彭徳懐 1959年7月23日まで
彭徳懐《彭徳懐自述》人民出版社2019年225-229より. 廬山会議前の緊張した情勢、7月23日の毛沢東による彭徳懐批判に至るまでについての彭徳懐自身の記述である。これは毛沢東宛書簡(1959年7月14日)が出される前後の彭徳懐自身の行動を彭徳懐自身が述べる一級の歴史資料である。明らかなのは、国情を憂える彭徳懐の行動の天真爛漫さである。ただ他方で、毛沢東が自分を襲ってくる可能性を全く彭徳懐は予想しなかったのだろうか?あまりに無防備ではないか、と考えないではない。彭徳懐は国防部長であったが、国防の考え方や方針をめぐり毛沢東との対立がすでに表面化していた。影を落とすのは中ソ関係であった。なお外交問題で、ソ連が掲げる平和共存路線に理解があった、張聞天(外交部副部長)が、彭徳懐とともにこの廬山会議で、彭徳懐の同調者として失脚している。
p.225 廬山会議前、(党)中央は2回の鄭州会議(1958年11月2日から10日まで中央指導者の一部と地方指導者が参加したもの。もう1回は1959年2月27日から3月5日まで中共中央政治局拡大会議。いずれも主題は人民公社問題。括弧内はいずれも訳注)、武昌会議(1958年11月21日から27日まで中央指導者の一部と関連部門の責任者、省市自治区の第一書記が参加したもの。また続いて11月28日から12月20日まで党の八届六中全会が武昌で開催された。彭徳懐はこちらに参加した。人民公社についての若干問題の決議草案を可決。)、上海会議(1959年3月25日から4月4日上海で開催された中共政治局拡大会議のこと。人民公社についての若干問題の決議を可決)を開いた。私が参加した情況は以下のようであった。
2回の鄭州会議で私は1回だけ参加した。今回の鄭州会議は、通知を比較的遅く受けたので、最後の一日だけ 参加しただけである。その会議は、その日暗くなってから汽車のなかで開催され、席上での毛主席の講話は、その大意は「共産風」に反対するにあった。。出席した人の認識は一致したので、会議時間は長くなくすぐに解散した。私は主席の意見に同意し、そのほかの意見を提出しなかった。
武昌会議の時私は西北組小組に参加した。小組の討論で1958年の糧食と綿花の数字が知らされた時、ある同志は糧食が1兆斤以上あると述べた。ある同志は糧食が9000億斤、綿花が六七千万担(100斤が1担)と述べた。同じくある同志は糧食は必要なだけある(要多少有多少)、現在は工業が農業にすごく遅れている(大大落後于農業)と述べた。私は糧食はそれほど多くないと述べた。当時ある同志が遠慮気味に批判を提起した。彼は言った、「老總呀!あなたのこのような疑問、あのような疑問、どうすればいいですか」。私は答えた。「知らす数字を少し減らし(少些)、将来数字が増えるなら、自ら直せるが、知らす数字が多いと、将来(その数字に自分が)動かされる」。のちに主席は7500
p.226 億斤という数値を公表したが、私は当時は同意したが、心の中でなおこの数字に懐疑的だった。
会議閉幕後、私は先に湘潭県の烏山,韶山の両公社に行った。その後、平江県に行った。この数か所での私の印象は糧食の実際の収穫の数値は、公開数字あれほどは多くないというものだった。その根拠は、労働力の不足により、収穫はよくなかった。或る地区では糧食また食べ過ぎた。平江展覧館を参観したとき、二つの年度の生産数字がひっくり返って(顛倒)公開された。すなわち1957年の高生産の数字が1958年の生産数字として公開され、1958年の比較的低い数字は1957年の生産高として公開された。このようないいかげんな(造假)数字は、まさに人を驚かせるものだ。
