吳敬璉 経済学者と中国改革 2004
以下は吳敬璉《經濟學家,經濟學與中國改革》載《經濟研究》2004年第2期,8-16の前半3分の1を訳出したものである。吳敬璉(1930-)は高齢ながら、改革を進める立場で最近も発言する経済学者であるが、その評価を改革派とすべきか戸惑うところがある。たとえばだが、趙紫陽と李鵬との対立において、李鵬にすり寄ったとされる点。証券取引所について、これを賭博に例える議論をしたとされる点(株価をどう捉えるかの問題も確かにあるが、国営企業改革との関係、企業の資金調達との関係などの論点が落とされている)など、ところどころ、この人の発言は、「改革派」なのかについて、疑問符をつけたくなるところがある。以下のスピーチでも、毛沢東の十大関係論から説き起こし、その延長上で官僚エコノミストを並べていることは権威主義的であり、中段、現代市場制度を上から導入できるかに語っていることは市場に任せることを拒否しているように見え、下段、自身の経歴について、もともと南京の金陵大学経済系に入学して、その後の調整で、上海の復旦大学経済系に編入したはずだが、そうした経緯を外しているところなどが、私などは気になる。しかし他方で、毛沢東を改革の側に含めて議論を連続的に捉えて示すのは、改革がそもそも毛沢東以来連続していると指摘することで、政権保守派をも改革に巻き込む巧妙な論法だともいえる。またこの論文で、顧准の再評価をおこない、陳振漢ら六人の経済学者の手紙を紹介したことは、中国経済学史の歩みを書き直したものとして肯定的に評価できよう。つまりは、以下の訳出部分は吳敬璉の評価ともかかわって大変興味深い内容なのである。
経済学者、経済学と中国改革 吳敬璉(国務院発展研究センター)
(原注 この論文は作者が2003年12月20日ー21日上海で開催された第三届経済学会年会でメインスピーチを行ったときに準備された論文であり、今回の発表にあたり、作者は修正を加えている。)
中国経済学会のこのめでたい年会にお招きいただき、学友の皆様と我々の学問が直面している重要な理論そして現実問題について、共に探究討論できますことを感謝いたします。特に私の母校(復旦大学)での年会に、過去4分の1世紀の中国経済学と経済学者の歩みを回顧するメインスピーチをするように招いて下さったことに感謝します。その意義の深さは、たとえようがないほどです。
私は大会に提出された論文の題目を一覧し、その範囲の広がり、素晴らしい議論にあふれていることを見て、この上なく嬉しく思いました。ふと私は25年前の1977年のことを思い出しました。混乱を糺そうと(爲了撥亂反正)私の二人の先生である、于光遠教授と蘇紹智教授は四度にわたり「労働による分配(按勞分配)討論会」を開かれました。当時、経済学者はまだ思想の束縛(禁錮)を脱していなかったが、心からの熱情と勇気を出したことは忘れがたいことです。中国の経済学者は、多くの問題に対する批判的思考をまさにこのとき始めたのです。
さまざまなこと(境遇)を経た今、私は中国がこの20年来得た進歩を深く誇りたいと感じます。歴史の一証人として、また経済学界の友人たちとともに私は、改革の過程と、経済学と経済学者のその中での作用の回顧に立ち会っています。そこから私たちは経済学者の歴史的使命と社会的責任を明らかにできるでしょう(以下文体を変更)。
一、中国の経済学者は改革の中で成長した
中国の経済科学の発展は左の政治路線の統治下で致命的に損なわれた(致命摧殘)。(そして)改革の中で復活した(重生的)。
しかし風雨が岩を穿つような時代にあっても、経済学者は自身の努力を決して放棄しなかった。
