西安(シーアン)事変1936/12/12
中国における共産党と国民党の死闘が最終的に共産党の勝利に終わった一因に西安事変(1936年12月)の発生がある。以下の記述は王松《宋子文全傳》團結出版社2017年pp.153-191による。
(なお以下も参照している。林博文《張學良 宋子文 檔案大揭秘》上海人民出版社2010年,張學良口述歷史中的西安事變pp.46-50,宋子文所經歷的西安事變pp.150-153。なお写真は後楽園駅近く後楽園球場近くの擁壁。ビオフィルム工法:ナチュロックを表面に張っているーで特徴のある都市景観になっている。完成2018年8月。)
1936年12月12日 張学良、楊虎城両将軍は蒋介石を拘留の上、八項目の政治主張を全国に打電した。1)南京政府を改組し、各党各派を受け入れ、ともに救国に責任を負うこと。2)一切の内戦を停止すること。3)上海で逮捕された愛国領袖をただちに釈放すること。4)全国のすべての政治犯を釈放すること。5)民衆の愛国行動を開放すること。6)人民の集会結社の政治自由を保障すること。7)総理の遺言で委嘱したことを確実に行うこと。8)直ちに救国会議を招集開会すること。
いわゆる西安事変の発生である。
これに対して南京では国民党中央常任委員会と中央政治委員会は12日夜緊急会議を開催した。張学良、楊虎城らを討伐すべしという意見が多数を占め、張学良解職、中央監察委員会に送るなどの方針を決めた。問題は、宋子文、宋美齢、孔祥熙など主要な人物がこの時、みな南京にいなかったことだ。
13日午後、孔祥熙は上海から戻り、情勢を緩和させようとしたが、討伐の声はおさまらなかった。張学良からは、蒋介石の安全を保障する打電が届いていた。同じく13日に上海から南京に戻った宋子文は、14日、中国銀行で記者に対し、蒋介石は西安で安全であり、張学良、楊虎城については多年の友誼があるととだけ述べて、二人を非難する発言をしなかった。
ところで張学良、楊虎城の呼びかけに、共産党の方が早く行動した。17日には周恩来など中共中央代表が張学良の専用機で西安に到着している。
張学良、楊虎城は南京政府に孔祥熙、宋美齢の派遣を求めた。しかし南京政府内は討伐論が多数で、西安での談判を阻止したいとの意見が多かった。そこででてきたのが、宋子文が私人としての資格で宋美齡とともに西安に向かう案である(1933年10月に蒋介石との意見の対立もあり、宋子文は行政院副院長、財務部部長などを辞職していた。これが私人という口実になった)
南京政府は激烈な議論の後、19日、南京政府は宋子文私人として派遣する方針を固め、22日までの爆撃停止も決めた。19日午後2時、まず宋子文とその随員は南京から洛陽に飛んでいる。そして翌20日午後、宋子文は西安に到達している(この最初のフライトは西安の状況を確認するためで、宋子文が戻らないときは宋美齢の派遣を取りやめるとされていた。)。
宋子文は西安にはいり、蒋介石に面会、かつ孔祥熙、宋美齢の手紙を蒋介石に渡した。ここで宋子文は周恩来がすでに到着していることに驚くとともに、抗日統一戦線を結成したいという、中共の方針を仲介者から伝えられている。これらの情報を得た宋子文は翌21日、洛陽を経て南京に戻っている。この宋子文の報告を受けて、孔祥熙ら南京政府は、宋子文、宋美齢が西安に赴いて、談判することに同意した。
22日午後 宋子文、宋美齢一行が乗り込んだ飛行機は一路西安に到着。蒋介石と会った二人は、内戦の停止、抗日での一致などで蒋介石を説得する一方、蒋介石から談判の条件について指示を受けている。
(中略)
周恩来をはじめ中共側、張学良、楊虎城、宋子文、宋美齢の間で24日午後にまとまった結果は
(1)孔祥熙, 宋子文が行政院を組織。各方面満意の政府を組織する責任を宋子文が負い、親日派は粛清する。
(2) 中央軍はすべて西北を撤収、宋子文、宋美齢が絶対責任を負う。
(3) 蒋介石は南京に戻ってから”七君子”を釈放する。西安方面に先に情報を出す。宋子文が釈放実行に責任を負う。
(4) ソビエトと赤軍(紅軍)の名称は旧来通り。宋子兄妹は共産党討伐(剿共)停止に責任を負う。張学良は赤軍への物質援助(接濟)に責任を負う。
(5) まず国民党中央全会を開き、政権を開放、各党派の救国会議を招集開会する、国民代表大会は開かない。
(6) 政治犯は分割して釈放する、具体的な方法は宋慶齢と協議する。
(7) 抗戦爆発後、共産党は公開活動できる。
(8) ソ連と連携(聯)し、イギリス、アメリカ、フランスと連絡する。
(9) 蒋は南京に戻り次第責任を認めて、行政院院長の職務を辞去する。
(10) 西北軍政は張学良、楊虎が責任を負う。
また宋子文は共産党が上海に人を派遣して秘密に連絡を取り合うことを提案したほか、蒋介石が撤兵命令を出し次第、蒋を解放し南京に戻すことを求めた。この点、張学良はすぐに同意したが、楊虎城と周恩来は回答を留保した。(中略)
25日の昼、なお楊虎城は蒋介石の釈放に保証がないとして慎重だった。張学良は自分が蒋介石を送ってゆくとして、万一戻らないときは指揮権を楊虎城にゆだねると楊虎城を説得している。飛行場に行くと2000人余りの人がいた。そこで蒋介石は、合意内容を6つの項目にまとめて、述べて見せた。25日午後4時半、蒋介石と宋兄妹を載せた飛行機、さらに張学良が乗り込んだ専用機が、洛陽に向けて離陸した。翌26日昼過ぎ、蒋介石夫婦は南京にもどり、西安事変はこうして平和裏に解決した。
なお張学良は、結果として軍法会議にかけられ、このあと延々と軟禁拘束されることになった。他方で楊虎城に対して蒋介石は、視察を名目に出国を薦めた。そこで一旦、1937年6月29日上海から米国に向けて出国する。ところが祖国で抗日の戦いに参加したいとして11月26日香港に戻ってきてしまい、そこで家族とも自由を失った。その後は軟禁され、1949年9月6日、軍の特務により家族ともども惨殺されたことは悲劇としてよく知られている。