劉少奇の新民主主義構想 1948-1949
(薄一波『若干重大決策与事件的回顧』中共党史出版社 1997修訂版の2008年の重版。執筆開始は1988年。最初の刊行は1993年。写真は1950年6月中国人民協商会議における劉少奇である)
1. 北京と天津の接収
p.1 我が党が指導する中国革命は、毛主席が提出した農村が都市を包囲し、その後都市を取得するという路線(道路)に沿って、長期のこの上なく苦しい(艱苦卓絕)闘争を経て、1949年についに勝利を勝ち取った。これに応じて党の工作の重心は農村から都市に移動した。これは中国革命のまた初めての偉大な変化(転変)である。党の歴史上、われわれはかつて都市から農村へという変化を経ている。その最初の変化は、中国革命が勝利への路線に向かうことを切り開いたが、同時に深く痛ましい代価を支払った。この最初の変化は、そこから始まったことは、毛主席を首班とする党中央の正確な指導のもとに進められているということである。北京と天津の接収は今回の変化の勝利実現の重要な指標であり、また新中国の建設の基礎を固めるものである。私は建国以後の党のいくつかの重大な決定と重要事件の回顧を、ここから始めることにしよう。
(1) 革命の高まりの到来と先立って北平に赴任する任務
1948年に入ると、革命の形勢はとても早く発展し、蒋介石の反革命統治は滅亡に向かって進むことが予定されるようになった。この情況のもとで、党中央と毛主席とは指揮作戦をすると同時に、全国で勝利した各項について革命を計画的に進めるための準備工作を開始した。中央は華北局の成立を決定したが、これは準備工作中の一つの重要な構成要素だった。
2. 新中国の建設
p.15 北京と天津の接収工作が一段落したあと、中央は私を中共代表の一人と確定し、私は新政協の準備作業(籌備工作)に加わった。そのあと、私はまた、華北解放区首席代表の身分で、中国人民政治協商会議に出席し、また中央人民政府委員に当選し、(これは)共和国の準備建設作業に参与する機会となり、建国前後のいくつかの重大な政策決定を知ることになった。
中華人民共和国の建国は、中国革命史の偉大な里程標であり、極めて深い意義がある。我々の党の建国の主張は、主に建国綱領中のいくつかの重大政策決定に体現することができた。このゆえに、私は新中国建国の回顧において、いくつかの重要な政策決定について深く思うところがある。
(1) 七届二中全会は新中国建設の青写真を描いた
1949年3月河北省西柏坡村で七届二中全会が招集されたが、これはまず中国の南半分を解放し新中国建設の青写真を描くうえで、とくに重要な会議であった。当時私は北平の留守を守る命令を受け、会議に出席しなかったが、会議の前後に行われた重大な工作にはすべて自ら経験したところである。私は農業国を工業国に変えることを中心に新中国を建設する重要な青写真のことを考えている。私が自ら了解している情況を話すことにしよう。
3. 劉少奇同志の新民主主義制度を強固(鞏固)にする構想
p.33 建国前後、劉少奇同志の新民主主義制度を強固にすることについての基本観点は、新民主主義革命成功以後、中国の国情から出発し、社会主義が実際の歩みを進める前に、一段の経済建設を経るべきであり、十分な物質条件を創造し準備してから、再び社会主義に向かうべきである、というものである。1951年3月、彼は第一次全国組織工作会議のために起草した「共産党員標準的八項条件」の中ではっきりと「新民主主義を強固にする」というスローガンを提出した。条件の第二条は「中国共産党の最終目的は、中国に共産主義制度を実現することである。(中国共産党は)現在は新民主主義を強化にするために闘争する。将来は社会主義制度に変化させるため闘争する。最後には共産主義制度を実現するために闘争する」(『劉少奇選集』下巻p.62)このあと少奇同志にはこのような文章はなく、いずれの報告でもこのスローガンを説明(闡明)していないが、その精神は彼のいくつかの言論中に一貫している。建国初期の経済建設の重大な政策決定を回顧するにあたり、この問題を語る必要があろう。
