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農業は大寨に学べ 1964

(劉小榮《1966-1977年的天津》中共黨史出版社·2011年 pp.93-117, esp.93-97, 115-117   写真は東京タワー 2019年11月8日朝)

  大寨(ダーチャイ)は山西省昔陽県城東南虎頭山下の小さな農村である。抗日戦争当時、この一帯は中国共産党が指導する抗日根拠地であった。1945年8月、抗戦に勝利するとともに、この地区も生まれ変わった。中華人民共和国が成立したとき、この村には約800ムー(畝)の耕地、64戸の人家、190人余りの人口があった。地主と富農が耕地の60%を占有し、貧、下中農48戸は合わせて150ムーに満たない耕地を占有していた。この土地は太行山区にあるため、耕地は十分痩せており(貧瘠ピンチ―)、生産状況(条件)はまた極めて粗雑を極めていた(極為簡陋チエンロウ)、糧食生産量は多くて1ムーあたり70キロといったところ。人々の多くは辺鄙な山奥の(山溝)両側が傾斜したところに穿った穴(窯洞ヤオトン)の中に住み、生活の困難は想像できよう。この寂しく無名の小村が天下に名前を知られたのは、陳永貴(チェン・ヨンコイ)がこの村の出身だということによる。
 中共昔陽県委員会の指導のもと、昔陽では土地改革が進み、長い間渇望されていた貧苦農民が土地を所有することがついに実現した。1947年に陳永貴は自然環境が十分劣っている(悪劣)において、賈進財(チア・チンツアイ)の「臨時互助組」に続き、ほかの人が受け入れを喜ばない4人の老人と6人の少年からなる大寨村第二互助組を設立させた。彼は一人壮年の体力で老人と少年からなる10人を率いて、艱難をともにし団結奮闘して、粘り強く働いて(苦幹實幹)糧食の産量を増加させ、組織することの優位を示した。陳永貴は貧しいものを助け自身の損失(個人吃虧)を恐れず、多くの農民とともに共同富裕の道を歩む仕方は、上級幹部の好評と貧下中農の支持を得た。彼の小組の多くの人は彼がすることをのちに心から従う(衷心耿耿)ようになり、苦しくとも疲れようとも一言も文句を言わない強固な(鐵桿)支持者になった。1948年に党支部書記の賈進財は陳永貴を中国共産党に参加させ、自らは退いて、大寨村党支部書記に陳永貴を推薦した。1952年の陳永貴は山西省の労働模範の称号を得た。
    1953年初め、陳永貴は大寨で初級合作社を設立。同年のムーあたり産量は、互助組の平均産量を上回る362キロに達した。1955年大寨で地主一戸を除く73戸がすべて農業合作社に加入した。大寨は集団化の道をまた一歩前進した。(中略)
 1958年、総路線、大躍進、人民公社化の「三面紅旗」が中国大地を席巻するなか、大寨にもまた昔陽県最初の人民公社、紅旗人民公社が設立され、公共食堂が起こされた。多くの地方の公共食堂が無制限に腹いっぱい食べることができたが、大寨が食べるに十分な生産した糧食はあったが、倹約につとえめ(緊緊巴巴),詳細に計算して日々を過ごした。全国数千万がみな鋼鉄の生産に明け暮れた時、大寨は動くことなく依然として落ち着いていた。各地で高生産量の衛星が放たれても、大寨は依然動くことなく、浮ついた産量を報告することはなかった。飢餓が広がった年頭、大寨は腹いっぱい食べる保証はできなかったが、餓死者は確かに発生しなかった。大寨は国家の買上げ任務を超過達成し、かつ困難な社隊を支援し、各クラスの指導者から強く表彰された。大寨は浮ついた風に染まることはなく、また懲罰をうけることもなかった。大寨のようなあり方は、当時得難いものだった。(中略)
 1963年夏の日、大寨は滅多にない暴雨に見舞われた。8月2日から8日までまるまま7夜7日大雨が降り続けた。(このあと大雨に襲われ被害は甚大だったが、人の被害は少なく、直ちに復旧に取り組み、新たに苗を植え、国家の買上げへの義務を果たしたとする。)大寨は国家の救済貸付、救済糧、救済物資を必要としない(三不要)、かつ国家に糧食を売ること、社員の口糧と集団庫中の保管糧、この3つも不足させない(三不少)。
 (中略)
