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十四年(1979-1992)商業体制改革回顧 1993/03

書誌事項は次のとおり。萬典武《十四年商業體制改革回顧》載《商業經濟文藝》1993年3月pp.22-25
比較的実務的な側面が書き込まれているので、参考までに全文を訳出する。

p.22   14年間の商業体制の改革をいかに概括、評価、総括するかは複雑な問題である。というのは14年の改革の内容はきわめて多く、変更の起伏があり、時間の幅も大きく、いくつかの改革は今実施中でなお(評価が)定まっていないからである。我々は中国特色のある社会主義理論を建設することに従い、今一歩思想を解放し、全面的発展的弁証的観点から記述を進めよう。
 14年にわたる商業体制改革はおおよそ3つの段階に区分できる。
 第一段階(1979-1985年)、改革措置が実施されその効果は顕著であった。
 商業体制改革の主要措置はおおむねこの7年に制定実施されたが、主要には6つの方面である。
 (一)所有構造(結構)が調整され、次第に多様な経済要素が併存する形式(格局)が作られた。党の十一届三中全会後、改革開放方針が実施され、所有制構造は調整され、集団そして個人商業は、勢いよく(積極)回復発展した。数年の調整を経て1985年に至ると、4305億元の社会小売販売高の中で国営は40.4%を占めたが、これは1978年比で50.1ポイント減である。集団(供給販売社:供銷社を含む)は37.2%を占め、1978年比で29.8ポイント増であった。個人商業は15.2%を占め、15.1ポイント増加した。農民交易(貿易)は6.8%で4.8ポイント増だった。このほかに中外合資商業が0.3%を占めた。この1年で個人商業者はすでに1220万人に達し、市場交易、都市の農民交易市場、各種類の専業卸市場、小商品の卸市場そして新たに始まった集団、個人商業はそれぞれ一定規模に達している。実践が証明したことは、これらの多種多様な経済成分が併存する商業形式は、生産発展促進、都市と農村の物資の交流、経済効率の向上、人民生活の改善の改善に役立つということである。
 (二)商品の販売形式と買い上げ政策が改革された。1983年にまず糧食に対して様々な経路の経営が実行され、1984年に綿花の統一買い上げ(統購)が廃止され、同時に綿布、綿花の統一売却も停止された。同年にさらに豚肉の派遣買い上げ制度も廃止され、多くの都市では、豚肉、鶏卵、水産品、生鮮果物野菜の市場が自由化(開放)され、多数店舗経営(多家經營)が実行された。1985年までに都市住民の食糧と食油を除き、配給券(憑證)で定量供給されるものを除き、そのほかの農副産品はすべて自由化され、1953年に実行が開始された統一購入統一消費制度は、基本的に改められた。工業品については、統一購入、統一消費、販売請負制度の改革は、商品の具体的情況により、それぞれ、統一購入、計画購入、代理販売など多様な形式が採用された。計画商品は1982年の180種余りが1985年には23種まで減り、市場調節は大いに拡大した。
 (三)企業自主権の拡大と、政治と企業の職責分離(分開)の初期的試行。1980年に商業企業のごく一部で起業自主権拡大の試みは、効果が顕著だった。その後、試行の地点は拡大され、同時に企業に対し経営権、財権、労働人事権の試行規定を拡大する企業が、一定の効果をだしているのに向き合うことになった。1985年に商業部は一ランク下放の所在地を下げ、同時に販売総会社は内部の編制を改めた。大多数の省(市、自治区)は相応の改変を行った。全体としてみると、企業自主権拡大と政治と企業の職責の分離措置は、取られた措置の方向は正しく、継続的に深化改善されるべきである。
 (四)商業企業の管理体制が改革された。この数年の商業企業管理体制の改革内容は豊富である。一つは、大中型商業企業は経営請負責任制を実施(実行)した。1984年に国務院は大中型国営卸売、小売企業に経営請負責任制実施を確定し、企業経営管理の改善と経済効率の引き上げを促した。二つ目は小型国営商業企業に対して、1983年から「改、転、租」の政策が実施された。各地の試行地点から見て、財政、税収、労働保険など関係政策が措置されず、地方によっては停滞が生じた。三つ目は少数の大型商業企業は株式制を試し始めた。1984年7月に北京天橋百貨股份有限公司が成立、これは全国で初めての株式会社(股份公司)である。実践が証明したことは、