(1) 城に進む前の思索
新民主主義革命成功以後、いったいどのような国家を建設するのか? これは10月革命もそうだったが、革命が勝利したあとすぐに社会主義をするのか、あるいは一度新民主主義をするのか。私の印象では、我々の党が比較的に集中してこの問題を考えたのは、おおよそ1948年9月の政治局会議に始まり1949年3月の七届二中全会までの時間である。
中央政治局拡大会議は1948年9月8日から13日にかけて西柏坡で招集された。少奇同志は「新民主主義の建設問題に関して」報告を行った。この後彼は、12月25日華北財経委員会の会議で「新中国経済建設の方針と問題」という報告を行っている。
少奇同志のこの二編の報告中の観点は、概括するなら、中心となる思想は、民主革命勝利後、社会主義の実際の歩みをまだすぐに直接採用できない、というにあった。彼は言う。「過度に早く社会主義政策を採用することはできない。」「過度に早く資本主義を消滅させる方法は、「左」傾の誤りを犯すものである。」毛主席は彼の観点に賛意(賛同)を示した。少奇同志が政治局拡大会議で発言しているとき、とくに付け加えて言った。「一体いつ全面(全線)侵攻を開始するのか? おそらく全国勝利後さらに15年が必要だ。」つまり、毛主席は早くからこの問題を考えており、すでに筍の中に竹があった。当時党の中央のほかの指導同志も同様に革命勝利後いつ社会主義に転入するのが適当かという問題を皆考えていた。
少奇同志が過度に早く社会主義政策を採用するべきでないとする理由は以下のとおりである。
第一に条件が成熟していない。彼が政治局拡大会議で述べたところでは、五種類の経済成分からみて、国営経済の全国民経済に占める比重はとても小さく、「多くて10-20%である。」毛主席が口をはさんで言った。「資本主義工業のうちですら、完全に近代機器工業の生産量は多くて10-20%であり、国営経済だけでみてもこれより多くはない。」少奇同志は言う。「まさにこの部分の数量がとても小さいことから、困難はすぐに表れる。なぜ社会主義革命を実行できないかの理由もここにある。」
第二に、社会主義をするという意味は公有制を実行することにあるが、この方面で、ロシアで資産階級民主革命成功後、すぐに社会主義革命を始めたという経験は繰り返すことができない。彼は言う。「われわれは書物に頼る必要はない」中国の実際の階級関係から出発する必要がある。ロシアでは2月革命のあと、資産階級は完全かつ一方的に反革命の側に立ったが、中国の民族資産階級はそうではなかった。彼らは、帝国主義、封建主義、官僚資産階級の圧迫を受け続けてきたので、革命性を持つ一面がある。民族資産階級と我々は連合して反帝反封建闘争を進めてきて、信頼(感情)は一度も破裂していない。革命勝利後、我々の政権の性質は新民主主義で民族資産階級の代表人物に参加を求めている。それゆえ、我々はロシアにおけるようにすぐに資産階級をひっくり返して、生産手段(資料)の私有制を取り消す必要はない。
第三に客観的になお資本主義工商業が経済を発展させることをなお利用する必要がある。彼の考えでは、資本主義工商業は当時比較的大きな比重をしめていただけでなく、「目前の全国民経済中、欠けてはならない部分であり、その適切な発展は、国民経済にとっても有利である。」全国民経済を発展させるためには、国計民生の資本主義工商業の発展は許されねばならない。新民主主義経済を建設するために、我々と民族資産階級は少なくとも「10年15年一緒に働くのだ(搭伙)」もしも過度に早く消滅させれば、消滅させたあとにもう一度来てもらうこともありうる。
民主革命が勝利したあとには、一つの過渡段階が必要である。それは過渡段階ではあるが、ある程度過渡的特徴を備えないことはできない。たとえば、この段階は矛盾と闘争に満ちている。資産階級に対する限定された闘争と限定に反対する闘争。過渡から社会主義かあるいは過渡から資本主義かの闘争。新民主主義はすでに社会主義の要素をもち、また資本主義の要素ももつ、「これは一種の特殊歴史状態である」。しかし社会主義成分はとても小さいものの、指導的地位にある。民主主義経済のなかで、基本矛盾は資本主義経済成分と社会主義経済成分の矛盾であり、この矛盾がいかに処理されるかについて、劉少奇同志は「経済競争」を通じての解決を主張した。彼はこの競争において、無産階級に手中に指導権があり、かつ(無産階級は)国家の主要経済生命線(經濟命脈)を掌握している、指導が適切なら必ず勝利を得得ることができると考えた。しかし「決定的なものは小生産者が賛同するか否か(相背)であり、小生産者に対しては最も慎重な政策をとらねばならない」。彼は言う。「単に小生産者に土地を与え、ただ指導権さえ与えるだけでなく、さらに進めて彼らに程よい生活(小康之家)を与えねばならない」と。合作社(主要には協同消費合作社:供銷合作社)の形で彼らを団結させよと。「合作社は労働人民の集団経済と国家経済の結合であり、同盟を作ることであり、社会主義に向かうものである。」
毛主席は少奇同志のこの分析を基本肯定した。毛主席は少奇同志の講話中、絶えず口をはさんで自身の観点を補充し説明したほか、総括発言の中で以下のように述べた。「新民主主義と社会主義問題について少奇同志の発言分析はとても具体的でとても良い、二つの段階の過渡についてもとてもよく話している。各同志は中央局に戻ってからこれらの点を宣伝してよろしい。」毛主席はさらに、この問題はなお一歩思考分析が必要であるとして、少奇同志に文書作成の準備・起草をお願いして、党の七届二中全会上の討論への提出を指示された。
(中略)
4. 物価を抑制し、財政経済を統合する
p.48 新中国創立前後、党中央と毛主席の指揮のもと人民解放軍は全国に向けて進軍を続けたが、(この時)押さえるべき今一つの大事は、経済工作の指導機構を設立(建設)して、全国の財政経済(財経)を統一し、多年にわたる通貨膨張の抑制(制止)に努め、社会経済の安定(穏定)を実現することであった。これは我々の党が国民党政府を覆して全国政権を掌握する過程で直面した新たな課題であり、また我々の党にとり執政能力の最初の試験(考驗)であった。国内外の敵対勢力はみな我々の失敗を期待し、「共産党はすぐに天下を得ることはできても、すぐに天下を治めることはできない」といった。我々の友人の中にもまた我々の国を治める能力に疑問を表明する人はいて、「共産党が事を始めるのと、それを上手く進めるのは別のことだ(共產黨打天下容易,治天下難)」といった。我々からしても、これまで28年主として革命戦争をしてきたので、経済工作にはとても不慣れであることは、事実だった。しかし28年の歴史が物語るように、我々の党の前にあるいかなる現実的困難であれ、克服できないものはない。毛主席はかつてまさに上述したような言い方に対して楽観的に次のように答えていることが、記憶されてよい。「事を始めることもまた容易ではない、それを上手く進めることも容易でないなら、出口がないのではないか(打天下也并不容易,治天下也不是難得沒有辦法)」果たして、1年経たずして我々は通貨の膨張を基本的に抑制し、経済をまたともかくも安定させ、併せて新中国の経済管理体制の基礎を固め、国民経済を次第に回復にさせ発展の道路に引き上げたのである。この事実が国内外に向かって以下のことを示すものである。我々には人民が政権を奪取することを指導する能力があるとともに、人民が国を治め国家を安定させることを指導する能力もある。なぜか?道理はとても簡単で、我々の党は人民の利益と要求に沿って政策決定を進めるからである。唯物弁証法に沿って事を進め、各時期の具体実際情況に合った政策と措置を採用しているからである。我々の党は全党が統一された思想、統一された行動に依拠しており、全国人民の広範な支持のもと、積極的に工作を進めているからである。我々がこのようにしている限り、我々の闘争は必ず勝利することができる。