株洲市に戻り、薄一波同志とたまたま出会い、糧食の数字を議論したとき、私は言った。「糧食の実際の生産の数字はあの予測数字ほど多くはなりえない。今年買い上げる1200億斤の糧食はかなり無理をしたものだ(很勉强的)。もし頭糧の買い上げが過ぎると、将来返すことが困難であるだけでなく、農民の生産情緒に影響するだろう。推定する買い上げは900億斤が適切だ。」薄一波同志は言った。「君は中央に電報を打ってはどうか。」私は言った。「君が書いてくれないか。」後になお私の名前で電報が打たれた、1200億斤を買い上げることはできないのであるから、900億斤買い上げできるだけであると。この電報が妥当であったか否かは、私個人の責任である。しかし見ることができるように、私は懐疑観点を、隠していたわけではない。
上海会議の時(1959年4月)、まさにチベット(西蔵)で反乱が生じた。当時私の主要な関心(精力)はチベットへの進軍にかかわる事務上の工作にあった。そのため其の外の問題に意見は提起しなかった。
私は1959年5月東欧各国を訪問し、6月中旬に北京に戻った。(帰国して)2日目に国防部の事務棟で黄克誠から国内情況の説明を受けた。山東菏澤地区の糧食不足情況は、私の出国時に比べ幾分緩和していた。4月の上海会議開催時、甘粛はなお食糧に余裕がある省と言えたが現在はすでに重大な不足省であり、運輸力の欠乏から糧食の運送も容易でなかった。私は尋ねた。「軍隊からなお運輸力を絞り出せるか?」黄は言った。「出せるものはすべて出した、海軍の艦艇の一部を割いて重慶で糧食の運送を支援している。
p.227 空軍もその力を割いている。(しかしこれは)戦争準備に影響する。現在油の準備にも問題がある。」黄は言った。「チベットの反乱はすでに勝利したが、(チベットに送られた?)運輸車両は減らすことができない。」彼は語りながら、少し困ったという表情を浮かべた。私は言った。「地方を援助する運輸力をひねり出す方法を考えなくてはいけない」私は言った。「東欧各兄弟国家人民は中国にとても気持ちが熱い、各国の指導者はチベットの反乱にとても関心がある。」私は又言った。7月1日に中央は廬山で工作会議を招集している。私は現在とてもつかれて、少し休息したい。廬山会議は君に参加をもとめている、君は書記処書記だから。地方軍隊の情況は皆比較的よく知っているし。彼は言った、廬山会議はなおご自身で行かれた方がよい。彼は軍事委員会に残り留守番をすることを望んだ。そこでわたしはくるしかなくなり、しかたなく(未便)勉めることになった。
6月29日武漢で乗船して廬山につき、7月1日は1日休息。2日に開会した。毛主席が形勢を概述したが、それはおおよそ、成績は偉大だが問題は多い、前途に光明があるというもの。中央辦公厛が出した材料は多かった。私は西北小組に編入された。おおよそ毎回の会議にすべて出席した。約10回。国務院の2回の会議は計画工作の討論であり、中央常任委員会会議に一両次。その他どこであれすべてに出かけた。
周小舟が私のところにきて2回話した。最初に話したの湖南工業の情況で、彼は言った。過去において湖南には重工業の基礎がなかった。現在は鋼鉄工場があり、電機製造工場があり、機械工場などがある。軽工業も大きく発展した。水利建設の成果(成績)もとても大きい。平均して40日雨が降らなくても、収穫できる。約束して数十分話し、昼飯を食べて帰った。2日経ってから、周小舟がまた話しにきた。彼は言った、去年の糧食では虚偽がなされた(造了假)!私は言った、何のために?と。彼は言った。「押し出されたんだ。最初に実現できない(不落實 根拠のない)糧食の数字を言い、そのつぎにまた実現できない数字を言う、何回か数字を作って、下級幹部はそうなのかと事情を了解する(就摸了一個底)-必要なのはニセの報告でホンモノの報告ではないと。」私は言った。「するべきことは数字をそのまま報告することで、虚報も未報告もあってはならない。」彼は又言った。「現在(公共食堂で)大鍋飯を食べると、大鍋で大かまどになり、焚火も労力も無駄が生まれている。小さい鍋と小さいかまどで、婦女や弱労(働)力のものはすべて食事をとれるのに、現在は強労働力でなければできない。公共食堂で家庭用水も不便になった。群衆は公共食堂に不満がある。」私は言った。p.228 「これらの問題について、あなたは主席に実際の情況を報告(反映)すべきだ」周は言った。「昨日、主席に少し話しました」。彼は私に機会があれば主席と話して、主席に対して具体情況を報告(反映)してほしいと望んだ。私は言った。「軍隊方面は常になにがしか社会情況を反映している。私はすべて主席に報告しよう(主席が見るように送ろう)」。彼は言った。「主席は見ることはできますか(能看到嗎)」。私は言った「見ることはできる(能看到)」。