顧准(1915-1974)中国経済学発展史の中で市場志向(取向)改革を提起した最初の人である。彼は20世紀50年代中期、左の風が遠慮なく吹き付け人々の議論が強引に排除される中、社会主義経済問題は市場制度を廃止したことにあると、はっきり(一針見血地)指摘した。効率を高めるには社会主義が、企業が市場に基づき価格の自発騰落を決定できる経済体制を選択できることであると(顧准 1956 32頁)。あの時代に、このような独立かつ深い思想はとても突出している。残念なのは、彼が資産階級右派分子とされ、その学術観点は、異端の邪説とされて20年間の長期にわたり、埋没されて知られることがなかったこと(湮沒無聞)である。
1956年以後の20年余り、中国の「経済体制改革」は毛沢東が『十大関係を論じる』(と題した)講話で提起した放權讓利(権利を下におろし、利益の一部も委ねる)というもので、特に地方政府に対する放權讓利の方針が指導的だった。この種の体制下放の改革の思考(思路)は、この後の改革に深遠な影響を生み出した。
体制下放の思考に、最初に批判を提起したのは経済学者の孫冶方だった。彼は1961年以後、何度も指摘した。経済管理体制の中心問題は、中央政府と地方政府の関係ではなくて、予算単位である企業の権力責任を独立させることであり、企業と国家の関係の問題である、すなわち企業の経営管理権の問題である(孫冶方 1961)。彼は計画経済の大きな枠組みのもとで(大框架下)企業自主権の拡大あるいは企業に対する放權讓利を主張した。しかしこのような主張を当局は受け入れることが出来ず、間もなく彼が提起したこの観点はリーベルマンと比べられるようになり、ついにはリーベルマン的修正主義者として批判と迫害を受けた。
(原注 リーベルマンはソ連の経済学者。彼は1961年のソ連の経済改革で提言を提案。1965年のクシーチン(柯西金)改革の理論的基礎となった。)
「文化大革命」収束以後の政治思想と経済政策の正常化(撥亂反正)の過程にあって、絶対多数の経済学者と経済工作指導者は、企業の経営自主権を拡大し企業活力を高めることを、改革の中心に置くことは当然と考えた。国有企業改革をミクロ改革の重点とする著名な唱導者にはなお馬洪(1920-), 蔣一葦(1920-1993)がいる。たとえば馬洪の、経済管理体制の改革は「大企業が自主権を入手することから」始め、企業の人と財物と計画などの方面の決定権力を拡大せねばならない、との主張は、国有企業指導者の熱烈な支持のもと、何人かの政府指導者が受け入れることになった。
(原注 馬洪の北京地区社会科学界慶祝中華人民共和国建国三十周年学術討論会提出論文「改革経済管理体制与拡大大企業自主権」載《馬洪集》中国社会科学出版社2000年228-245。)
1978年12月中共十一届三中全会は経済改革問題を討論する中で、放權讓利を1958年と1970年の行政性分権からさらに広く解釈した。全会「広報」は指摘している。旧経済体制の「重大な欠点は権力の過度な集中にあった。」「指導して大胆の下放し、地方と工農業企業に、国家統一計画の指導のもと、さらに多くの経営管理自主権をもたせることで」「中央部門、地方、企業、そして労働者個人、この四方面の主導性、積極性、創造性を充分に発揮させ、社会主義各部門、各リンクをあまねく繁栄(蓬蓬勃勃)発展させる。」
(原注 「中国共産党第十一届中央委員会第三次全体会議広報1978年12月22日」戴于中共中央文献研究室編《三中全会以来重要文献選編》人民出版社1982年)
