小康(シアオカン) 中国経済用語
20世紀末までに小康社会を実現する、2021年、結党100年を目標に全面的小康社会を実現する。中国ではこの小康(シアオカン)という文字が目標につかわれてきた。ところで、いつから誰が言い始めたかは分からないが、この小康は古典「礼記(らいき リイチ)」に由来する。単に生活水準を示す言葉ではなく、もう少し奥深い意味があるのだと、議論されるようになった。確かに言葉というのは、そういうもので元の意味がある(写真は成城大学3号館ベランダ)。
問題の箇所は「礼記礼運編第九」である。
note ですでに読み下しがあったのでそれを引用する。
読み下し例(隊長 note 2019/04/02)
ここで大同(ダートン)という社会と、小康(シアオカン)という社会が比較され、大同はいわば理想的社会である(原文を入手したので、非力を感じつつ意訳してみる)。
大同では「天下為公」つまり人々は皆、公のために尽くす大道が行われ、人の家族であれ分け隔てなく、老人はその最後の場所を得、働くものはその場所を得、幼いものは成長する場所を得られ、孤独なものや障害のものも皆養われる。自らのために財貨をため込む必要はなく、盗みや乱暴を働くものはいない。家の戸は開け放たれている。これを大同という。
しかし今は大同は行われず、「天下為家」となっている。それぞれが自身の家族のことだけであり、財貨や力をおのれのために使う。そこで世の中は礼によりようやく収まるようになった。君臣、父子、兄弟、夫婦、制度、田畑、などの関係は、礼義として記録され治められることになった。古代の六人の君子の時代はまさにそのようであった。この六君子以来、なお礼者といえるものはいない。(君子として)信義が説きそれが促すものが長く続く。そのようにしないものは民を害すとして去る。これを小康という。
後段についての訳例 (古今名言集)
この礼記の解釈から何が分かるかというと、大同の世界は相当に先の話だということ。もう一つは小康の世界で、礼義を誰が決めるのか、自明であるようであり、結局不明だということ。社会的ルールを誰がどうつくるのかは抜けているように思う。大同を私有財産のない世界、小康を私有財産のある世界と分ける解釈があるが、確かにそのようにも読める。
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