p.23   この種の形式は企業経営メカニズムを完全にするうえで重要な役割がある。(股)我が国の国営商業企業組織の発展方向を示している。四つ目は、農村供給販売合作社の「官営」から「民営」への転換である。まず1983年に供給販売社は全民所有制経済から集団所有制に改められることになり、三つの性質(組織上の群衆性、管理上の民主性、経営上の活発性)が回復し、国家、供給販売社、農民群集の関係が正しく処理された。農民が持ち分を持って参加、それぞれの責任をもって経営、制度の制約のもとで労働分配を受ける、集団経済の特徴を持つ経営管理体制の供給販売社が建設された。第三に農村経済発展のため、供給販売社は次第に農村経済総合サービスセンター改められた。
 (五)商品市場システムの探索が始まった。この方面での重大な動きは1984年国務院が交易(貿易)センターの設立を確定して、もともとの密閉式分配式の体制を改め、卸売体制を促進したことにある。各地で試行が続くななか、卸売流通を活発化させるための経験を蓄えようと大量の工作が行われた。しかし種々の原因から、とくに交易センターの性質、特徴、役割などの認識上の差異と経験もなしに一挙に進めるやり方(一哄而起的做法)から、交易センターはセンターになりがたく、改善と整頓が急がれることになった。
 (六)商品価格の調整を次第に進め、商品価格管理体制を改革したこと。この7年間、商品価格調整と価格管理権限を企業に下放する方面では、大量の工作が行われ効果は顕著であった。1979年にまず。糧食、食油などの買い入れ価格が大幅に引き上げられた。平均引上げ幅は22.3%。加えて買い入れを上回る部分の上乗せもあったので、農民の収入は増加した。工業消費品では綿布は引き上げられ、化繊布、ポリエステル布(滌綸布)の価格は引き下げられた。いくつかの商品の地区、質、季節の価格差や品種間の価格の違い(比價)が調整された。1985年には農産品の価格の小売価格がの一部が調整かつ自由化された。同時にいくつかの二類商品と大部分の三類商品、関連経費(服務収費)破損(残存)商品処理などの価格権限が次々に企業に与えられた。全体としてこの7年の価格調整は成功したものであり、物価の基本安定を保持できたし、市場に震動を引き起こすこともなく、農民の収入を増加させ、生産を促進、市場を豊富にするように積極的に作用した。
 第二段階(1986-1988年)成果を急ぎすぎ、通貨は膨張、商業改革は停滞(徘徊)した。
  まさにわが国の経済改革が一歩一歩前進して顕著な成績を得ていたそのとき、成果を急ぐ政治指導と、「赤字無害論」「通貨膨張有益」などの誤った指導により、深刻な(厳重)通貨膨張が出現した。1988年全国小売物価指数は前年に比べ18.6%上昇、この1年換物フィーバー(重物輕幣的搶購風)は4回出現した。当然、深刻な通貨膨張はこの年に限られた問題ではなかった。1984年第四四半期盲目的な貸付拡大は問題を覆い隠した。1984年には10項目の緊急措置が取られ(外国為替で輸入家庭電器を手配すること、金で金ネックレス作りに用いる、などを含む),小売物価総指数を2桁以内に抑え込んだ(上昇率8.8%)。1986年にはまた一連の「軟着陸」措置が取られ、ちょうどいささか緩み小売物価指数上昇は6%、1987年は7.3%上昇だった。しかし急いで成果を得ようとする思想(急於求成的思想)は未解決で、経済過熱の勢いもまた改まらず、盲目的なインフラ建設が続き、財政収支は数年継続して不均衡、貨幣の発行は過多で、1988年に市場は全面緊張に至り、社会の総供給と総需要は大きく均衡を失い、物価が猛烈に上がった。
 ”忘れがたい”1988年はすでに過去であるが、我々は真剣に次の教訓を学ぶべきである。通貨膨張が全国民経済と経済改革に及ぼす害(危害)を重く認識すること。まず、国民経済全体からみて、通貨膨張は、生産、分配、交換、消費のすべてに害がある。次に経済改革からみてその害はまた明らかである。第一に通貨膨張は人々の改革の意見を歪んだものにする(侵蝕)。通貨膨張が出現後、各種の社会経済病態が沈んだものが舞い上がった(沉渣汎起)、官僚を倒せ、私人資本を倒せ、賄賂のやり取り、権益をお金で取引することがどこでも見られる(屢見不鮮),社会風紀の腐敗、加えて社会分配の不公平は、人々の改革意識を薄めてしまい、改革の信念と勇気を弱めてしまった。次に通貨膨張は改革を遅らせる(徘徊)。その前数年間の価格改革は効果が顕著だった(卓有成效的)が、通貨膨張は多くの商品を相次いで高騰させた。不合理な価格比較や、価格差、揺り戻しは、構造的な価格調整の成果を台無しにした。商業部門は市場の波動に対応するのに終日忙しく、改革措置は足踏みせざるを得ず、一部の行政部門は再度企業干渉に手を染めざるを得なくなった。第三に通貨膨張は、新たな改革措置の登場をできなくした。例えば誰もが知っている価格改革は1988年後半に一挙登場の予定だったp.24   が、実施されなかった。
