見出し画像

経済学三巨頭の比較 張曙光

経済学三巨頭の比較
                            張曙光
張曙光《中國經濟學風雲史》八方文化創作室,2018より
p.1022  マルクス経済学において、孫冶方(スン・イエファン 1915-1974)薛暮橋(シュエ・ムーチアオ 1904-2005)于光遠(ユー・グアンユアン 1915-2013)は三巨頭であり、改革開放前の30年間、彼ら3人は当時の国内経済学の理論研究を主導した。改革開放以後、孫冶方は早く亡くなったが、薛暮橋と于光遠はなお続けて前進し、なお新たな突破もした。それゆえ三個人の理論思想について比較するなら、我々の孫冶方思想の認識を深めるだけでなく、一定程度、あの時代の国内経済学研究の全貌に到達できるかもしれない。商品生産と価値規律の問題は、改革開放前の三人が関心を持ち議論した中心問題であり、また改革開放以後の理論と実践の中の重大問題であった。それゆえに我々の比較はこれ(商品生産と価値規律の問題 訳注)を主要対象とし、同時にそのほかのいくつかの問題を論じる。われわれはまず孫冶方と薛暮橋、(さらに)孫冶方と于光遠を区別比較しそのあと簡単に概括する。

4.1 薛暮橋の経済思想と孫冶方との比較
 解放以後、薛暮橋は一貫して経済指導工作の第一線にあった。彼の経済理論思想は経済工作の実践から生じたもので、実践をまじめに考えた結果であり、中国でもっとも影響力のある実践経済学者とたたえられた。彼は自ら言っている。「一人の経済学者の価値のある学術観点は、書庫(書齋)での必死の瞑想(冥思苦想)から生み出されることはできず、ただただ忙しく(忙忙碌碌)何も考えない実際工作からも生み出されることはできず、堅実な(扎實)理論と困難な(艱苦)実践の間の結合としてのみ生み出されるものである。当然、異なる経済学者のこの二方面には(理論と実践の 訳注)どちらかに偏重がありうるが、だからと言って片方の完全な無視(偏廢)はない。私に関しては、長期の実際工作は、私の経済観の形成に、少し大きな影響を与えたであろう。次のよう言える。私の経済観は主として中国経済の実践の中で形成発展したものだと。」
 早くも1953年において、薛暮橋は「価値規律の中国経済中の作用」の一文を書いて、社会主義改造以前の多様な経済成分が併存発展する状況のもとでの価値規律の作用を論じた。以後形勢の変化に伴い、中国経済発展のそれぞれの重大な転折点において、例えば社会主義改造完成以後、大躍進失敗以後、とくに改革開放の異なる段階(階段)において、かれはすべて新たな情況を根拠にこの問題を再度新たに探索した。全体としてみると、彼の思想は一貫しており、孫冶方との分岐ははっきりしている。彼は孫冶方の製品(産品)価値規律に賛成せず、最初から最後まで価値規律は商品経済の基本規律だと考えており、社会主義経済になお商品生産と商品交換が残る限り、全民所有制企業はなお経済会計(核算)をすることが必要であり、それゆえに価値規律はなお発生作用する。しかし当時の条件のもとでは、かれはしばしば価値規律の(自発)作用と(自覚)利用との区分をしばしば混同(混淆)重複(反復)させ、一度ならず価値規律の(自発)作用は国家計画の制限を受けると強調し、理論編集上矛盾が現れたことで孫冶方の批判を受けた。しかし一点で彼はとても明確であった「国家計画はただすべての経済活動の中の最も主要な部分を調節できるだけである。すなわち国民経済発展に決定的意義の(ある)部分に。」(調節は)国民経済のすべての活動を含むことはでき、ない(として)、「国家市場」(本文注 孫冶方は薛暮橋の概念の使用があまり厳密でない(不大准確)と主張したが、さらに「概念論争」は主張しなかった。