見出し画像

胡耀邦 冤罪を正す 1977-80

 黄峥《刘少奇冤案始末》九州出版社 2012年
 陳利明《從紅小鬼到總書記  胡耀邦》人民日報出版社 2015年
 《胡耀邦》北京聯合出版公司 2015年
   罗平汉《墙上春秋 大字报的兴衰》中共党史出版社 2015年

  胡耀邦は1977年12月10日、中央組織部長を拝命する。中央党校副校長のポストはそのまま兼務である(写真は成城大学1号館中庭)。さらに1年後には、中央党校副校長、組織部長のままさらに中央秘書長、中央宣伝部長を兼任している。この中央組織部長として、行ったことは、極めて多くの冤罪事件の解決である。
 この冤罪事件の解決を進めたからこそ、この時期の中国共産党は、前に進むことができた。逆にこれらの冤罪を放置したままでは、前進はむつかしかったであろう。文革前の反右派運動では50数万人、文革期には数百万の冤罪事件がつくりだされた。ところが、1975年6月に組織部長に就任した郭玉峰(1919-2000)は、1977年に入っても、冤罪や待遇の見直しを求める老幹部の要求を取り合わず冷淡だった。これに激怒した老幹部たちが、1977年春 組織部の壁に郭玉峰を批判する壁新聞を張り出した。郭玉峰もこれに怒ったことだろう。陳によると、この壁新聞を破って、人民日報社に送り付け、あるいは背後に胡耀邦がいるとして、壁新聞の一部を胡耀邦宅に届けた(なお罗によると組織部の書記や幹部が、組織部で問題が起きていることを訴えるために、胡耀邦や人民日報に壁新聞を送り届けたとしている。不祥事であるので、こちらの方がありうる話に思える。)。
 胡耀邦は郭玉峰の態度に怒って、火に油をつけたのはわたしたちではない(我们不下油锅,谁下油锅)といったとされる。人民日報編集部でも郭玉峰の行為を問題にして、大字報の内容をまとめて、中共中央に届けるに至った(1977年11月末頃と思われる)。そもそも郭玉峰は康生によって、文革中に出世した人物、文革中の多くの冤罪事件で康生側に加担した人物で、この人物が組織部長にとどまっていたことがそもそも問題だった。郭玉峰が組織部長になった1975年6月は、まだ毛沢東、四人組とも健在だった時期。毛沢東がなくなり四人組が排除されたのは76年10月6日夜。いったん排除された鄧小平が職務に復帰するのは1977年7月の十一届三中全会。噴き出している不満をみれば、郭玉峰問題を放置できないことは明らかだった。
 中央は郭玉峰をただちに解職、そしてこの間、冤罪事件の解決を訴えていた胡耀邦を組織部長に任命したのである。組織部へ胡耀邦の出勤開始は12月15日。胡耀邦はまず、組織部は党員の家、幹部の家にもどるべきだとして、来訪者を歓迎する体制を指示。他方で、大量の訪問者に自ら対応して、率先しておびただしい数の冤罪案件の処理にあたっている。
 中央から地方へ、文革中、反革命とされた案件は28000件あまり。1978年末までに再検査されたものは24%(計算したところ6740件)。また別の統計では、中共中央が1980年までに名誉回復を認めた影響の大きな誤っていた案件は30件あまり、全国で約300万の幹部についての誤った処分案が正され、47万余りの共産党員が党籍を復籍し、その周辺の数千万の無実の人々も冤罪がはらされることになった。
 1978年春には、文革以前に反右派とされた人々の再審査が日程にあがった。全国で55万人あまり。すでに1964年までに右派帽子を外されたものは30数万人。なお10数万人が右派帽子をかぶせられていた。これについて誤って右派としたものは正すという方針で1980年までに54万あまりの人々が、右派の区分から正されることを得た。朱鎔基、費孝通などはこのとき復権した人たちである。またこの措置でなお、復権されなかった人たちがいることもしばしば問題にされる。

 胡耀邦主導で行われた名誉回復の主な案件に以下がある。
 1978年12月、中共十一届三中全会前の中央工作会議で組織部調査報告を批准し、中央がこの報告に同意を表明する通知を出して、関連部門に伝達を求める形で名誉回復が図られた、61人案件。
 1978年12月の中共十一届三中全会で誤った結論を正すことを決定した陶鋳(1908-1969)の案件。1978年12月24日、人民大会堂で追悼会が行われている。
 1978年12月の中共十一届三中全会で徹底した名誉回復を受けた張聞天(1899-1976)の案件。1979年8月29日陳雲主宰、鄧小平弔辞のもと追悼会が実施された。
 劉少奇(1908-1969)の案件は明らかに遅れた。1978年12月24日、鄧小平は劉少奇の名誉回復を求める手紙を受け取り政治局同志に閲覧を、組織部には研究を求めている。この時点で胡耀邦自身が判断する十分な材料がないとして慎重であった。1979年2月5日、国家地質総局局長の孫大光(1917-2005 1964-75まで交通運輸部長の職にあった)が胡耀邦と中共中央に書簡を送り、劉少奇の再審査を求めた。ここで胡耀邦は華国鋒ら中央と相談、2月23日の返信で組織部、中央規律部合同の審査開始を通知している。
 劉少奇の名誉回復は1980年2月の中共十一届五中全会での決議による。1980年5月17日北京、人民大会堂で1万余りの人々が参加して追悼大会が行われた。鄧小平が弔辞を述べている。

#劉少奇 #胡耀邦 #鄧小平 #反右派運動 #文化大革命    
#反右派 #反右派闘争 #成城大学キャンパス


main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp