新中国債券市場史 1949-2010
沉炳熙 曹媛媛《中國債券市場:30年改革與發展》北京大學出版社2010年pp.3-8(写真は東京タワー 2019年12月27日 撮影。東京タワーは1957年6月着工、1958年12月竣工。竹中工務店施工。高さ333m。日本では、2012年2月竣工の東京スカイツリー、高さ634mに次ぐ高さの建築構造物。)
わが国債券市場のひな型は新中国成立初期にすでに出現している。新中国成立直後、経済は極度に困難であった。一面で全国統一税収制度はなお未成立(未建立)であり、都市と農村の物資の交流は円滑でなく(不暢)また税源不足を生み出していたが、政府が得るところの財政収入には限界があり(極爲有限)、他面で戦争はなお継続しており、軍費の支出はとても多く、財政支出の規模は膨大であった。厳しい経済情勢のもと、我が国は国債発行の試行(嘗試)を始めた。1949年12月2日中央人民政府第四次会議は《人民勝利割引(折實)公債発行に関する決定》を可決。併せて翌年11月に期間5年総額3億元の”人民勝利割引公債”の発行を始めた。
国民経済回復の任務が完成したあと、わが国は1953年から第一次五ケ年計画の実行を始めた。膨大な規模の建設は巨大な資金需要を生み出していた。全民所有制企業の基本建設投資だけで588億4700万元に達した。そのなかで財政が負担を承諾したのは531億1800万元90.3%を占めた。ただしこのとき財政資金の供給は極度に不足しており、1950年には旧税制を混乱を正して(整頓)実施し、新税制工作を統一して進めたが、しかし国民経済の基礎は十分に水準が低く(落後)、薄弱という条件のもと、政府が取得できる財政収入には限りがあったので、債券の発行により資金を集める必要に迫られた。同時に国民経済はすでに回復過程にあり、正常な発展道路を歩き始めていた、人民群衆の実際工賃は増加しており、生活はあまねく改善しており、加えて人民群衆の愛国熱情の高まりは、政府をして債券を発行する方式で、群衆の収入の一部と貯蓄を集中させ、財政支出に用いることを可能にした。この情況のもとで、1953年12月9日、中央人民政府は第29次会議で《1954年国家経済建設公債条例》を可決し、この後相次いで《1955年国家経済建設公債条例
》《1956年国家経済建設公債条例》《1957年国家経済建設公債条例》そして《1958年国家経済建設公債条例》を公布した。1954年から1958年の間、わが国は継続して5次にわたり”国家経済建設公債”を発行し、実際の発行総額は35億4500万元に達した。”人民勝利割引公債”と”国家経済建設公債”の発行は、国民経済の回復と第一次五カ年計画の勝利の完成に重要な作用を発揮した。
1958年以後、わが国の資金需求は依然十分強烈であり、かつ3年間連続の大躍進、そしてその後発生した連続3年の自然災害の形勢のもと、(資金)需求はさらに切迫したが、左の思想影響のもと、国家は内外の起債活動を停止した。併せて1959年から1978年に至る「内債もないし外債もない」債券市場の空白時期に突入したのである。
1979年わが国農村では聯產承包責任制が推進され、農業副産品の買い入れ価格が大幅に引き上げられて、農民の収入は増加することができた。これと同時に工業企業は農業副産品を主原料とするものは原材料価格が引き上げられ利潤が低下した。同一時期にわが国国有企業は、”企業基金制度””利潤保留(留成)”などの制度を推進し、財政収入は減少し、しかして財政支出はそれに応じて増加した。1979年と1980年の2年間、わが国の財政赤字はそれぞれ170億6700万元、127億5000万元にたっした。政府は人民銀行に向けて預金を超えて支出を拡大し(透支を開始し)財政赤字を補い(彌補)結果、通貨膨張が起こされた。
通貨膨張を治めるために国務院は1981年1月16日に《中華人民共和国国庫券条例》を公布し、1981年から国庫券の発行を回復することを決定した。1981年7月1日、財政部は行政分配を通じて、国庫券48億6600万元を実際に発行した。発行対象は企業単位が主であるが、国民個人(居民個人)もそれを補うものとされ、発行期限は10年、償還までは6年ないし9年であった。国債の発行回復は、財政赤字の解決に貢献を果たし、国家の経済建設をこの上なく支持した。
