中山法華経寺について
法華経寺は日蓮(1222-1282)に帰依した富木常忍(日常)が下総国若宮に法華堂を建てたことに始まる(1253年)。ところで日蓮は1260年に浄土門徒宗の襲撃を受けて富木の屋敷に落ち延びる。このとき地元の豪族太田乗明の助力もあり、法華経寺の基礎が固まった。参道を進んで最初に左手に現れるのは祖師堂(1678 重要文化財)。比翼入母屋造りという特殊な構造の屋根。右手正面には前田利光(1559-1628)寄進の朱塗りの五重塔(1622 重要文化財)。高さ98尺(30M)。そして創建時の1260年に建立された法華堂(1260 重要文化財)は祖師堂後ろの一段高いところに残されている。これは関東圏では最古に属する室町時代の木造建築物。和様を加えた禅宗様式がめずらしい。法華経寺には、日蓮が時の権力者である北条時頼(1227-63 5代執権1246-56)に提出した「立正安国論」(1260 国宝)も保管されている。
なお五重塔のそばには享保4年1719年鋳造のいわゆる「中山大仏」。2018年12月に保存修理が終わって間がない。座高3.46M総高4.53Mの大きさ。
ところで正岡子規(1867-1902)の俳句に中山法華経寺を詠んだとされるものがある。
中山寺「気違ひの並びし秋の夕かな」 明治29年1895年秋
「山門をぎいと鎖すや秋の暮」
「看経や証はやめたる秋の暮」
中山寺にて「釣鐘の寄進につくや葉鶏頭」 明治29年1895年秋
中山の蕎麦屋に入りて「新酒酌むは中山寺の僧どもか」 明治29年1895年秋
なお子規の俳句で中山の文字は以下の三句にもある。これらは千葉の中山を示唆するものだろうか(一部の方のブログなどに、これらも千葉の中山を指すとの指摘がある)。
同意できるのは第二句。総武本線本所佐倉間開通は明治27年1893年12月。それゆえ第二句から1894年2月 中山を訪ねた可能性は読める。
命なり佐夜の中山ほととぎす 明治26年1892年
中山をひとりこえたる二月哉 明治28年1894年春
命なり小夜の中山秋の蝶 明治28年1894年秋
しかしこの三句のうち一番目と三番目は、西行法師が新古今和歌集で静岡県掛川の中山峠を念頭に「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」と詠んでいることを念頭に詠んだものだろう。「小夜の中山」は、峠の意味からさらに越えがたい難所を意味する歌枕。紀友則の「あづまぢのさやの中山なかなかに なにしか人は思ひそけむ」はまさにそれであり、子規の「命なり佐夜の中山ほととぎす」「命なり小夜の中山秋の蝶」は歌枕ととると心に落ちる。他方、芭蕉が「忘れずば小夜の中山にて涼め」と詠んだのは、西行の句に近くまさに中山峠の意味であろう。
高浜虚子(1874-1959)に写生文集「中山寺」明治31年1897年がある。
交通 京成中山駅から徒歩6分。千葉県市川市中山。