薛暮橋は孫冶方の批判を受け入れた。事実(薛暮橋が使った 訳注)「国家市場」というこの概念の使用はおそらくそれがもっとも顕著なもの。人はその意味はわかるものの、厳密な概念はわからない。この概念を最も早く使ったのは陳雲である。《陳雲文選》(1956-1985)第13頁、人民出版社, 1986年を見よ)の指導のもとで計画的に一部の(一些)自由市場を保留することを主張した。この一段階において、彼(薛暮橋)の研究成果は1957年に出版された『計画経済と価値規律』と1979年に出版された『社会主義経済理論問題』中に体現されている。」理論の徹底において、薛暮橋は明らかに孫冶方に及ばない。孫冶方は伝統社会主義経済理論と、実践の欠陥についてはっきりした(清醒的)認識をもっていた。併せて自然経済論や意思絶対論(唯意思論)などの重大理論問題からもろもろの(諸如)古いものの複製などの具体問題にまで鋭い批判を加えた。薛暮橋はいつもまず良い一面強調し、たとえ批判してもかなり温和であり、孫冶方のような断固とした鮮明であることに及ばなかったが。これは認識の問題でありまた、性格にも原因があった。
   もしも改革以前、薛暮橋の理論観点の変化が大きくなく、相対的に保守だとするなら、改革開放以後、彼の理論観点の進歩は小さくなく(つまり大きく発展し 訳注)、比較的開放的、かつ理論発展と改革実践において重要なけん引(引領)作用を果たした。孫冶方は二つの価値規律(商品価値規律と製品(産品)価値規律)を主張したが、社会主義経済は商品経済であるとの思想を受け入れることはむつかしく、また社会主義市場経済の理念を受け入れることはむつかしかった。(これに対し)薛暮橋は商品価値規律の基本立場を堅持し、自然と社会主義経済は商品経済であると向かうことができ、社会主義市場経済の思想を受け入れることができた。事実上、1980年5月に彼が中心になって起草した《体制改革に関する初歩意見》は、「我が国の現段階の社会主義経済は生産資料(手段)公有制が絶対優勢を占めており、国家計画指導のもとにある商品経済である」観点を提出し、あわせて「国家計画の指導のもと市場調節作用を充分利用して、計画調節と市場調節を相結合し」、「指令性計画を逐次減少させ、指導性計画に置き替えることを」主張している。しかし薛暮橋には孫冶方のように(かたくなに)真理を堅持し真理に献身する精神は不足している。1982年陳雲の春節講話の圧力のもと、薛暮橋は社会主義商品経済の観点を放棄し、社会主義経済は計画経済であることを承認し、計画経済が主で、市場調節は補との主張を受け入れ、さらに公開の場で自己批判を行った。のちに形成が変化すると、彼はまた商品経済と市場経済の主張に戻った。1992年に彼ははっきりと指摘している。「計画のある商品経済は、必ず商品交換、また市場を当然もつ。商品と市場の関係は魚と水の関係である。我が国は一歩改革を深める必要があり、社会主義商品経済を発展させ、社会主義市場体制を始める必要がある、それゆえ、社会主義商品経済は承認され、社会主義市場経済も承認されるべきである。」この基礎の上に彼は指令性計画を放棄しただけでなく、指導性計画と市場調節の「共同連携論(板塊論)」をも放棄し、計画と市場全面化の観点を堅持し、「計画が主で市場調節が補とする」「主補論」を放棄批判したのである。(中略)これらすべては皆孫冶方の理論と思想を大きく超えており、また薛暮橋がときに反復(かつての言動を悔いて否定すること =翻悔)するものの、しかしその生命が長く、探索を辞めなかったことを示している。

4.2 于光遠の経済思想とその孫冶方との比較
 文化大革命以前、于光遠は中宣部科学処処長であり、ずっと意識形態指導部門にあった。1950年代そして60年代、彼はまず王惠德そして蘇星と合作で《政治経済学》(資本主義部分)の講義編集執筆を行ない、幹部と大学レベルの学校教材(大專校)を作った。またかつて孫冶方,薛暮橋とともに全国価値規律討論会そして再生産理論座談会を発起招集した。1970年代半ばからは、彼は中央政策研究室の責任者の一人そして中国社会科学院副院長として、思想理論戦線を指導する地位にあった。1987年そして(1989年の 訳注)六四前後、鄧力群は中顧委を利用して彼に対する批判を行った。孫冶方が『社会主義経済論』を編集執筆した経験と教訓は、于光遠に『社会主義政治経済学』を書くべきだと感じさせた。しかしそれは完全に不可能ではないにしても、十分に困難だった。そこで彼は社会主義政治経済学研究のために、1970年代半ばから、講話、報告、討論、文章執筆を通し『社会主義政治経済学探索』1-7集を作成した。彼の経済思想は主としてここにある。
  商品生産と価値規律の問題で、孫冶方は于光遠を直接名前を挙げて批判していないが、しかし二人の観点には明らかな違いがある。改革開放前、于光遠は社会主義制度下の商品生産と価値規律問題を討論する多くの文章を書いた。たとえば50年代には《社会主義制度下の”商品”》、《社会主義制度下の価値規律作用問題》、《価値規律と社会主義制度下価格決定の規律性》とくに《社会主義制度下の商品生産問題の討論に関して》。60年代、70年代にはさらに《価値規律とは何か》、《社会主義制度下の価値規律は社会主義経済規律と共同して作用するものである》、《経済規律の運用問題に関して》などを書いた。その観点もまた一貫しており、孫冶方と同じく,始終自己の観点を堅持している。彼は、社会主義社会の中には、国家と合作社との間の売買関係、国家が消費品を職工に売り渡す(関係 訳注)、国家企業間の製品売買関係、という三つの売買関係が存在する、彼は「3つの性質が異なる製品売買関係は皆商品だとされ、あるいはこの3種の異なる売買関係は皆商品性をよくもっている」その理由は「(1)いずれの製品売買でも、生産品の運動方向と反対の方向への貨幣の運動がある。(2)いずれの製品売買でも、売買時にはこの製品は価値物、価値のあるモノとかならず承認されている」(しかし)とても明らかなことは「国家企業間のこの種の製品売買は、生産資料をそれぞれが占有する生産者が占有する労働を交換するものではないだけでなく、所有権の変化も根本的に発生していない。」この点で孫冶方とは明らかに違う。これについて彼はいわゆる「実質上商品」と「実質上商品でないもので商品の外殻を身に着けた(保留)製品」の間に区別を加えた。商品の外殻を持っているだけで商品の実質をもたない商品には、それ以上の意義付けはなかったので、区別には克服しがたい困難が残った。
  于光遠は価値規律は商品生産の規律であり、商品交換の規律でもあるが、(それは)言葉を変えれば「商品(あるいは広範に言えば製品)の価値はこの商品(あるいは製品)が消耗した社会必要労働量の決定するところで測られる」(というもの 訳注)と考えた。社会主義制度下で、商品生産は広範に制限をうけており、価値規律の作用範囲は資本主義下に比べて小さい。それは社会主義商品生産の中でその他の規律とともに同時に作用する。かつ「ただ社会主義制度下で作用する規律であり、(しかし 訳注)社会主義の経済規律とは異なる」。この中の定義は孫冶方の価値規律は価値を決定する規律だとするのと一致するが、(それでも 訳注)価値規律は社会主義経済の規律ではないとする。これは孫冶方が受け入れられないところだ。また彼の自身ののちの社会主義商品経済主体論の観点と矛盾する。
   (于光遠は社会主義経済の中に売買関係が存在することを示して 訳注)孫冶方の社会主義商品経済の「外殻論」と「外因論」を否定したものの、(その後 訳注)于光遠は改革解放後の経済思想を不断に前進させ、社会主義経済は計画のある商品経済であり社会主義市場経済であることを完全に受け入れただけでなく、自身の創見を付け加えた。彼は1988年に言っている。「計画経済と市場経済(私は商品経済と市場経済は同義語とみているが)間の関係の経済学的認識について、私は3つの発展段階の見方をしている。最初は”排斥論”で両者は互いに相いれないとした。この種の観点は現在も西欧の経済学者のなかではなお支配的である。またマルクス主義者も最初はこの観点だった。それから結合論があり、さらに消極結合論ーすなわち両者の結合は自身の利益にならず暫時的とするものでスターリンの『ソ連社会主義経済問題』までこれらすべては消極結合論観点であるーと積極結合論の観点で、社会主義国家の中で経済改革の人は多くはこの観点をもっている。最後に私が主張する「主体論」がある。すなわち両者はあい並列するのではない。社会主義経済計画があり発展するのは、社会主義商品経済で計画があり発展することである。(つまり)商品経済は計画があり発展する主体である。
 (中略)
 理論観点において、孫冶方と于光遠はしばしば対立した。これは大学での議論(大学問傢)では多くある普遍現象である。しかし彼らの個人的交流はとても良かった。あの残酷な闘争において、無情な攻撃の年代において、人を徹底してやっつけたり(整人)完全に相手に正されるのがあたりまえだった。しかしここに一つの例外があった。1964年経済研究所の「四清」運動で、中宣部部長が実施した公会議で、陸定一は于光遠を工作組に派遣を求めた。しかし于光遠は孫冶方の問題は学術観点の問題であり、政治問題ではないとして自身の副手林间(さんずいに間)清を派遣して工作組組長とし、自身はこのことから外し参与しなかった。再生産座談会において、かれは孙冶方の発言を批判していない。それどころか、かれはこっそりと孙冶方に注意している(提醒过)。このことを孙冶方は数節を使って記述している。
 (中略)

4.3 まとめ
 中国経済学界の三巨頭、孫冶方,薛暮橋,于光遠はそれぞれ特徴があるといえる。学術上、孫冶方比較的専、薛暮橋は比較的実、于光遠は比較的博(ひろい)。于光遠はもともと物理学を学び、数学の基礎は確かで、彼の関心領域は相当広く、哲学から経済学、自然弁証法から特異能力(功能)まで、理論経済学から技術経済学まで。雑学家ともいえる。この点で孫,薛とは全く違う。処世の態度において3人は皆比較誠実、孫冶方は正直(耿直)歪むよりは折れることを好んだ(寧折不彎)。薛暮橋は比較軟弱で、外界の圧力の下、心にもない発言をした(不免有些違心之擧)。于光遠は打算をはかるところがあり(有些心計)時と機会を得ないときは沈黙を守るか回避を選択した。孫冶方と薛 于二人との交流は比較多く、薛 于二人の交流は比較少ない。性格上の相違は、彼らのマルクス主義の研究、中国社会主義経済問題での協力と交流には影響しなかった。

#張曙光    #孫冶方   #薛暮橋   #于光遠 #商品生産 #価値規律

main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp