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工業は大慶に学べ 1964

(劉小榮《1966-1977年的天津》中共黨史出版社·2011年 pp.52-72, esp.53-54,70-72   写真は新幹線車窓より富士山 2019年11月17日朝)

   1959年9月26日、松遼(スンリアオ)盆地で大慶(ダーチン)油田が発見された。中共中央、国務院は1960年5月から大慶油田の戦いを始めた。石油工業部では全国の30余りの掘削場、教育機関の4万あまりの職工を集中し、7万トンあまりの器材設備を徴収して、戦いの核心地帯である薩兒圖(サエルト)に一斉に集めた。ここはかつて満族貴族が遊牧の地として相続(世襲)してきたところであった。1960年春、サエルトは遊牧民のパオと牧場があるだけで、春とは言え気温はなお零下30度前後であり、大地はなお1mを超える凍土層でおおわれていた。数万の人馬が突然到着し、職工たちに住居も床もなく、牛小屋、馬小屋、地下室(地窖)、あるいはただちょっと仮に布で屋根を作っただけの場所(臨時帳蓬)が仮に人の住むところとなり、多くの人にはただ風をしのぎ雨を避ける施設さえなく、ただを天を仰ぎ地を床として、大草原で夜を過ごした。一日の食事はおかずは乏しく、煮炊きする炊事道具も十分でなく、多くの職工が洗面器(臉盆)をお湯を沸かし飯を炊くのに使った。当時、油井や作業場は分散しており、3-5人の小さな分隊で作業は進められ広く荒野に散開(撒遍)した。生活用品、設備機材も十分でなく、支援隊も当てにならず、連絡も途絶えがちだった。しかしそれでも人々は動揺することなく仕事を続け、晴れの日は仕事を急ぎ(搶晴天)曇りの日は戦うようであり(戰陰天)小雨の日は大いに働き(小雨大幹)大雨の日は猛烈に働いた(大雨猛幹)。生活、生産、自然条件方面の数々の困難を克服する方法を考え抜いて(想法設法克服)ただ1日もはやく大油田にたどりつくことに心を一つにした。(中略)石油工業部の数万の職工たちの松遼盆地での3年あまりの困苦奮闘により大慶油田は開発された。大慶油田の戦いの成功は中国石油工業の発展を実現する歴史的出来事(歴史性転変)であった。1963年12月3日全国人大二届四次会議において、周恩来は厳粛に宣言した。「我が国の経済建設、国防建設、人民生活に必要とされる石油は、数量あるいは品種を問わず、基本的にすべて自給できるようになった。中国人民が海外の石油を使う時代は、永遠に過去のものになった!」と。1964年1月25日人民日報の一番上に各ページ通しに「工業は大慶に学べ(工業學大慶)」との毛沢東のスローガン(號召)が掲げられた。(中略)1964年12月周恩来は第三届全国人民代表会議第一次会議において国務院を代表して「政府工作報告」を行ったが、この報告は多くの箇所で大慶の進んだ事績に言及し、大慶の経験を総括し、全国に「工業は大慶に学べ」というスローガンを発出したものであった。この後、全国の工業、交通戦線では大慶の経験に学ぶ運動が巻き起こった。
(「工業は大慶に学べ」については、近年の中国社会の評価はなお肯定的で、この点で「農業は大寨(ダーチャイ)に学べ」という当時のもう一つのスローガンが改革開放後、否定的にみられているのと対照的である。大慶に学べというこの運動が、極左的に利用された面はあるものの、内容として油田開発に成功したということであり、1958年8月から10月の人民解放軍による金門島砲撃により台湾・米国との緊張が高まりソ連の離反を招き、ソ連との対立がついに1960年7月のソ連の対中国支援の中止という事態に発展し国際的孤立が深まる中、国内では大躍進の失敗により食糧危機に陥るといった困難がまさに幾重にもかさなった1960年代初頭の情況にあって、海外の油田に頼らない時代を自ら切り開いた意義は少なくないと、ということは確かに中国の側の見方としてはいえるだろう。これに対して大寨(ダーチャイ)に学べには、大寨で行われた農業経営の手法、集団的な農業経営が改革開放により個人経営に改められたことから、現在ではかなり否定的に見られるようだ。しかし大寨が当初賞賛されたのは、誇大な報告を上げず飢饉を招かず、災害があっても助け合いで乗り切り、国には負担を掛けなかったといった、堅実で自立した姿勢だった。大慶同様に大寨で行われたことにも、中国にとり良い点もあったのではないかと同情的に思えないではない。)

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