Nikolai Bukharin 1888-1938
ブハーリン by Goncalo L. Fonseca
Cited from History of Economic Thought
ロシアのマルクス主義経済学者。ロシアのボリシェビキの初期において重要な理論家。
知的にはブハーリンは通常オーストリアマルクス主義者と関係付けられる。ブハーリンの1917年の本は、新古典派オーストリー学派への批判を含んでいた(訳注 『有閑階級の経済理論』1917年のことで、限界効用理論が詳細に論じられている。主観主義、非歴史的であること、そして消費から説き起こしていることを問題にしている)。彼の1918年の帝国主義についての一篇は、レーニンの大著の前に書かれている(訳注 『帝国主義と世界経済』1918年のことで1915年12月の日付けのあるレーニンの序文がついている)。ブハーリンはオーストリアマルクス主義が支持したマルクス主義理論への社会学的接近の推進者であり、変更主義についての彼の弁護は(結局)1924年のRosa Luxemburgへの批判につながった(訳注 『帝国主義と資本蓄積論』1924年を指している)。政治的に彼は、小規模の農民農業と市場の誘因を強調する、ロシアの新経済計画NEPの主たる推進者だった。彼は1938年の裁判で粛清され、その後銃殺された。
ブハーリンについてMarxist org.の説明を次に訳出する。これは短いが整理されていて読みやすい。
革命前からのボリシェビキ。トロッキーとニューヨークで出会い、二人は1923年、スターリンの権力闘争にブハーリンが加わるまでは親しかった。革命戦争を支持して、ブレストリトフスクの講和への署名に反対した、左翼共産主義派の一員。トロッキーに対して、Zinoviev, Kamenov,Stalinと右翼ブロックを形成。新経済計画の間、豊かな農民rich peasantsへの転回についての主たる主たる代弁者spokesperson。ZinovievとKalininが左翼反対派に加わったあと、スターリンのもとにとどまる。1918-1929年Pravdaの編集者。1926-29年Cominternの頭目。右翼反対派を率いたことでスターリンと分裂。トロッキーはブハーリンを観察して、(彼は)「いつも誰かについていなければならなかった、そして誰か(ほかの人の)行動や演説の手段になった」と書いている。ブハーリンの理論経済学への貢献は疲れを知らないものtirelessだった。彼はボリシェビキ党の主要理論家の一人とみなされていた。(また)『共産主義のABC』と題した本の著者だった。Sergeは書いている、ブハーリンの「心は、情熱で膨れ上がっていたが、常に警戒して活発でもあり、しかし厳格に自身を抑えていた、良い意味で自己本位だった」と。その思想のゆえに1929年に党から追放されたが、間もなく引き戻された。1938年の第三次モスクワ裁判の後、処刑された(ゴバチョフのもとで、ブハーリンの妻は、(裁判での)ブハーリンの自白は強制されたものであったことを明らかにし、秘密とされてきた彼の真実を出版した。当時、市場社会主義の理論的歴史的正当性を求めて、ブハーリンを再評価する試みが存在した)。