このほか一部の(一些)経済学者の思考範囲は企業改革からさらに広がった。20世紀80年代初期、研究の深化と国際交流の拡大から、すでに次第に企業自主権の実際措置範囲拡大(の議論)を超えて、「社会主義商品経済」を核心とする、全体的観点と政策主張を形成した。当時の改革学派の主要人物は、薛暮橋(1904-)、杜潤生(1913-)、廖季立(1915-1993)、劉明夫(1915-1996) らの老経済学者と経済工作指導者である。中国左翼経済学界の老将であり、解放後、中央政府の経済指導工作を長期間担任した薛暮橋は、1979年に出版された著作《中国社会主義経済問題研究》で当時の改革思想に重大な影響を与えた。本書の中で指摘している。中国経済改革で切迫して解決を求められる問題が二つある。一つは(集団経済単位を含む)企業の管理制度の改革であり、企業を活力のある基層経済単位にすることである。もう一つは国民経済管理制度の改革であり、それを社会化大生産の要求に適合したものにすることである。ここで社会化大生産に適合するとは、当時、「社会主義商品経済」の市場制度を婉曲に表現したものである。
長期意識形態部門の工作では、于光遠がマルクス主義のもともとの意味という角度から、スターリンと毛沢東の経済理論と経済政策を批判した。于光遠とその追随者は、南スラブ(ユーゴスラヴィアのこと 訳注)共産主義連盟が提起した「企業自治」と「社会所有制」の経済体制に傾倒するところがあった。
20世紀70年代末期80年代初期の中国の市場化改革は、経済学者のある種の理論がけん引して進んだものではなく、多くの農民が、賢明な政治家の保護のもと、公有の土地の上に建設された自家家庭農場の責任制を獲得したことで、直実に(扎扎實實)その大股の一歩を進み始めた。しかしこの時期に経済学者が、農民のために私有農場の合理性と合法性を理論的論証を行い政治の障害を除く仕事をしたことは十分重要である。なかでも杜潤生とその周囲の若い経済学者は重要な貢献を行った。杜潤生は農村経済研究に長期間従事し、毛沢東によりかつて10年間一貫して右傾の中国農村工作指導者だったと批判された鄧子恢(1896-1972)を補佐した。彼は現代経済学の理論成果を広範に吸収し、市場制度建設を主張した。20世紀80年代初期に農村請負制(承包制)開始を推進し、農村経済政策制定方面で重要な影響を発揮した。
(原注 鄧子恢は国内革命戦争時期にすでに共産主義運動指導者のひとり。中華人民共和国建国以後農村工作の主たる官員。その以前、彼は土地改革完成後、雇用、貸借、交易(貿易)、そして土地貸借を制限しない四大自由を主張し、50年代中期には合作化問題で猛烈に進めること(冒進)に反対し、大躍進失敗後は各戸請負制(包產到戶)を主張し、一度ならず毛沢東の厳しい批判を受けた。)
党の政治指導機関工作の経済学者もまた、かれらの理論知識、政治上の知恵を用いて、(改革における)幾つかの重要問題を突破する努力を行った。たとえば中共中央書記処研究室理論組組長の林子力(1925-)の「連合請負制(聯產承包責任制)」という本は請負制のため、系統的論証を行っている。彼は政府文件の起草に参与したとき、『マルクス資本論』の中の一つの事例を引用した。そのことで雇工8人以下の個人商工業者が、依然として他人労働を主要な生活資源とせずに、個人労働者の身分を放置していることの論証とした。この言い方は、政治上は通過できて、雇工8人は個人企業と私営企業の境界線となり、都市私有小企業は、ある種合法的生存空間を得たのである。
20世紀80年代初期、農民にはよく知られた家庭農場にはすでに各戸請負制の形式が回復され、都市民営商工業が成長を始めた時、都市において重点改革のため、いかに現代市場制度を建設するかという問題が、人々の眼前に提起されることになった。
「踏み石を探りながら河を渡る、は常々、中国経済改革の戦略だとされている。」中国改革の実際の経験からすると、この論法は疑うに値する。家庭農場制度の回復は、農民がただ古くから(1100年)伝えてきた耕作制度についての自身の体験と、実際権力をもつ官員の英明さ(叡智)が得られるなら十分だとしても、現代市場制度の建設は全く別のことがらである。現代市場制度は数百年の諸変化が形成した複雑なシステムで、もし完全に自発的な進化に任せるならその建設には少なくとも数十年、百年以上の光陰が必要である。とても短い歴史時間内に改革行動を行って、このシステムを無から生じさせるには、このシステムの運動規律についての現代科学の深い把握が無ければ、改革行動の自覚がなければ、その巨大で困難な歴史任務は円滑に完成することはできない。「左」路線下のもとで傷ついた(中国)経済学には、経済制度のこの革命的変化の理論を提供する能力が全く備わっていない。