国債の発行が回復されたあと、企業債券もまた出現した。1985年に沈陽市の房地地產公司が社会にむけて5年満期債券を公開発行したのは、企業債券の発展の序幕を正式に開くものだった。1987年3月に国務院は《企業債券管理暫行条例》を公布し、企業債券の発行管理を正常な発展に導いた(納入正軌)。1988年9月国家計画委員会は国内債券発行計画の編制と関連する政策の制定作業の所管を始めた(開始負責)。1990年4月、国家計画委員会と人民銀行は連合して《企業債券発行限度審査批准制度及び管理方法について》を制定、企業債券の発行は国民経済と社会発展計画に含まれることになった。このあと企業債券の発行規模は次第に拡大し、種類も多様化を始めた。主要なものとして、国家投資債券、国家投資公司債券、中央企業債券、地方企業債券、地方投資公司債券、住宅建設債券と内部債券などがある。1993年8月、当時の経済生活に蔓延していたやたらと資本を集める現象を正そうと国家は《企業債券管理条例》を修訂公布した。(これは)企業債券市場の進行に規範を与え、企業が債券を発行する条件と資金用途を厳格化したものだった。1995年に《国民経済と社会発展”九五”計画及び2010年の遠景目標の建設の建議の制定について》を根拠に、国家は150億元(のちに130億元に調整)の企業債券発行計画を下達し、企業債券の発行量は次第に増加し始めた。
企業債券のほか、金融債券も出現し一定発展した。1982年中国国際信託投資公司は日本の東京証券交易所で外国金融債券を発行したが、これはわが国が国際市場で外国金融債券を初めて発行したものであった。1985年、中国工商銀行、中国農業銀行は人民幣金融債券の国内発行を開始した。1991-1992年、中国建設銀行と中国工商銀行は160億元の国家投資債券を共同発行した。1993年に中国投資銀行は国内で外貨金融債券5000万米ドル発行の批准を受け、都市農村の住民を対象に発行した。期限1年、かつ変動利率採用、同期間の国内米ドル預金利率より百分の1利率が高かった。これはわが国で初めて国内で発行された外貨債券だった。1994年にわが国三大政策銀行が成立し、同年4月、国家開発銀行は初めて分散方式(派購方式)で債券を発行し,政策性金融債券はこのように誕生した。
債券流通の出現
わが国の債券流通市場は20世紀80年代中期に始まる。(これは)新中国成立の時の公債発行市場のはじまりから、かなり時間が経っているだけでなく、80年代初期の国債発行と比べても、まるまま5年遅れている。債券流通市場が出現後、大体、場外の店頭市場(櫃檯市場)が中心、場内の市場が中心、そして銀行間債券市場が中心、(この)三つの発展段階を経過した。
場外店頭市場を主とした段階(1988-1991)
1981年に国債発行が回復したあと、交易流通の需要が生まれた。しかし債券流通は当時なお禁区(タブー)であり、国庫券の闇市場(ブラックマーケット)が盛んになった。1986年8月6日、中国人民銀行沈陽支店の批准を受けて、沈陽市信託投資公司はまず企業債など有価証券の店頭譲渡業務を始めた。同年9月6日、中国人民銀行上海支店の批准を受けて、中国工商銀行上海信託投資公司静案業務部は証券売買業務を始めた。1987年末には、全国で41の都市の証券公司、信託投資公司と都市信用合作社は企業債など有価証券の転譲業務を開始していた。
1987年1月、中国人民銀行上海支店は《証券店頭交易暫定(暫行)規定》を発布し、政府債券などが批准を受けた金融機構の処理する店頭交易されることを明確に認定した。1988年初めに、国家はまず7つの都市で国債流通転譲試点を進めた。試点地区の財政部門と銀行等機構は証券公司あるいは国債服務部を成立させ、国債売買業務を開始させた。同年6月、財政部は前後して54の大中都市で国債流通転譲試点を批准し、地方性債券交易の中心と店頭交易の中心が形成され、債券交易の典型場外市場となった。
1990年初めから開始された、流通転譲できる債券の種類は次第に増加し、1990年末には流通市場に投入される国債はすでに10種に達した。同時に国債が発行され流通転譲されるまでの時間はさらに短縮された。このほか1990年4月から財政部は所属する仲介機構に債券の転譲価格等を定期的に発布を開始し、市場交易を誘導した。1990年12月上海証券交易所が開業し、実物券を委託管理の上,記帳式債券交易形式で交易所での場内交易市場を開いた。同時に証券交易自動報價系統(STAQ)が完成し使用が開始され、国債の地区間交易を大いに促進した。しかし当時、大多数の債券交易はなお実物券店頭市場で完成されていた。
(中略)
場内市場を主とした段階(1992-2000)
