王元化 孫冶方同志に関する思い出 2009
《回憶孫冶方同志二三事》 載 《人民政協網》http://rmzxb.com.cn/ 2009年1月15日(『解放日報』より転載)(2015年6月10日閲覧)
1962年6月から8月。陳伯達は孫冶方に毎日『紅旗』雑誌編集部に行き”座談会”に参加することを誘った。康生も何度か孫冶方に座談に行くことを約束させ、彼ができる限り「出す(放)」ことを奨励した。彼の「修正主義」罪の証拠を集めて、一撃でやっつけるために(一棍子打死)。彼はこれが陰謀であることをはっきり知っていたが、なお参加を決定した。彼は言う「私に三不主義(辮子を捕まえない,棒でたたかない、帽子を被せない)は不要だ。ただ答弁権さえあれば良い。私が反批判を行うことを許されればそれでいい。帽子は結局はかぶるもの、この帽子でなければ、あの帽子をかぶるだけのこと、それに比べて答弁権はもっとも重要だ。」
1963年末、哲学社会科学部第一次拡大会議において、彼は利潤問題に関する演説を発表した。ある人が彼をいさめて言った。「風の声(伝わる噂のこと 訳注)がとても緊張している。再び利潤問題を議論しないように」彼の回答は「風の声とはなにか?私は気象学を研究しているのではない。」
1964年、康生と陳伯達は孫冶方に「中国最大の修正主義者」の帽子を被せた。一度彼は彼らが彼に指定した会議に参加し、何年か若い人が書いた生産価格に関する論文を討論した。彼は身を乗り出して言った。「若い同志を批判する必要はありません。この観点は私のものです。」彼は価値規律の作用と資金利用効益の重要性を述べて明らかにした(闡發)あと,厳正に声明した。「数十年の難問題(疑難)を解決するうえでは、リスクを冒す必要がある。人がそこで私が危険を冒していると警告しようと、それは修正主義的観点だと警告しようと、私は今日なお自身の意見を堅持する。今後もまた自己批判(檢討)は考えていない。」このことで彼への攻撃は一段引き上げられた。文革が始まると、1968年4月4日夜、彼は手錠をはめられて(戴上手銬)泰山監獄に押し込められた。
彼は牢に7年閉じ込められたが、その間ずっと「論戦書」を書き続けた。彼は言う。「死ぬことは構わない(不足惜)。名誉が傷つけられることも重要ではない。私が長く経済研究で経済研究で形成した観点は捨てることはできない。私は真理を残す必要がある(為真理活下去)死ぬ前にそれをとどめる必要がある(把它留下來)、人民が公正な判決をするために。」獄中に紙はなく筆もない、そこで彼は記憶にとどめることにして、繰り返し暗唱した。それは85編に達した。彼は長く肝臓病をわずらっていたが、極度に苦しい7年にわたる鉄格子生活を耐え抜いた。1975年に彼は釈放され出獄した。彼に付き添って自宅に戻す造反派は車の中で彼に「大人しく過ごすよう(要老實做人)」警告した。彼は「私はまず志を変えない、次に仕事を変えない、そして自身の観点を変えない」と返答した。
彼が自宅に戻って間もなく「右傾翻案風への反撃」が開始された。最初に江青が大寨で講話して話した。「孫冶方はまた元の判決を覆してしまった」彼は恐れないだけでなく、平静(坦然)に言った。「私がどの案を覆せるというのだ。経済学であれば、私は彼女と討論できる。彼らが経済をこのようにしてしまったこと。私孫冶方の過去の犯罪など、いくらでも議論しようではないか。」
文革後 彼は早70歳だった。しかし独文の学習にも努力して、調査研究を行い、文章を書き、読書メモを作った。1978年6月下旬、彼はただ上へという学風(学ぶことをもってよしとする学風 訳注)を批判した。彼は馬寅初の人口論を例にとって、馬老が1959年に囲まれて攻撃されたときに言った話の一節を賞賛した。「私は80になろうとするところで、敵の数が少なくないことははっきりしている、自ら単身馬に乗り、応戦し、戦死して終わるまでだ。力で圧服しようとしたりあるいは理では説服しない批評者たちに投降はしない。」1979年9月、彼は超音波検査を受けた翌日、胆のう付近で黒い影が発見された。医者は彼の腰部に鬱血(淤血)を認めた。すぐに割腹検査になり、末期の肝がんがみつかった。彼は執刀手術を受けてほどなく、長年徹底した名誉回復(平反)を得ていない老戦友沙文漢のために中央に報告を書いた。修良女史(大姐)が人から聞いた話として、この報告を彼は、床の上の2本の布紐(兩條紗佈拴)を用い、布の紐で強く引っ張って座ることで書いたもの。これは修良女史がその目に熱い涙をあふれさせた(熱淚盈眶)ところだ。
1982年彼は映画「天雲山傳寄」のために弁護(申辯)を行った。この映画は上映されて間もなく、「反右派闘争の真相を完全に捻じ曲げている」と批判され「資産階級自由化の文芸上の反映」だと指弾された。彼は重い症状であったが、文章を書いて(撰文)反駁した。このとき彼の体は十分衰えており、世を去る数ケ月前のことだった(彼は1983年2月22日に亡くなった 訳注)。
私と孫冶方とは(上海が)孤島の時期に分かれてからずっと会えなかった。1978年5月27日彼が上海科学堂で報告したとき、そのとき私はなお名誉回復していなかったが、なんとか1枚の入場券を得て、後ろの席からはるか遠くに彼を望むことができた。これが我々が分かれてから40年後の最初の再会だった。翌年、私は自分の案件のため上京して申述することになり、姜椿芳が私を伴い彼に会いに行き、ようやく長く話す機会があった。「十二大」のとき(1982年9月 訳注)もう一度会えた。大会開幕のその日、開会前の時間を利用して、私はあわただしい会場の中で「天雲山傳寄」の作者魯彥周を探しだし彼(孫冶方)と会った。私が最も感動したのは、彼が亡くなったあと、彼の助手が彼の遺作を私に送ってきたこと、そしてその扉のページに次のような話が書かれていたことだ。「冶方同志はこの本を床に置き、体調が回復したら自ら署名してあなたに送りたいと念願(本想)していましたがついにできませんでした。今私はこの本に印章(圖章)を押し、彼の生前の願い(遺願)を表したいと思ます。」
修良女史が孫冶方について書いたこの本を読んで感慨はつきない。それは私に孤島時代、入党して間もない若い時代を思い出させた。私は上海地下党文委の精神の栄養を吸収して成長して大人になった。文委には現在に至るも忘れがたい人がいる。彼らは私の思想を形成し私の人格を育て、大きな影響を与えた。それは、孫冶方、陳修良、林淡秋、姜椿芳、黄明、彼らは私の兄姉同志である。
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