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馬寅初 集中攻撃と北京大学校長辞職 1959-1960

1959年から60年の北京大学校長辞職前後を追ってみる。資料は『馬寅初年譜長編』商務印書館2012年pp.601-616である。写真は1979年の名誉回復時のもの。諸手続きが終わり、北京大学の代表者たちが祝賀に訪れた、1979年9月15日のものと推定される。

1959年2月 「経済研究」第2期総31号に馬寅初の経済理論、哲学思想政治立場を批判する論文
   3月~4月 無党派人士として全国人民代表、全国政協委員に当選
   9月28日 建国十周年慶祝大会に出席。主席台に就座。

   10月  周恩来と話し合う。周恩来が自己批判(検討)を勧告するも拒否して論争を選択。『新建設』に原稿提出し掲載を求める。
  康生はこれを挑戦とみて、「我々は応戦せねばならない」と理論刊行物の責任者たちに指示したとされる。

   11月 馬寅初が掲載求めた「我的哲学思想と経済理論」が『新建設」に掲載される。また『光明日報』が11月29日より馬寅初批判論文を掲載。これ以降、『光明日報』は頻繁に馬寅初批判を掲載。

   12月 学内に大量の壁新聞張られる。馬寅初の燕南園の住居にも。絶え間なく批判会が開催され、馬寅初の人口論はマルサス主義で社会主義に反対するもの、馬寅初は封建主義や資本主義に奉仕して社会主義に反対してきたと批判された。
   12月17日 北京大学党委員会常任委員会は馬寅初に対する学術政治問題批判を進めることを決定.。
   12月24日 北京大学人口問題研究会 全校8000余人参加。「馬寅初人口論批判」報告が行われる。
   12月25日 北京大学校刊第338期に馬寅初の「重申我的請求」と「馬寅初人口論批判」とが同時掲載。
   12月28日 北京大学毛沢東思想研究会 全校8000余人参加。経済学系教師主講。馬寅初の経済学を批判する内容であった。
   12月31日 北京大学学報に「我的哲学思想と経済理論」全文掲載。同時に批判論文三篇掲載。

1960年1月3日 教育部に自ら赴き、教育部長口頭で辞職申し出る。
   1月4日 教育部より辞職の辞令交付。

   1月11日 北京大学毛沢東哲学思想学習建久会毛沢東軽座思想学習研究会 人口問題研究会三学会連合挙行「馬寅初先生経済理論、哲学思想と政治立場討論会」関連分野教授約200人参加に出席。出席後血圧高く翌日 北京医院へ。入院治療に。
   1月 「新建設」に馬寅初の「重申我的請求」が掲載される一方、雑誌新聞に馬寅初批判の文章が大量に掲載。
   3月 北京大学燕南園43号の事務室を引き払い、東総布胡同62号へ。
   3月28日 国務院第九十八次全体会議で、馬寅初の北京大校長職務免ずる件が可決。翌日の人民日報に消息。
   3月31日 陳毅が友人として来訪。陳雲とともに馬寅初の人口理論と方法は正しいと考えていることを伝える(陳雲年譜による)
       同日 周培源も来訪。
   3月ー10月  全国政協北京市東城区小組の学習会に出席十数回。自説を主張するも非難を受ける。61年初、同小組を脱退。


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福光 寛  中国経済思想摘記
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