上海と深圳の証券交易所開設初期、圧倒的多数の債券交易は依然として実物券店頭で行われていた、国債の委託管理を全国で集中統一統合するシステムが欠けていたので、交易の双方は相手方が本当に国債を預けているか知りようがなかった。加えて担保とされるものがあるので、実物の国債交易量はとても小さく、各地には大量の国債空(から)買い、空売り、挪券(借用券 一時借りた券)、見せかけの買戻し(假回購 具体的な意味はとりあえず不明 回購をするが裏付けの債券が存在しないという意味か)など規則違反行為が出現し、秩序は混乱を極めた。同時に証券交易所の発展は急速で、1993年国債先物が上海証券交易所を試点としてはじまり、同年に上海証券交易所に国債買い戻し業務が出現した。この時、交易所では国債現券、先物、買い戻し取引を行うことができ、場内市場の交易量は大幅に増加。このほか上海証券交易所が債券交易を開始したあと、深圳交易所もまた1994年に債券交易を開始。1994年11月1日、”深鹽田”は深圳交易所に最初に上場した企業債券となった。
武漢証券交易中心において、STAQ系統で進められた場外債券交易において、重大な空売り現象や金融欺瞞が出現したほか、各地の証券交易中心でも比較的大きなリスクが現れたので、1994年後半から国家は各地に分散した証券交易場所の整理整頓を開始し、国債交易は上海と深圳の二つの証券交易所に次第に集中された。1995年に武漢証券交易中心、天津証券交易中心、北京STAQ系統等区域性交易中心が発生した巨大リスクにより(業務を)停止され、債券交易は全部(上海と深圳の)証券交易所に集中して進められ、交易所が唯一合法的な債券交易市場になった。
注意を要するのは、債券(取引)全部が証券交易所で交易されることになっても、交易所が国債交易のリスクを統制するメカニズムはなお未確立だったことである。1995年以降、交易所の国債取引は相次いで若干の問題が出現し、規則違反事件も頻々と現れ、”3.27”国債先物の風波の出現により、国家は暫時国債先物市場を閉鎖したのである。
1997年前半、株券市場は過熱、大量の銀行資金が各種のルートを通って株券市場に流入した。その中で交易所の債券買い戻し(取引)は銀行資金が株券市場に進入する重要ルートの一つになった。1997年6月、国務院の統一部署を根拠に、中国人民銀行は《中国人民銀行の各商業銀行が証券交易所において証券の買戻しや現券交易をすることの停止に関する通知》を発布し、すべての商業銀行に上海と深圳の交易所市場から退出することを要求した。商業銀行は中央国債登記結算有限責任公司の預託している債券を用いて、全国銀行間同業拆借(貸借)中心が提供する交易システムを通じて買い戻しや現券交易を行える。1997年6月16日、全国銀行間拆借中心は銀行間の買戻し・現券交易の事務を開始し、全国銀行間債券市場がここに形成された。
銀行間債券市場を主とする段階(2001年から現在まで)
銀行間債券市場が形成されてのち、市場の監督管理部門をいかに規範、発展させるかが最も関心があるところだ。中国人民銀行は銀行間債券市場の管理部門をつくっており、国際経験に学ぶ努力を惜しまず(努力藉鑒)わが国の実際と結びつけ、銀行間債券市場の位置を債券交易の場外市場として位置を定め、市場発展のため一連の措置をとった。とはいえ20世紀の90年代末において、銀行間債券市場は成立したてで、交易主体と品種は比較単一で加えて投資家が慣れない場外市場交易方式であったため、銀行間債券市場の交易量は大きくなかった。国債市場交易量の2%に満たなかった。国家が資本市場の発展に力を注ぎ、中国人民銀行が制定した市場発展の政策が次第に実を結び、2001年には銀行間債券市場の発行量、交易量と預託量は交易所市場をしのぐようになった。この同じとき、交易所債券市場でリスクが集中して表面化し、投資家と国家に重大な損失がもたらされると、投資家は大量に交易所を撤退し、交易所債券市場の預託量と交易量は大幅に減退した。このほか2002年に、個人投資家が記帳式国債を売買する便宜のため、中国人民銀行と財政部が協力して、商業銀行店頭記帳式国債交易を生み出した。(これは)比重量は大きくはないが、商業銀行の交易ルートを広げ、銀行間債券市場が外に延びることを可能にし、銀行間債券市場の活力を増強した。2004年から中国人民銀行は債券市場のイノベーションを全力で進め、銀行間債券市場の商品、交易工具は不断に増加、交易方式は不断に改善され、債券の発行量・預託量・交易量はいずれも中国債券市場の97%以上を占め、中国債券市場の主要市場(主板)になっている。
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