   第三段階(1989-1992年)整頓整理(治理整頓)の効果顕著、改革の継続発展
 (一)整理整頓の効果顕著。1988年9月、党の十三届三中全会は、当時我が国が直面した厳しい経済情勢(形勢)に対して科学的分析を進め、経済環境を整え(確定了治理)、経済秩序を整頓し、指導方針を全面的に深化した。1989年後半、党と国家は財政と貸付をともに緊縮する方針を実行し、インフラ建設の規模を縮小し、産業構造を調整し、銀行の預貸利率を引き上げ、産業を区別して貸付には傾斜政策を採用した。真剣に各種類の公司を整理し、市場管理を強化し、法制を厳格にし、投機に打撃を与え、汚職して法を曲げることは処罰する(懲治貪賍枉法),偽物や質の悪い商品は取り締まる、「商品質量万里行」活動を進めるなど、この2年余りの間に、過大な社会需要を圧縮、基本的には経済過熱を納め、通貨膨張を抑止し、物価の相対的安定を取り戻し、市場は充実、人心安定の明らかな効果が得られた。1990年に全国小売物価総指数は前年比2.1%上昇、1991年は2.9%上昇だったが、この成績(を得ることは 訳者補語)は確かに容易ではなかった。
 (二)商業体制改革の深化を一歩進めた。整理整頓とと同時に、1990年後半以来、商業体制の改革は以下のいくつかの方面で推進された。
 1. 価格改革を深くまで進めた。1990年9月以来、我が国の価格は10余りの項目で大規模な調整が進められた。例えば鋼鉄、銑鉄(生鉄)、石炭(煤炭)、有色金属、交通運輸、郵便費用(郵資)、食塩と塩化工業製品、糧食、油料、紡績品、たばこ(烤烟)、糖料、洗浄用品など、この1年の調整金額は500から600億元に達した(過去1年の調整は一般に100から200億元)。統計にょれば、1992年国家物価局と関係部門が管理する生産資料と交通運輸の価格は、1991年末の737種が89種まで減少した。全国社会商品小売額中で国家が価格を定めるものの比重はわずか20.9%であった。大量の価格調整が波乱を引き起こさなかったことは、確かに喜んでよい(確實令人欣慰)。
    2. 商業企業のメカニズムの転換は新たな段階を迎えた(有了新的突破)。1991年に重慶市が率先して推進した、商業企業の経営、価格、雇用(用工)、分配の四つの自由化(“四放開”)を組み合わせた(配套)改革は、全国の関心を引き起こした。この四つの自由化(四放開)は当面する企業改革に共通する問題を一度に突破するものだった。第一に重要なところをつかんだのである。四放開はもっとも難しいところをしっかりつかんだ。雇用と分配においては「鉄鍋飯」「大釜飯」が突破され始めたのは、企業メカニズムの転換に新たな経験を提供することになった。第二に組み合わせをつかんだのである。重慶市は市委員会と市政府の統一指導のもと、関係する総合部門が「四放開」中で一斉に行動、同じ歩みで組み合わせ改革を進めた。労働部門は改革に、雇用と分配制度とともに四放開を結合した。第三に解決策をつかんだこと。上がマクロ観が一致しない部署から、下は企業の無能を疑わない(不怪)ものまで、市場内で主動的に鋭意解決策を作り運用した。もしこの種の解決策がなかったなら、組み合わせ政策もつかめなかった。中国はマリに大きいため、マクロ的解決策は容易なことではなかった。しかし経済は発展せねばならず、企業は活力をふやさねばならず、職工は生活を改善せねばならなかった。ただ中国特色のある社会主義理論に根拠を置くことで、改革開放の方針は、実際から出発し、大胆に探索され、新たな経験を創造した。国務院はすでに重慶の「四放開」の経験を肯定しており、多くの地方が次々と真似をしており、企業メカニズムの改革を一歩ずつ前進に向けて転換させている。
