土地改革はすでに終了した、現在は第二編の文章を作るばかりだ。我々は10年から20年のうちにこの合作化の任務を完成、小農経済の改造を計画している。君たちはなにか意見はないか?
鄧:結構です。我々はただ主席の指示に従いやるだけです。
毛:君は農村工作の総司令をするべきだ。
鄧:とてもできません。
主席が当面の情況はどうかと質問したのに鄧老は答えた。中南区の互助合作はまだ議事日程にあがっていません。全国の古い解放区と東北などでは互助合作についてすでにいささかの経験があり、うまくいってます(搞得很不錯)。調査研究学習をすすめるため少し時間が必要です。
主席は言った。杜潤生同志、君は農村の情況をどう見ているかね?
私は答えた。土地改革以後は小農経済の天下となりました。小農経済は人力経済(手工経済)で、できること(力量)はわずかで、また思想的に配慮(顧慮)するところがあります。互助合作に向かうに、小農経済の現状から出発せざるを得ませんので、まず指導が必要です、(互助合作は)行わないことは駄目ですし、あまり急ぎすぎることも駄目です。
(鄧子恢はこの毛沢東との会話で、毛沢東と自分たちとの考え方の違いをただちに悟ったようにみえる。それは以下の文章からもうかがえる。鄧子恢が偉いと思えるのは、自分たちが細部に配慮することで中央を補佐しようとしている点だ)
白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.63-64 事務所へ帰る車のなかで、鄧子恢は私に「合作化の問題は、中央はすでに大きな方向は確定している。我々がさらに言うのは良くない。しかし、15年は長く、時間はあるので、我々は細部の面、すなわち段取りや政策の方策で注意を払い、中央のために配慮することができる」と言った。
・・・これまでの、大方の認識は、「現在は新民主主義が建設に転換する段階にある」というものであり、この建設には、新民主主義経済、新民主主義政治、新民主主義文化の建設が含まれる。・・・主席は、社会主義をやるのは、20年後、はなはだしい場合は30年後であり、社会生産力が発展した後であり、人民大衆が皆同意を表明したあとであり、それから落ち着いて、無理強いせずに、全面的な社会主義進攻を起こさせ、資本主義を消滅させると説明していた。しかしながら、現在の主席の考え方は、これまでと非常に異なっており、早急に次の一歩をやろうとしているのである。
(この節では鄧子恢と杜潤生がともに、のちに毛沢東に批判される「四大自由」の考え方を支持していたこと、またそれが政治協商会議の共同綱領にも規定された内容であり、孤立した考えではなかったことが書かれている。その視点は政策を緩和して、農民を安心させて農村経済の回復を急ぐことにあった。)
白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.67 鄧子恢と私はどのような思想をもって北京にきたのか?それは1952年末の中南局の会議に反映されている。この会議では「春耕生産を発展させる十大政策」という文書を討論した。参加した同志たちは「・・・党の政策は、早急に農村経済を回復させ、早急に長期間の戦争による傷を癒すこととしているので、政策を緩和し、農民に安心させ、思い切って生産を発展させることが必要である」と認識していた。このため「春耕生産を発展させる十大政策」のなかでは、農民の土地所有権を保障し、土地の売買を許し、労働力雇用を認め、貸借を自由にし、流通も自由にした。これらは、いずれも政治協商会議の「共同綱領」(、)「土地改革法」に規定されたことである。実際には、この類の政策の公布は、1950年以降、大区軍政委員会はいずれも公布しており、一部の軍政委員会は中央の批准も得ていた。中南局が最初の提起者ではない。・・・我々は、当時、農民は地主からやっと土地を獲得して自分の財産としたのだから、当然独立自主の経営発展を要求するものと認識していた。
白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.67-68 中南局の「春耕生産を発展させる十大政策」は中央に報告された後、中央から各中央局に参考として転達された。