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Zhao Ziyang 趙紫陽 1919-2005

趙紫陽 Britannica Kids

 1960年代の文化革命の間、趙紫陽は中国共産党を追放され、資本主義の危険分子subversiveとして非難されていた。1980年までに古い党の指導者たちが亡くなり、趙は支持favourを回復し、中国の首相になった。彼は1980-87年の首相であり、1987-89年の中国共産党総書記である。
 趙紫陽は河南省に1919年10月17日に生まれた。彼は1932年に共産党青年団に加わった。6年後(1938)、彼は党の正式のメムバーになり、その後間もなく、中国北部で党の役職を勤め始めた。中華人民共和国が成立したあと、彼の党での職位は着実に上昇した。
 趙は文革の間、公職を解かれた。1970年代に四川省の党第一書記として権力を取り戻すと、彼は省の農業そして工業の生産を増加させた。彼は、工業への省による管理を減らしたり、労働者にその必要に応じてではなく、その成果に応じて報いることを含めて、生産を刺激するであろう経済政策を好んだ。趙は1979年に中央政治局のメムバーになり、1980年4月には副首相、その5ケ月後には首相になった。彼の四川での政策は、1980年代の中国の経済発展の指針だった。彼は1983年に首相に再任されたが、1987年には党総書記になるため首相ポストを離れた。李鵬が首相を引き継いだ。
 1989年4月北京その他の中国の多くの都市で政治経済改革を求める集団的抗議が爆発した。趙紫陽を含む何人かの中国共産党の指導者たちは抗議に対して穏健な取り扱いを望んだが、李鵬や他の人々はより強硬な対応を求めた。最終的に(中国)政府は北京の抗議を6月に力で押しつぶした。その月の後半に、趙は党のポストから締め出され、総書記は江沢民に置き換えられた。趙は2005年1月17日北京で亡くなるまで自宅に軟禁された。


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福光 寛  中国経済思想摘記
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