 3. 国営商業の組織化程度を高め、共同体組織全体(群体)の効率を改善したこと。この前の数年の改革の中で、商業企業は多くの面があり、サービス労働が主である特徴があることから、単一企業の自主権を余りに重視して、その積極性を重視したため、小予算単位を過度に重視する面があった。これらの問題は、経済改革の大きな背景から考察すると、必然的に国営商業のグループとしての優勢や規模の利益を削減して、規模の小さな所有制とすることになった。連携に向かうことの欠如から、場所を分けることを優先して(畫地為牢)、地区の局部利益を求めて、商業のネットワークや合理的配置、商品流通の正常な運航を妨げるものが現れた。国営商業の組織化程度を向上させることで、協同組織全体の効率を改善しようと、多くの地区で改革が着手され進行した。一つは大型店や有名店を核に、連合して企業集団が創られた。上海新亞飲食服務集団、大連食品集団などは成功した実例である。二つ目に中小型企業では連合経営、チェーン化、共同購入で規模の利益(效益)を求めるもの、あるい法人化により株主化する道を選ぶものもあった。三つ目に、県クラスの商業改革で、遼寧市の瓦房市商業局、湖北石首市商業貿易公司などは
p.25   すべて一定の成績をだした。生産要素の再組織を実現、県クラスの国営商業の共同体組織全体の優勢の発揮に注意し、経済効率も良好、かつ組織構造、経営構造の調整も一歩進めた。四つ目に商業企業の株式制試行箇所を範囲を拡大した。1992年前半までに全国商業企業の株式制試行箇所は、1986年の数社から150余社まで拡大した。各地でやり方は異なるが、いずれも株式制の長所(功能)を利用して、企業組織形式の改革と企業メカニズムの転換に有益な探索となった。
 14年の商業体制改革を縦観すると、経験したことは多いが、まず認識されるのは以下の点である。
 (一)14年の商業体制改革は、波乱、停滞もあったが、全体として見れば、鄧小平同志が創った(建設)中国特色のある社会主義理論の指導のもと、改革開放の方針を実行し、市場へと向かう方針を堅持し、伝統的な高度集中計画経済体制の束縛を突破し、市場調節、市場メカニズムを積極的に利用、社会主義市場経済の方向を向き続け、着実かつ積極的に商業体制の改革を進め、成績はきわめておきかった。この14年の商業体制の改革は、工農業生産の発展を力強く促し、国家の経済建設、総合国力、人民生活をいずれも一段上に引き上げた。我が国のその前30年の伝統体制、いくつかの社会主義国家の改革の失敗、同一時期の多くの先進資本主義国家の経済成長速度、と比較して、すべて事実をみて(実事求是により)肯定される14年の商業改革をその他の改革と同様に、我が国社会主義制度から生まれた自身を完成する強大な生命力を充分に示している。
 (二)改革において事実を見ることと実践を真理の唯一の標準することを必ず堅持せねばならない。改革には緊迫感をもって、勇ましく推進開拓に必要がある。我が国の基本国情と国力を根拠として、実際から出発し、改革の巨大性複雑性を認識し、すべては試行を通じて経験を得る必要がある。主観願望から出発してはならない、綿密でない、事を急ぎすぎる、一刀のもと、いずれも笑いものになるだけである。多様な経済要素が次第に形成されるというのと交易(貿易)センターの変化の激しさとは、正反対のものの典型である。
 (三)経済の全体的情況と商業の弁証法的関係は密接に注意されねばならない。経済全体の過熱あるいは通貨膨張の出現は、その他関連部門の歩みに異なる影響を与え、商業体制は改めようとして改まらず、悪く改まった。当然また商業体制改革は経済全体とその他関連部門の改革に影響することを見るべきだ。商業は主体性を発揮すべきで、改革項目をしっかりつかみ、有効な措置を取れば、小さいものも積もれば多くなり勝利につながる。1986年後、特に整理整頓期間、商業部門は待って情況を見るものが多く、意思は頑強だが(堅忍不拔)、積極性は今一つだった(勁頭不足)。たとえば請負制、リースの深化完全化の進展は大きくなかった。株式制の試点は、工業部門とは違い、遠かった。
  (四)社会主義商業体制改革は歴史に前例がないほど複雑な体系的工程である。それぞれの重大な改革措置ごとに、理論根拠は必須であり、生産力の発展、総合国力の増強、人民生活の向上に役立つか、社会主義市場経済の建設、段階的改善に役立つか、を見なければならない。実際の調査研究を通じて、理論的検討を通して、異なる観点での討論、一定範囲で試みて経験を得る、(こうした)民主的科学を用いた政策の決定が望まれる(十分必要的)。(作者単位:商業部商業経済研究所)


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