梁思成と北京 1949-1950
梁思成(1901-1972)は、北京の古城を保存する形での北京の都市計画案(1950年2月)をまとめたことで知られる。しかしその後、右派として批判されるようになった。彼が中国各地の古建築だけでなく仏像についても研究したことは特筆される。彼の研究を通して、中国がいわゆる社会主義化のプロセスで失ったのは人命だけでなく、かけがえのない中国の文化そのものであることが改めて意識される。
林洙《建築師梁思成》天津科学技術出版社1996年7月より
p.107 新中国誕生後、北平が北京の名称を回復し、新中国の首都になった。新首都の建設が
p.108 梁公の最大の関心事になったのは自然なことであった。1949年5月、梁思成は北平都市計画委員会副主任に任命された。当時中央の指導同志は彼に清華営建設系の教師と学生で北京城の都市計画(規劃)の進行研究を組織することを委託した。この研究小組の主要成員は当時営建系の4人の若い教師、程應銓, 朱暢中, 汪国瑜, 胡允敬であった。梁公は、また常にこの問題で新聞雑誌に文章を書き、自身の見解を発表していた。梁家の茶会もまたこの中心問題を議論していた。当時「都市計画(城市規劃)」はなお我々の社会が認識するところではなく、建築師(設計士)とは何か建築師の仕事とななにかは知られておらず、建築師は土木エンジニアだという誤った認識があった。梁思成はいつもこの4人の青年教師を率いて北京城市の建設会議に参加し、各界の人々に都市計画の重要性と、古建築保護の意義を宣伝提起(呼吁)した。彼らは常にこれらの問題を、異なる見解の人、ことにある指導同志の耳を真っ赤にさせた。ある人はからかって、この4人の若い人は梁思成の「四路野戦軍」だと言った。この笑い話が文革期間には梁思成の「反党罪行」になるとは、思い至らなかった。
当時私はなお梁公の古建築方面の成果に接触しておらず、彼の中国建築史研究方面での傑出した貢献を理解していなかった。ただ梁家の茶会での見聞から、すでに彼が視野の広い又卓見を有する学者であることは深く感じていた。
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彼の北京の(都市)計画思想は、北京全体の環境の保護であった。彼は最も早く全体の眼光を用いた、都市計画の角度から北京古城の歴史文化価値と感情価値の認識とを分析した特異な学者だといえる。
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もし政府行政区を旧城の外に設けることが出来れば、旧城の型(格式)を保護できるだけでなく、同時に旧城の詳細な計画と改築を検討する時間が得られる。
しかしこの方策は指導者の受け入れるところではなく、ソ連の専門家から反対された。専門家は北京は一大工業都市として発展すべきだと考えた。北京市の人口百分比でみた労働者階級の比率を高めるために、政府の中心を天安門広場と東西長安街上に設けることが建議された。梁思成は政府の中心地点について異なる意見を表明した、かつ不断に北京市の関連する指導者に対し述べた。「我々の将来の認識はますます高くなり、古代文物の尊さをますます知ることになります。この点について、私は貴方を時間をかけても説得せねばなりません。」「五十年後後悔するかもしれません」
p.112 まもなく「梁陳方案」(1950年2月完成 福光挿入)は、ソ連専門家の「分庭抗礼」(双方が平起平座。という意味だが実力で均衡がとれている。ここは経費などの面で均衡のとれた提案である旧城改造計画のことを指し、旧城の外に新首都を設ける案を否定したことを指しているのであろう。)そして毛主席の「一辺倒」の方針に反するとして、指弾されることになった。