于光遠(1915-2013):生涯と評価
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于光遠(ユー・グアンユアン 1915年7月5日―2013年9月26日)元の姓郁。名鍾正。中国の経済学者、哲学家、教育者、マルクス主義理論家。中国改革開放の重要な参加者にして証人。
家族の歴史
于光遠の本名は郁鍾正。上海嘉定南翔の郁家で生まれた。道光5年(1825年)に清の朝廷は海上の漕運を自由化した。郁家は沙船(平底の木造帆船。ジャンクとも呼ばれる。道光年代に上海には3000艘。全国に10000艘あったとされる。訳注)運輸を経営して上海で最も豊かな家となった。人は「郁半城」と称した。杭州の紅頂商人(官と商双方に身分のある商人あるいは官に影響力のある商人のこと 訳注)である胡雪岩は郁家と婚姻を繰り返して姻戚関係を深め、郁家には娘や孫娘が嫁いでいる。1853年に上海で小刀会という蜂起が勃発したとき、白南指揮所は郁家の大院前廰(大院は深く大きな建物群を指す。廰は来客を迎える建物。訳注)に置かれた。1855年に蜂起が平定されると、内通の疑いにより郁家は白銀20万の支払いを迫られた。同治9年(1871年)、朱其昴は李鴻章の命により輪船招商局を開業し、残りの漕運業務を招商局に運営をゆだねる命令を出した。これに沙船が次第に輪船に置き換わることが加わり、郁家の船業は次第に衰えた。民国初年にはすでに郁家は没落していた。于光遠は郁泰豐のひ孫であり、清末の政治家曹汝霖は于光遠の母方のおじである。于光遠がまだおくるみ(襁褓)のなかにいたとき、曹汝霖は抱きながらこういった。「この子は将来きっと何かを成し遂げるに違いない(這孩子將來一定有出息)。」
履歴略述
1915年に于光遠は上海に生まれた。1934年に清華大学に入学した。錢三強,王大珩,何澤慧とは同窓生だった。1936年に清華大学物理系を卒業した。彼の指導教授で、著名な物理学者である周培源はかつてプリンストン高等研究院を訪問したとき、アインシュタインに于光遠の論文を手渡して批評を求めた。1935年に一二・九運動が勃発し、于光遠は学生指導者になり、革命に身を投じた。物理の研究に別れを告げた。于光遠の論文はとうとう1997年に彼の清華での先輩である物理学者彭恆武により完成された。
1936-1937年、于光遠は「中華民族解放先鋒隊(民先)」の出だしの指導者となった。また清華の同窓生で作家の黄秋耘の紹介により、中国共産党に入党した。のちに隊員を率いて華北に避難(撒離)した。1939年に延安に赴き中山図書館主任。文革期には批判闘争の対象となり(遭受批鬥)、寧夏五七幹部学校に送られた。(1939年)中共中央図書館主任、北京大学図書館系教授、中共中央宣伝部理論宣伝処副処長(1948-1975年在中共中央宣伝部工作)、科学処長、国家科学技術委員会副主任、(1955年)中国科学院哲学社会科学部委員、常任委員、科学規画委員会副秘書長、中国国際経済技術合作促進会顧問を歴任した。1977年からあとは、中国社会科学院副所長を担当し、顧問、マルクス・レーニン(主義研究所)の所長、国務院学位委員会委員、北京民族大学名誉校長を歴任した。于光遠は長期にわたって(中共)中央顧問委員会委員を務めた。
1975年鄧小平が復帰し、国務院副総理の職務に任ぜられた。ただちに「政治学研究室」が成立した。四人組を避けて国務院に置かれ、(鄧小平が)自ら直接指導した。胡喬木,于光遠,鄧力群,胡繩,吳冷西,熊復,李鑫の7人が担当者(負責人)とされ、胡喬木,于光遠,鄧力群は主要担当者とされた。龔育之はこれを鄧小平の「秀才グループ(班子)」と呼んでいる。
1978年、于光遠は鄧小平の十一届三中全会での講話を起草したことで、中国改革開放の重要な参加者であり証人としての栄誉を受けている。