私は共和国成立当初の1950年に大学に入学した。一年後、英語科目(課程)が無くなり、理論経済学科目も間もなく無くなった。大学(高校)経済類科目はただ政治経済学が開設され、資本論研究など、採用されたのはソ連の教材だった。1957年の「幫助黨整風」運動の中で、何人かの著名な経済学者が、マルクス主義の古典を引用して証拠としたり解釈に明け暮れたり(印證訓詁)、ソ連の政治経済学教科書をただ転記する(搬運轉述)不良な学風を克服し、現代経済学を積極的に吸収して、我が国の経済科学を発展させることを訴えたが、(これは)党に向けた狂った進攻(向黨猖狂進攻)とされ、意見を提出した学者は「資産階級右派分子」とされた。このことは多くの経済学者にとり経済学研究を進めることを、危険な道とみなす(視爲畏途)ようにした。
(原注 以下を見よ。陳振漢,羅志如,巫寶三,方嘉風,谷春帆<我々の当面する仕事についての若干の意見(我們對當前工作的一些意見)>《人民日報》1957年8月29日)
その後、経済学は、現行政策の叙述あるいは賛歌(頌歌)となり、学者の言論はもしソ連の教条に違反していたり現行政策と合わないときは、マルクス主義に反対しているとの大帽子をすぐに被せられないとしても、中国の実際とはひどく乖離している(厳重脱離)との批判を受けることになった。西欧経済学は、このあと公の場から姿を消した(銷聲匿跡)。たしかに1976年の「文化大革命」終了後、一部の大学(高等学校)で幾つかの「西欧経済学」専門講座式科目が復活したが、現代経済学は普通は批判の的(靶)にされており、理論の基準とされたり分析工具として用いられてなかった。
1978年12月中共十一届三中全会の「解放思想」のスローガンの下、中国の経済学は少しずつ世界の経済学界との連携を回復し、かつてはとんでもない災い(洪水猛獸)とみなされていた現代経済学の原理を用いて、中国の経済問題を分析している。このような情況下、旧世代の経済学者である、薛暮橋,劉明夫らは、市場作用の発揮そして、「商品経済」を建設する改革の主張を提起した。多くの若い経済学者が熱心に現代経済学の基本知識を補習している。新たな知識がくみ取られて、我々自身の問題が、考えられることを期待したい。
大きな衝撃を、1980-81年に行なわれた、西欧に移住している2人の東欧改革の経済学者、W.ブルス、オタ・シクの講演がもたらした。当時、中国の経済学がなお、改革を政策措置の積極性を増すといった意義付けにとどまっていた時に、彼らは改革を経済システムの転換(躍遷)過程として分析し、これは多くの人にとりとても新鮮だった(原注 中国社会科学院経済研究所学習資料室編『社会主義経済体制改革を論じる』法律出版社1982年)。そこから多くの中国経済学者に、現代経済学を体系的に学び、学術水準を高めようとする願望が生まれた。北京大学など重要学府中に、現代経済学科目が再開され、同時に中国科学院経済研究所に比較経済学学科を創設する努力が始められた。経済学者劉国光、董輔礽,榮敬本などは皆、この方面の進展に貢献した。
現代経済学の再学習の基礎上、中国の経済学者は次第に現代経済学の基本理論と基本分析工具を把握しつつある。(そして)中国市場化改革の進展を分析評価しており、経済改革と経済発展政策に対して、科学に基づいた建設的議論を提起している。(以下略)
(以下はuploadは2016年2月1日。ただし録画時点は確認中。)
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