張聞天は私の隣の部屋だったので、部屋を出ればすぐに出会い、話した回数は多かった。多くは散歩しながら、気ままに(隨便)話した。時間が経ったのではっきり記憶しないが、議論はいくつかの主要な現象に及んだ。小土炉煉鐵はコストに見合うかどうか(得不償失)。私は言った、煉土鉄にはプラスマイナスがある(のちに主席に送った手紙では、別人が侵す誤りにも失うことも得るところもある)。張は言った。「あなたの評価(估價)はなお高い」。張は言った。「党内で中国歴史が正しく理解しているのはなおただ毛主席一人だ」。私は会議後、政治経済学を真剣に学習したいと表明した。スターリンは社会主義経済法則問題を解決したが、人民内部の矛盾を正確に解決しておらず、この問題においては、誤りを犯していると考える。毛主席はこの大問題を、二種類の異なる性質の矛盾をはっきり分析することで解決した(敵と我の矛盾と、人民内部の矛盾を区別し、前者については「専制」で、後者については「団結―批判―団結」で解決するとしたことを指す。訳注)。これは無産階級専制を今一歩強固にして、マルクスレーニン主義を創造的に発展させた。
以上は廬山会議期間、7月10日前後の周小舟と張聞天と語ったおおよその内容である。この時、黄克誠はなお廬山に来てなかった。
1959年7月廬山会議初期、私は西北組小組に参加した。7月2日開幕後、7月3日から10日の8日中、私は小組会で合わせて7回発言(あるいは挿話を行った)。これは皆会議時期、中央辦公庁の簡略報告上陸続印刷発行され、同志に届けられた。7月23日午前、主席が私の7月14日書簡を批判以後、西北小組はまた私の小組会上の発言(あるいは挿話)を数回校正後、同志に集中して印刷発行した。
これらの事実から見ることができるのは、私が主席に手紙を書く前、一言も発しなかったではない。ある”左”の現象に対し不満を言葉として表明した、これは事実である。
7月1日から、会議に参加したほか、室内で中央部門の関連
p.229 財経文書、民衆(群衆)からの手紙、会議のまとめ(簡報)を見ただけである。7月12日の夜になり、私の頭の中では、現在の国家計画工作は深く(重大)比率(比例)を失調しており、毛主席の二本脚で歩く方針は各方面で実際工作中貫徹していないとの見方が形成された。これはまた7月14日のあの書簡の主要内容である。この判断により13日朝早く(晨向)主席に報告に行った。その時、警備員は言った。主席は今寝ましたと。私は西北組小組に行き会議に参加した。13日の晩飯後、あの手紙を書き始めた(実際には、7月12日には腹案はできていた)。7月14日午前に手紙は書き終わり、主席宛てに直接差し出した。16日に中央辦公庁の印刷が出てきた。私は18日に小組会に参加したとき、私はこの手紙は主席個人の参考のために書いたものであると説明し、中央辦公庁に私の手紙の回収を求めた。しかし20日前後、張聞天、周小舟それからそのほかの人の発言は、すべて基本は私のあの手紙に同意していた。黄克誠が18日の夜あるいは19日の夜、廬山に到着した。彼の小組会での発言は私はまだ見ていない。毛主席は7月23日午前私のあの手紙は反党性質の綱領だと批判し、手紙を書く前に、すでに発言を支持する人がいて、叫ぶと賛成する人が作られている(形成有唱有和)これが反党集団でなければ、一体何か?と。主席が私のあの手紙を批判してから会議の空気はたちまち変わり、私の気持ちもまた緊張したものになった。