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高崗,饒漱石事件 1953-54

   高崗(ガオ・ガン 1905-1954)と饒漱石(ラオ・シュース 1903-1975)の事件(1953-54)は謎が多い(写真は成城大学成城池)。中国共産党の歴史のなかで現在まで平反(名誉回復)がかなわないのはなぜか。事件は、一般には二人は反党同盟を結び、毛沢東劉少奇、周恩来らに対抗しようとした、それが追及されたとされている。見直されないのは、彼らを追い落としたものとして、鄧小平や陳雲の名前も挙がり、二人の断罪には鄧小平がかかわっているので見直しはかなわないのだといういい方もある。しかし高崗は毛沢東に次ぐ上位のポストにいた(人民政府副主席)。中華人民共和国建国早々、ナンバーツーの人物が、職位を失い自殺したとされる衝撃的な事件だ。この国では、その後、同じくナンバーツーだった劉少奇が、同様に失権ののち今度は事実上虐殺される事件が起きている。

   高崗は幹部会で追及を受けた後、ピストル自殺を図り(1954年2月)、これは未遂に終わったが最終的に自殺(以下では睡眠薬自殺)したとされている。しかしなぜ追及されて自殺したのか。饒漱石は、文化大革命の過程で、極めて不透明な形で逮捕拘禁され、文革の収束をまたず病気で亡くなっている。この二人の事件は冤罪ではないかという指摘はあるが見直されないまま、今日に至っている。文化大革命後にさまざまな事件が、見直されたときにも検討はされたがこの事件の扱いは見直されなかった。

   建国初期、高崗が中国の東北部を軍事的経済的に抑えていた。東北地方のいち早い増産体制で朝鮮戦争(1951)で彭徳懐を高崗が物資の補給で支え彭徳懐と高崗には信頼関係があったとされる。三反運動でも全国を先導するなど高崗は毛沢東にむしろ忠実であったのかもしれない。他方で各種の会議で劉少奇や周恩来との反目が目立ったとされる。

   他方、饒漱石の罪状として1954年に鄧小平らが提出したものの内容を見ると、饒漱石の考え方が、資産階級への対応や土地改革で、極左的ではなかったことが伺われる。中国共産党は改革開放により階級闘争至上主義を放棄したことを考えると、饒漱石は改革解放後の路線を先取りしていたようにも見える。

1)資産階級に対して、教育と団結を重んじて、将来は資産家も共産党に加入できるとしたこと。
2)資産階級に対して団結を重んじて、たたき出すとは言わなかったこと。知識分子の思想改造を重視せず、幹部の入れ替えを遅らせたこと。
3)抗日運動を行ったものは平等だとして階級成分を重視しなかったこと。4)農村で群衆を発動せず、地主と農民の紛争を調停する方式をとったこと。
5)土地改革で慎重である一方で建党にも積極的でなかったこと。
6)終戦時に日本軍参謀と不要の儀式を行ったこと。

   彼らが排除された理由はどうも良くわからないものが残る。薄一波は回顧録(若干重大決策與事件回顧)のなかで、高崗を徹底して悪く書いている。まず1952年8月に各地の同志を中央にあつめ、鄧小平(西南局)は政務院副総理、高崗は中央人民政府副主席兼国家計画委員会主席(なお鄧子恢は副主席 陳雲は委員の一人)、饒漱石は組織部長に処遇されたが、その処遇がなお劉少奇の下であることに不満で、劉少奇を右傾思想だとして材料を集めて批判するところがあったとする。1953年初めに毛沢東は、政府工作に分散主義の現象がみられるとして、各部門の中央への報告、中央の各部門の指導者の決定を強めるとして、政務院での分業を明確にした。周総理に外交、計画工作と八つの工業については高崗、李富春、賈拓夫。労働賃金については饒漱石。農林、水利、互助合作は鄧子恢。財政、金融、貿易で、陳雲、薄一波,曾山。など。薄一波は、この決定により毛沢東は集団指導体制の強化を考えたが、高崗は、周総理に対する不信任を意味するもので、その指導権を弱めるものと解釈したとする。

 薄一波によれば高崗は、夏季開会の財経工作会議の機会を利用して、新税制問題を利用して薄一波を批判することで間接的に劉少奇を批判。また劉少奇が東北局が民族資産階級問題で左傾の誤りを犯したと批判したことを根にもって、東北鉄路システムのソ連側顧問に、中国には劉少奇に代表される親米派がいると伝えたとされる。また訪ソしたあとスターリンは劉少奇を好まず周恩来を重視せず高崗を賞賛したと言いふらし、また劉少奇は軍事や根拠地建設の経験がないと言いふらした。状況を把握した毛沢東は、劉少奇に直接、高崗と話すことを求めた。劉少奇は仕事上の誤りについて自己批判した。しかし高崗は劉少奇は自己批判せず、セクト主義だと言い続けたと、薄一波はあくまで高崗を悪く伝えている。

 財経会議がおわったあと、部長会議形式をとるべきか、あるいは副主席、総書記のポストを設けるべきかという問題が中央から出された。このとき高崗は毛主席は劉少奇を重視しておらず、劉少奇には人大常任委員会をやらせ、周恩来には部長会議主席を、そして自分には政治局を担当させるつもりだといい、自分は周恩来の部長会議主席には反対で、林彪が良いと思うといい、さらに陳雲に毛主席に自身の伝達を頼んで断られている。また、10月、総書記のポストの新設に反対し、複数の副書記を設けることを主張し、総書記あるいは副書記に劉少奇が就任することに反対している。他方でほぼ同じとき、全国組織工作会議で、安子文の報告を討論しているときに、饒漱石や組織部がこれを批判して会議が中断されることが起きた。(薄一波はこの批判ー具体的な内容は不明について、やはり安子文を批判することで劉少奇を批判する意図があったと断罪している。)

 これらの経緯を踏まえて、毛主席と周総理は党内団結の重要性を訴え、劉少奇同志は無私でありセクト主義ではない、として問題は高崗・饒漱石にあるとした(1953年12月であろうか)。1954年2月、七届四中全会で決議がだされ、高崗-饒漱石を批判するとともに改悛を求めたが、高崗は反省するどころか自殺の道を選ぼうとした(未遂)。しかし結果として8月24日に睡眠薬自殺した。1955年3月下旬に開かれた全国代表会議において、鄧小平はこの高崗-饒漱石事件の報告を行い、また彼らの党籍を奪い、党内外のすべての職務を廃止するなどの処分が決定された。以上が薄一波が回顧録(若干重大決策與事件回顧)で伝える事件の内容である。

#劉少奇 #毛沢東 #高崗       #成城大学キャンパス

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福光 寛  中国経済思想摘記
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