胡耀邦 小学校卒業から児童局書記就任まで 1929-1931
胡耀邦が1930年11月、若年にして共産党の活動に合流してから(胡耀邦の居た地域がかなり特殊で共産党が実質的に支配していた地域であり、従軍というよりは見方によれば行政的な仕事をしていたともいえよう)、AB団関与の疑いを受ける1932年末までについて述べる(写真は根津神社庚申塔 像の右側に寛文八年1668年の文字が読み取れる。2020年7月26日)。
胡耀邦傳 人民出版社/中共黨史出版社,2005年, 15-27
陳利明《胡耀邦從紅小鬼到縂書記 修訂版》人民日報出版社, 2015年,18-40
満妹 回憶父親胡耀邦 2016年, 62-71
1929年の春(陳利明は1928年春としている)、劉陽県城内に劉陽県立初級中学が開学した。これは劉陽県城内で唯一の中等学校であった(この中学ができるまでは県城から70キロ離れた長沙まで行くしか中学受験の方法がなかった)。1929年夏、胡耀邦は1929年夏、高等小学校を卒業した。ちょうどそのとき劉陽中学が秋季班100名の新入生を募集した。胡耀邦の両親は熟慮して受験させることにした。胡耀邦は優秀な成績で合格した。一家全員そして一族の支援を受けて、胡耀邦は熱心に勉強した(学費に十数元 寮の食宿費が月1元あまり年間では30数元が必要だった。国語、英文、数学、物理、化学、地理、歴史、美術、音楽、体育、訓育などの科目が置かれ三年の学制であった。胡耀邦は国文、数学の成績が秀いで、課外では三国演義や水滸伝などの古典小説を読むことを好んだ)。しかし彼を取り巻く情勢はますます緊張の度を高めていた。劉陽中学でともに学んでいた、いとこの柳世俊は、1930年の春節後、正式に中国工農紅軍に参加した。
1930年4月、紅六軍長の彭徳懐が、文家市を攻めており、劉陽県委員会などは武装暴動を発動している。その後、紅六軍が劉陽県城を占領することが起き、劉陽中学の一部の学生は各地に避難、同じく一部の教師が休暇をとったまま戻らなくなり、学校はもはや授業を停止するほかなかった。そこで学生の一部が、長沙にある中学校に転学するようになり、胡耀邦もそうした学生とともに、長沙に移った(初等中学2年のときに学業を中断することになった)。
当時中国共産党は、李立三の誤った左傾主義の影響のもと、紅軍に不断に大都市を攻めさせていた。1930年7月、彭徳懐が今度は紅三軍団を率いて長沙を攻め、学校は再び業務停止に追い込まれた。このため胡耀邦も故郷に帰らざるを得なくなった。このとき彭徳懐は、猛烈な反撃に会って、いったん長沙を離れている。間もなく毛沢東、朱徳らによって率いられた紅一軍団が、三軍団に合流している(紅一方面軍)。このとき文家市は再び、紅軍の支配下にはいっている(出身地に戻った胡耀邦は文芸宣伝隊を組織し自ら芝居の台本を書き活躍している)。
この時、中共湘東特別委員会若い幹部を探していた。最初胡耀邦の兄の胡耀福が選ばれたが、両親が主労働力であり新婚間がないと反対した。その結果、胡耀邦が選ばれることになった。1930年11月(陳利明は1929年12月とする)。このとき彼はまだ満15歳に満たなかった。ここで胡耀邦は中共湘東特別委員会兒童局の工作に従事(少年先鋒隊隊長兼児童団総団長・・当初は児童劇団であろう 行ったことは敵情視察、伝令、水や食事の搬送、標語を書くこと、宣伝活動。彼はとくに演説に長けていた。)。1931年2月に少共湘東特別委技術書記に就任。10月に湘贛省委が正式に成立すると、湘贛省委兒童局書記に就任している。1931年秋には毛沢東率いる中央紅軍は、蒋介石が30万の兵力で進めた3回目の包囲殲滅戦(圍剿)に勝利し、軍民の士気はあがり、少年先鋒隊、児童団はさらに活発になった。1932年5月に湘贛省は、少年先鋒隊、児童団に対して盛大な検閲活動を行った。省の指導者が見守る中、1万名近い若者が、列を組んで行進し、演舞などを行った(1931年頃から胡耀邦は『列寧青年』などで児童工作の重要性などを訴える文章を発表しているほか、自ら『紅色児童報』『共産主義児童報』などの編集工作を行なった。紅小鬼と称されたのはこの当時のこと。貧しい家庭の子供は学習の機会がなかったなか、ソビエト区の児童がレーニン学校に入学して字を学べるように、児童の学習に関心を寄せることの重要性を文章に書きまた児童局書記会議で主張した。なお少年先鋒隊隊員に、両親や伯父さんなどへの思想工作、自身の弟妹の児童団への参加が促す役割が提案され、胡耀邦はこれに賛成している。8歳から16歳のソビエト区の児童は児童団に組織。そしてそのまま年齢が上がると16歳から23歳までは少年先鋒隊として紅軍予備軍:後備軍とされた。)。
このように活躍していた胡耀邦にAB団の疑いがかかるのは1932年末のことである。
main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp