胡耀邦 出生から毛沢東を遠望するまで 1915-1927
胡耀邦の経歴でまず記憶されるのは、まだほとんど子供のときに中共の軍に従軍したことと、ところが従軍して間もなくAB団と疑われてあやうく粛清されそうになったことである。であるがここでは胡耀邦が毛沢東を文家市で初めて遠くに見た1927年までを書く。毛沢東が1927年、長沙に軍を進めないで文家市から南下したのは有名な話だ。軍事力の大きな差があることから賢明な判断ともいえるし、このときの幹部の指示とは違った判断をしたことは規律に反しているようにも見える。いずれにせよ、その決定的な現場に胡耀邦は立ち会ったのである(写真は根津神社庚申塔 2020年7月26日)。
胡耀邦傳 人民出版社/中共黨史出版社 2005年 1-14
陳利明 胡耀邦從小鬼到縂書記 修訂版 2015年 1-17
満妹 回憶父親胡耀邦 2016年 56-61
かれは1915年11月20日(胡耀邦傳による 陳利明は11月30日としている 滿妹から分かるのは家譜には11月30日と書かれていることだ)、湖南省劉陽県蒼坊村の農家の生まれである。耀邦の名は伯父にして読書人の胡祖儀がつけたとのこと。胡氏は北方民族に追われた中原から移り住んだ客家に属するとのこと。その父の胡祖倫(1882-1954)は8歳の時に母を失い、14歳のときに父を失って、14歳にして両親を失っている。父方伯父(父の弟)の胡成檻が彼を養い、弟や妹は父の兄が引き取った。とはいえ、胡成檻が胡祖倫の早い独立を望んだこともあり、胡祖倫は18歳にして農家の娘劉明倫(1882-1967)と結婚している。
彼らは12人の子供をもうけたが7人は夭折し、3男の耀福、4男の耀邦、長女の石英、三女の菊華、五女の建中が育つことができた。胡耀邦は12人の子供のなかで9番目なので、両親はかれを九伢子(九番目)と呼んだ。胡祖倫が所有する田畑は数ムーに過ぎず、税は多く、災害も頻繁だったので、胡祖倫は毎日早く起きて、モッコ(籮筐)を担いで、文家市の郊外に行き50キロの石炭を運ぶことで、カネを稼ぐほかなかった。
胡耀邦は、貧しく子沢山の家庭にあって成長は遅かったが聡明だった。胡耀邦はまず胡の一族で運営している私塾で1920年、5歳から教育を受けることができた。ここで胡耀邦が優れていることがわかったので、私塾の先生でもある遠縁の伯父の胡祖儀は大変喜び、隣村の私塾でさらに学ばせた。1922年は胡祖儀が出していた新式学堂の開設の願いが認められ、胡耀邦はそこで1926年11歳まで学び初等小学校を終えた。そして文家市内の高等小学校に進んだ。学んだ学堂は礼文(現里仁)学堂(国語、算術、歴史、体育、音楽など。1927年には三民主義など政治を教える訓育課が加えられた)である。学費は一族からの支援があるものの、登録費用は必要であり、文家市までは片道10キロ(片道13キロ 往復20キロあまり)あった。両親、本人とも、この進学には多大な労力がかかったが、胡耀邦にとり開眼の大きな機会であった。
ところで革命運動は胡耀邦が住んでいた劉陽県にも押し寄せていた。1926年には劉陽県には21の農民協会があり、父の胡祖倫、母の劉明倫、兄の胡耀福は農会の幹部であった。革命の渦潮の中に、この胡耀邦の住んでいる地域は完全に入っていた。高等小学校の教員の中にも党員がおり、胡耀邦も学校でパンフレットや進歩的雑誌に触れる機会があり、1926年後半には積極的に宣伝組組長として、学外に打倒列強、打倒帝国主義、打倒土豪劣紳などの標語を書きに学校からくりだしている。
1927年4月、蒋介石による上海政変で、事態は一変する。湖南もその例外ではなく、農会の幹部への迫害がはじまり、礼文学堂も閉鎖される。これに対する、共産党側の反対ののろしが南昌で起きた八一起義である。国民党軍による弾圧に対して、湖南では、劉陽を含む地域で、農民や労働者たちにより革命軍がおこされた。そして当時革命軍は長沙への進軍を予定していた。しかし軍備の圧倒的な差から、毛沢東は長沙への進軍をやめて、劉陽県文家市への進軍を決定する。
ここで毛沢東は9月20日(陳利明は9月19日早朝とするが満妹も9月20日早朝としている)、礼文学堂の運動場において、工農革命軍1500余名に向かってこれを鼓舞する演説を行った。他方、胡耀邦はこの革命軍をまじかに見ただけでなく、遠くに毛沢東の姿を見ている。胡耀邦はこのときまだ12歳である。興味深いことに、胡耀邦は幼くして重要な現場に立ち会ったのである(このあと毛沢東が率いる工農革命軍は井岡山に向かう)。
なおその後、劉陽は再び国民党軍に占領され、共産党の活動は地下に入ることになった。