中国:改革開放前の銀行 1949-1978
李志煇《中國銀行業的發展與變遷》格緻出版社2008, 9-12(写真は伝通院山門 2019年12月28日)
改革開放前の中国銀行業は百年にわたる雛形(初期の)発展のあと、忽然と(悄然)形成され動作を始めた。各時期の経済主体に必要なサービスを提供することと、自身の発展モデルの模索と選択とを。ただしいつも政府の司庫(政府の金庫)にとどまるというこの狭い役割のなかで。
中国の貨幣と信用は上古の時代に始まる。銀銭業の記載は遅れるが、早いものには南北朝時期の寺廟での作物を担保としての典当業(質屋?)の記録がある。金融機構の最初の役割は、大きな財産の保管にあり、古代には司庫すると称し、それはそのための庫所を建設し、政府あるいは民間の貨幣と実物財産の安全を保証する専門の人員を配備し、その数目を調べ統計を作り、その交付支出を管理した。宋、元、明、清の商品経済の発展に従い、貨幣それ自身を預けて一種の商品のように経営して利益を出す活動が始まり次第に活発になった。
中国の貨幣銀行のひな型として, 近現代中国社会経済の状況により各種の金融機構はたとえば典当業、銭庄、票号といったものが前後して栄え、一時は繁栄した。ただ等しく経済社会の条件の変化に合わなくなり歴史の舞台から退場した。そうした中で政府の影響はかなり重要で、一部の金融機構の存亡は完全に政府の意思にかかっており、政府の司庫の地位を超えることはなかった。近現代の中国の各種の形式の金融機構が衰え、封建社会経済基礎による長期的制約があり、中国に古くからある銀銭業組織経営が時代の変遷に応じて発展できなかったことから、(中国は)その原始蓄積を現代銀行業に転化することができなかった。これをまとめるに中国銀行業は、初期の発展と同時に受けた内外の阻害、(そして)金融の役割は政治の役割に附属するところに埋没したことから、政府の司庫この狭い役割を演じてきたのである。
建国以来改革開放前の中国銀行業の発展はおおよそ三段階に分けることができる。すなわち1948年の建国前夜金融制度が選択され中国人民銀行の創建まで。1949年から1952年の間、新中国国家銀行体系が建設される間。そして1953年から1978年の計画経済体制の国家銀行(の時期)、すなわち”大一統”銀行体系の形成および動作。
新中国が成立して間もなく、全国にはただ中国人民銀行一行があるだけで、いくつかの銀行は名義上存在しているが、これらの銀行と金融機構は実際上は独立しておらず,真正な意味で銀行業務もなかった、中国人民銀行は中央銀行と商業銀行の二重の職能を有し、貨幣を発行し、国庫の経理、金融管理など中央銀行の職能を行使するほか、貸付、貯蓄、収支(結算)、外国為替など商業銀行業務に従事し、金融業の中で高度に独占的であった。全体として見て、当時中国の銀行体系は単一式の銀行体系(モノバンクシステム)であったが、中央銀行制度の角度から言えば、複合的中央銀行制度であった。この種の制度の形成は、新中国建国初期のマクロ経済環境、国家職能定位の歴史経路そして、マルクス主義の古典が金融制度の設計したところなどによるが、ありうべき最良の選択は(最良の選択をしたことがあるとすれば)、交易が減少する過程での貨幣需要量を短期信用に集中することで、統制が可能な範囲内にしたことだった。1948年から1952年の国民経済回復時期、中国人民銀行は中央人民政府の統一指導のもと、統一的銀行体系をつくりあげた。1955年2月1日、全国の公私合営銀行が当地人民銀行貯蓄部に併合された。1956年末に対農業、手工業、資本主義工商業の改造が基本完成したあと、単一の公有制の構造を作り、併せて国有部門の国民経済における主導地位を確立した。1956年3月25日中国農業銀行が設立されたが、1957年8月1日、中国農業銀行は解消され、中国人民銀行内に設けられた農村金融管理局に併合され、全国農村金融業務は統一管理された。すなわち(こうして)”大一統”銀行体系は動き始めたのである。
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