1982年、国家科学委員会副主任の于光遠と中国科学院党組書記、主席団執行主席の李昌が共同で発表した《李昌、于光遠が科学院で開催した”人体特異能力(超能力のことだろう。訳注)”の研究と宣伝に対する批判》なる講話と内容は、1982年2月25日の人民日報上に発表され、人体特異能力の支持者である張震寰、錢學森らの人々の反論を受けた。
于光遠の著作は豊富で、《私は鄧小平を覚えている(我憶鄧小平)》《中国の運命を変えた41日:中央工作会議、十一届三中全会 自らの経験記録(親歴記)》《1978 私が自身経験したあの歴史の大転換:十一届三中全会の前後》を含む。米国の中国問題研究学者であるハーバード大学教授の傳高義は于光遠にインタビューするとともに、その回顧録を翻訳出版した:Deng Xiaoping Shakes the World: An Eyewitness Account of China's Party Work Conference and the Third Plenum。
2006年8月19日に彼は脳血栓で倒れた。2007年の半ば以上病院で過ごした。最初は左半身が完全に動かせなかった。その後、左手の能力は顕著に改善された。しかしなお立つことはできない。2008年1月22日に紀碩鳴(1954年生まれ 復旦大学出身 香港在住のジャーナリスト 訳注)は初めて訪問した。訪問内容は《亜州週刊:第22巻第8期》:《彼は鄧小平の講話稿を起草した》として発表されている。
于光遠は2013年9月26日明け方3時。病のため治療の効果なく世を去った。享年98歳だった。(昨日:9月26日の夜、于光遠の秘書の胡冀燕が言うには于光遠は穏やかに旅立った。2005年のあと、脳血栓のため、于光遠の体は以前のようではなくなった。常に病院にあり、すでにほとんど外出はなかった。「最近この1年は、于光遠はほとんど意思を示すことはなかった。他人が書いたものを見ることはできた。うなづくこともできたが、すでに話すことはできなかった。」「亡くなったあとのことについてほとんどなにもことづけられませんでした」と胡冀燕は語った。家族の手配により于光遠の遺体告別式は9月30日午後北京医院で挙行される。《東方早報》2013年9月27日より)
生平大事記
1915年 上海に生まれる
1932年 上海大同大学入学
1935年 一二九運動に参加
1936年 清華大学物理系卒業
1937年 中国共産党に加入
1942年 経済学の研究に従事
1954年 中国科学院哲学社会科学学部委員
1956年 中国共産党第八次全国人民代表大会代表に当選
1964年 国家科学委員会副主任
1975年 国務院政策研究室担当者
1977年 計画委員会経済研究所所長
1979年 中国社会科学院マルクスレーニン主義、毛沢東研究所所長
1982年 中国社会科学院顧問
2013年 (9月26日)逝去
研究領域(百度百科より)
于光遠は長期間経済理論工作に従事した。20世紀50年代末(1950年代末)彼は商品生産、価値規律、社会主義再生産、経済効果、経済発展の速度と比例などの重要な経済理論の討論に関わる組織に参加していた。1959年には経済効益(効果と利益)が必ず重視されるべきだと提起した。1970年代後半、当時当地の生産力の発展を促進できるか否かをめぐっていわゆる生産力唯一論批判(生産性を改善しようとする議論が批判を受けていた。訳注)に反駁した。同様にどの社会主義所有形式が進んでいるか、どの形式が遅れているかは、歴史発展のなかでの生産力の関係において考察されるとして、社会主義建設時期の非社会主義経済成分の存在と発展は、この標準に拠る必要がある(生産力の水準が低ければ非社会主義経済成分の残存と発展はむしろ当然だと議論している。訳注)。労働に応じた分配の(按勞分配)理論については,労働に応じた分配は、資本主義と資産階級を生み出さないだけでなく、資本主義と資産階級を消滅させるのに必ず通らねばならない道だとした。彼はわが国に労働に応じた分配が超過する問題について、貫徹するだけでは十分ではないとした。1978年に彼は商品生産は社会主義制度の一つの本質特徴だと提起した。
