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北戴河会議から四清五反へ 1962/07-63

黃崢《風雨歷程 晚年的劉少奇》人民文學出版社2018p.149-152をまとめた。 

 1962年7月25日から8月24日。北戴河と呼ばれる避暑地で中共中央工作会議が開かれた(中共中央が繰り返し長期間の会議を開いているのはよくわからない。激しい言葉が飛びかう反面、党幹部が避暑地で優雅に過ごしているようにも見える。)。これに参加しているのは毛沢東劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、林彪、鄧小平など。各部門中央局、各省市自治区の責任者。ここで毛沢東は8月6日、一部の同志は思想混乱に陥っていると批判した。西楼会議が困難な予測が多いとしたことは「黒暗風」として。鄧子恢、田家英などは包産到戸を提唱したとことは「單幹風」として。また中央に書簡を寄せて訴えた彭徳懐は「翻案風」としてそれぞれ厳しく批判され、多くの同志が自己批判せざるを得なくなった(写真はキンシバイ。2020年6月2日成城大学構内にて。)。
 この会議で、劉少奇は階級闘争の提起が、目下の国民経済調整を妨げることを心配したが、毛沢東は重大な理論実践問題であるとして、階級闘争を重ねて提起した。
 8月26日から中共八届十中全会予備会議が北京で行なわれた。この会議ではいくつかの文書が検討されたほか、階級および階級闘争が強調された。鄧子恢の「單幹風」、彭徳懐は「翻案風」が批判され、また康生によって、「劉志丹」事件が提出された。予備会議が29日あった後に正式に八届十中全会が9月24日から27日の4日間おこなわれた。
 9月26日、劉少奇は毛沢東の意見に完全に賛同であるとする一方、現在の困難を強調して、階級闘争の伝達を十七クラスよりうえの幹部に限ることを中全会で承認させた(毛沢東に認めさせた。とはいえ、結果として階級闘争の継続は、文化大革命への道を開くことになったのではないか。福光)。伝達を限定するという、劉少奇の態度が、経済工作を守る高等な政治テクニックだったのかは不明である。ただ毛沢東にすれば、闘争がしたかったのではないか(そのことを示すのが翌年の四清五反運動の開始である 福光)。
 1963年2月に中共中央工作会議がひらかれ、農村で四清(帳目、倉庫、財物、工分を正すこと)、都市部では五反(汚職窃盗に反対する、投機に反対する、浪費に反対する、分散主義に反対する、官僚主義に反対する)と呼ばれる運動が開始された。(これらが階級闘争の中身なのだが、なぜこれらが階級闘争であるのか、理由はわかりにくい。ともかく政治運動して、いうことを聞かない人をあぶりだすことを狙った戦略なのだろうか。福光)
 参照→ 1952年開始の五反運動

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#成城大学キャンパス

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福光 寛  中国経済思想摘記
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