鄧力群 廬山会議 1959
以下は鄧力群が1998年4月16日に述べたもの。彭徳懐と毛沢東との間に生じた亀裂がなぜ広がったかについて、中ソ関係が影を落としていたことを指摘する重要な証言である。また彭徳懐と毛沢東との確執が、よく知られていたことも伺われる。鄧力群は彭徳懐の側も、発言に慎重さを欠いたとしている。以下による。鄧力群《我爲少奇同志説些話》當代中國出版社2016年(写真は都立工芸高校)。
p.96 1959年4月中下旬に開かれた第二回全国人民代表大会で、劉少奇同志は中華人民共和国主席に選ばれた。
7月の廬山会議になって、とても大きな方向転換(轉折)が生じた。廬山会議の前半は「左」を糺すであった。彭徳懐の意見書が印刷発表されてのちは、「左」を糺すは中断された。「右傾機会主義」に反対するが始まった。もともとの困難は克服されないまま、これが加わったことで、困難は増した。
廬山会議の方向転換は多くの要因が作り出したものだ。彭徳懐の手紙が印刷公表される一両日前、王任重同志の記憶によれば、彼が主席と一緒に泳ぎながら、毛主席に言った。「彭徳懐の手紙を見ましたが、彭はいくつか異なる意見をもっています」と。毛主席はこの時話している。「彭は政治局委員で、党中央の主席に手紙を出すのは、正常な現象だ。意見が違えば、討論すればいい(可以討論)。」毛主席のこのときの情緒はなお平和なものだったと。
しかしのちに(これが)変わり、とても激烈になった。私が見聞した情況と材料には、多様な要素がある。
一つの要素は、(鄧)小平同志これについて話しているが、彭老総の手紙、話、特に話に確かに妥当でないところがあった。当時ある人が暴露したのだが、彼(彭老)は北京から廬山に向かう汽車の中で次のような話をした。「中国の問題は深刻(嚴重)だ。困難はなお続く。ひょっとしてただソ連の赤軍の助けがえられればなんとか解決できるかもしれない(也許只有蘇聯紅軍幫助我們才能解決了)。このような言い方は、過激(氣話)だけど、毛主席が聞いたら、怒らないわけにゆかないな(不能不反感)。」
彼の手紙や発言は、とても多くの小組会で同感を得た。というのも確かにどこでもこのような問題があるからね。数日のうちには確実に、このような彭徳懐の意見に同意する意見はますます多くなった。小組会で、彭徳懐はまたいくつか過激な話をした。古い帳簿をひっくり返すと(翻老賬)
p.97 延安の華北会議を開いて40日、彼は気持ちが晴れたことがなかった(他耿耿於懷)。
*これは1945年に40日開かれたという彭徳懐批判集会のことであろうか。彭徳懐は解放戦争やそれに続く朝鮮戦争で武功があったが、毛沢東とは1930年代のころから対立的存在だった。彭徳懐を毛沢東が1959年の廬山会議に至って追い詰め追い落とした理由は、彭徳懐が、なお、毛沢東への批判の姿勢を崩していなかったことがあるように思える。以下を参照。ユン・チアン+ジョンハリデイ 土屋京子訳「真説毛沢東」講談社+α文庫版2016年 上巻pp.615-616 下巻pp274-304
あたかもこの時、駐ソ大使館から一つの情報がきた。ソ連の新聞雑誌、指導者の講話が我々の誤りを批判しているが、その話し方は彭徳懐の話し方とよく似ている(大同小異)と。これが疑いを引き起こした。内外呼応か。
廬山会議の間、北京の留守を守るのは陳毅一人であった。そこにソ連大使ロンチンがやってきた。陳老は言った。「全員が会議で出払っており、私一人だけです」と。ロンチンがどのような意図かはわからないし、冗談ともわからないが、最後にこう言ったのだ。「これなら政変も起こせますね」と。陳毅同志はとても警戒して(很警惕)、すぐに毛主席に報告した。社会主義国家の大使が、我々の国家の指導者にこのような話をしたことで、問題は鋭敏になった。
加えて会議前、ソ連政府は正式に、原子爆弾の製造設備の提供の停止を、正式に通知した。連絡として、普通ではない。
これらの要素が、彭徳懐批判を形成した。このような悲しい歴史の方向転換を形成した。
この時、この種の情況下で、(劉)少奇同志は”左”を糺す課程(進程)が中断するのを恐れて、廬山会議反右傾の情況は下達の必要の有無という問題を提起し、胡喬木に毛主席に話させようとした。喬木はできず、この話は伝わらなかった。もし当時伝わったら、どうなったかはわからない。
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