1979年に彼は社会主義生産の目的問題の討論を、社会主義生産の目的問題と最終製品とを関係つけることで、拡張(開展)することを提起した。彼は社会主義生産の経済目標は、人々が必要とする最終製品を可能な範囲で国内の最大限度まで増産することにあるとして、最終製品の増産情況を全経済工作の成績の尺度とすべきだと考えた。同時に彼は全社会の使用価値生産と個別企業の価値生産を統一しようとし(たが)、個別企業の価値生産は全社会の使用価値生産に従属する(と考えた)。20世紀の70年代末、彼は社会主義経済の持つ計画は発展すると提起した。計画的発展するとは計画が外界の変化に適応することだけでなく、社会主義商品生産と商品交換の条件の下、計画が市場の変化に適応することを含んでいると。指導性計画がこのようだというだけでなく、指令性計画も同じであると。十一届三中全会以後(も)、彼は改革の探索を堅持し、彼は経済体制の改革は社会主義国家において生産資料私有制社会の改造後の最初の生産関係上の偉大な変革だと考えた。早くも1977年に彼はわが国の経済体制の総指導思想は、マルクス主義の普遍原理とわが国(本国)の具体実践の結合であると提起した。彼は、生産力経済学、国土経済学、経済社会発展戦略学などの新たな経済学科を支持し、技術経済学を創造し、経済効益学、教育経済学、消費経済学、環境経済学、観光(旅游)経済学などを提起し自らの見解を述べた。
貢献について(《東方早報》2013年9月27日より なお署名は陳良飛)
于光遠は1915年7月5日生まれ、元の名前は郁鍾正。1936年清華大学物理系卒業、1955年中国科学院社会経済学部委員に選出。
于光遠が生前に任ぜられた職は多い。国家科学委員会副主任、国家計画委員会経済研究所第一任所長、中国社会科学院副院長兼マルクスレーニン主義研究所第一任所長。彼はまた十二届、十三届中共中央顧問委員会委員である。
于光遠に対する外界の多くの評価のなかで、《解放思想、実事求是、団結一致向前看》の演説草稿の主要起草者の一人というのは、間違いなく最も多く提起されることの一つだ。
これは鄧小平が、1978年末中央工作会議閉幕式で行った講話であり、この講話をシグナル(標志)として、中国は改革解放事業の新たな行程を始めたのである。(中略)
十一届三中全会のあと、改革工作は中央財経委員会が具体的に担当した。当時設けられた、体制組、引進組、結構組、理論方法組の4つの作業班(小組)が改革解放の具体問題の研究を担当し、于光遠は理論方法組の担当者だった。
于光遠は社会主義経済理論において、改革解放の実践の前列を一貫して歩んだ。多くの経済建設と経済体制改革中の重大理論問題はすべて彼により率先してあるいかなり早く提起されている。
社会各界が広く認めている評価には以下が含まれる。于光遠は最も早く社会主義市場経済体制を提起した学者の一人である。彼は最も早く労働に応じた分配と、社会主義モデルの多様性を提起した。彼は最も早く社会主義初級段階理論を提起した。それは党の十二大報告(1982年 訳注)に正式に記載された。彼はまた(社会主義 訳注)商品経済を堅持した、それは十二届三中全会(1984年 訳注)の決定中に最初に記載された。彼が出版した《中国社会主義初級段階の経済》という本は、新中国経済建設に影響した10本の経済学著作の一つに選ばれている。
社会活動
于光遠は世界麻雀組織を発起設立した。また2006年に最初の主席となった。組織は翌年正式に世界大会を開催した。
家庭
前妻孫歴生(スン・リーシェン) 1953年に于光遠と結婚。文革中迫害を受け1968年に亡くなる。于光遠との間に于小紅,于小康,于小蓓。
後妻孟蘇(メン・スー) 経済学者孟用潛(1905-1985)の娘。1962年に于光遠と結婚。于光遠との間に于小東,于小慶。
資料
于光遠評傳 福光 寬
経済学三巨頭 張曙光
于小紅《百花定香樹》
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