 1963年から1965年、山西省で大寨を参観学習した幹部・社員の数は20万人近い。大寨の状況はますます中央指導者の関心を集めるようになった。1964年3月に毛沢東は大寨の先進事績と先進経験の報告の聞き取りを行った。6月毛沢東は中央政治局の一次拡大会議で、農業はまず大寨精神に頼るべき、自力更生にたどるべき、もっと多くの大寨が出る必要があり、もっと多くの陳永貴が現れる必要があるとした。
 (中略)
 大寨の経験と陳永貴の放送が知られるとともに、中央指導部が力を籠める「農業は大寨に学べ」というスローガンは全国各地に掲げられるようになった。(中略)
 1978年春から全国の多くの地方で中国共産党の農村政策の実現に向けて、「農業は大寨に学べ」運動中の極左的誤りを正す要求が始まった。たとえば農民の自留地、自留木を返すこと、市場でのやり取りを開放すること、農民が家庭副業をすることや家庭で豚を鶏を飼育することの拡大を許すこと、定額労働管理制度を回復すること、などの要求である。これらはみな「農業六十条」(1961年3月中央工作会議で制定 1962年 1978年改訂)で明確に農民の私有権利そして自由権利として賦与が規定されたのだが、「農業は大寨に学べ」運動の中で次第に奪いとられてしまったのだ。(中略)
 1979年3月。大寨県、かつての昔陽県が1973年から5年連続で糧食産量をゴマ化していたことが明るみにでた。大寨大隊が何度も国家から財力、物力、人力の支援を何度も受けていた事実が次第に明らかになると、先進モデル(典型)の主観客観位置付け(条件)には重大な変化が生まれ、大寨はもはや先進モデルではなくなった。「文化大革命」後期になると、大寨を「先進モデル」として維持し続けるために、国家は多く(のものを)投入し、昔陽県は「先進モデル」の地位にとどまるために、虚偽の情報を作り、上級機関や世論をだますようにさえなった。
 1980年11月末に中共中央は・・・「農業は大寨に学べ」運動に対して正式の結論を出した。・・・周恩来同志が総括した大寨の基本経験そしてその経験の推進は、かつては積極的作用があった。「文化大革命」以後、大寨は左傾路線のモデルとなり、大寨に学ぶ運動は負の結果(嚴重後果)をもたらした。この左傾思想指導下の「農業は大寨に学べ」運動が社会主義農村建設と農業現代化の進展を阻害したことは明らかである。
(このように「農業は大寨に学べ」が今日否定される理由は、一つには集団農業を否定し、個人農業に戻ったという政策的転換があったため時代に合わないこと。また一つには大寨の話の中に作られた話が混じっていることが分かっており、ストーリーへの不信感が深いことが背景になっていることなどがあるようだ。この情況は「工業は大慶に学べ」という標語が、今日でも大きく傷がついていないのとは全く異なっている。しかしもともとの大寨の話は、必ずしも集団化の話ではなく、住民の生活に寄り添って活動した末端の党書記の話であり、それ自体は「いい話」のように思える。それなのに大寨の話を徹底批判して過去のお話にして、ただ大慶は今でも良しとして残すのは、工業優先を示唆しているようにも思える。)
 (以上に付け加えて「農業は大寨に学べ」運動が文革の収束期に繰り返されたことが問題を複雑にしたと考えられる。陳永貴(1914-86)個人の問題、華国鋒が「普及大寨県」運動をなお進めた点の問題もある。陳永貴は1971年に山西省党委書記。1973年に中央委員、中央政治局委員。1975年国務院副総理と昇進した。彼は毛沢東に大規模な人民公社制度を肯定する書簡を送り(1975年8月24日)、大寨そして北京で全国規模の「農業を大寨に学ぶ」会議を開催している(9月15日から10月半ば 大寨で始まりその後、北京に会場を移して続けられた。)。翌1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、ついに10月6日に四人組が拘禁され隔離審査となったことを考えると、1975年10月になお盛り上がりを見せた大寨の運動の否定に時間を要したことが伺える。)

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