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王元化「世界には寂しさを感じないこのような人がいる」1989年2月24日

王元化“世界上有這樣的人不會感到寂寞”載《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.1-3は1989年に予定された大陸での初版のために用意された序文。しかしこの初版は六四事件に到る政治的混乱の中で実現しなかった。この文章は以下にも収められている。王元化<懷顧准>載 《顾准追思录》中央编译出版社 2017年pp.13-16。

 p.1   顧准の《理想主義から経験主義へ》は発表のため書かれた著作ではない。これは作者がその兄弟の求めに応じて時々に書いたメモであり、時間は1972年から作者がなくなる1974年までである。私はこれが近年私が読むことができた中でもっとも良い本の一つだと言わねばならない(我要説這是近年來我所讀到的一本最好的著作)。作者の才気はあふれんばかりであり、見解は深淵であり(深邃)、知識は該博(淵博)、人を心服させるに足るものである(令人折服)。多くの問題を作者がひとたび提出すると、あなたはもはや逃げることはできない。それらはあなたに思考を促し、習慣的にあなたの頭の深いところにあるお定まりの見方の反省と検査検証を促す。この数日私は自分の書稿をまさに編集していた。(しかし)作者のこの本から啓示を受けて、私は自身これまで疑ったことのなかった観点につき動揺し、その章節を削除し書き改めることを考慮せざるを得なくなった。本書はこのような強大な思想の力量をもっているのである。
 もし私がこの本から得られる学べる所(教益)をデッサン(勾勒)するべきなら、私自身最も関心のある以下の題目を上げたい。それは作者のギリシャ文明の研究、中世騎士文明が引き起こした作用の探求(探討)、宗教が社会と文化に与えた影響の分析(剖析)、フランス大革命からパリコミューンまでの経験と総括、直接民主と議会制度の評価、奴隷制とアジア生産方式の論述(闡發)、ヘーゲル思想の批判と経験主義の再認識など。いずれも探索した人がとても少ないテーマについて、正確で透徹した見解(真知灼見)が示されたことは、人々を賛美敬服(贊佩)させるものだ。作者の論述は明快酣暢(明快で遮るものなく)、文章にはするどさがあり(筆鋒犀利)、竹を切るようにその切れ味は鋭い(快到破竹)。多くの夾纏不清問題(まとわりついてすっきりしない問題)は、彼の手にかかると、ただちに広く楽観的で(開朗)、明らかで調理しやすいもの(易燒)に変化する。私が思うに、これは彼が知力に優れ聡明で(稟賦聰穎)よく学びよく考えただけでなく、彼の運命があまりに不運で(多蹇)曲折の連続で(歷經坎坷)あったため、彼は困難な条件のもとで真理を勇敢な精神で追求するようになったのだ(以及)。これは彼の思考をして、本に拘泥(囿)せず、決まった規則(成規)にもとらわれないものとした。また革命、祖国人類の運命に対する深い思いに浸透(滲透)させた。ところどころで根拠なる事実がないことをはっきりp.2   示させ、独立精神を本当に知ることをもとめさせもした。彼は1917年から1967年まで半世紀の歴史に対して、理論の得失、革命の挫折、新たな問題の出現を含め、すべてについて真摯に思索をおこなった。彼の深い思い、熟慮から導かれた経験教訓が概括されて彼の理論思考の背景になっている。そこから彼のこの本は実際を結合した独特の卓越した見解の著作(獨具卓識的著作)となっている。この本を読了して私は、どのような力が彼を突き動かして本書を書かしめたのかと、思わないではいられなかった。考えて欲しい。彼はとても早く革命に参加し、新中国になって(解放後)間もなく「三反」整党の中で打ちのめされた(被打下去)。「文革」の前後2度にわたり「右派」帽子を被せられた、一度は1958年、一度は1965年に。私の知る限り、このような例はほかにない。「文革」が始まったあと、ただ一人彼を気にかけていた妻は自殺してしまい、子供たちは彼との縁を切る(劃清界限)に至った。彼は外界との交流を失い、ただ一人、孤独で苦しい生活を過ごした。遠く離れた地にいる弟との連絡として、彼は大量のメモを送った。この知恵と心血が詰まった文字を読むと、誰しも感動せざるを得ない。彼はこのメモを10年の大災難、あの暗黒の日々に書いた、励ましてくれる人も、関心を持ってくれる人もいない、著作を執筆する最低限の権利条件もない中で書いた。たとえ今日書いても、明日は埋没させられ(湮沒無聞)、ひょっとすると災いを招く(甚至招來橫禍)そうした中で書いた。これはそのような強烈な意思(毅力)(のたまもの)である。私はここから歴史上成功と失敗を考えることなく、屈辱と重い責任をむしろ引き受け(寧願忍辱負重),発奮して書物を表した人物を連想した。かつて司馬遷の『報任安書』を読むたびに内心に攻撃による傷(激蕩)がひきおこされた。まことに書物を広げ読み上げるだけで(真所謂展卷方誦)血液の循環が早まった(血脈已張)。中国文化を作り貢献してきたのはしばしばこのような苦しみや難儀を経験した人(飽經憂患之士)である。魯迅は屈原の《離騒》をたたえた:(中略)考えるに、本書の作者はこれらの文字を書く時、おおよそいつも、個人の浮沈栄辱に既に全く拘泥していなかった、それゆえ地位、名誉、個人の幸福、他すべてを超脱し、糸を吐いて死に至る蚕や、燃え尽きて灰になるろうそくと同様に、自己を完成する使命感と責任感のため、義のためには何も顧みず(義無反顧)、死して休む(気持ちであった)。それゆえ、神を造る運動が全国を席巻していた時、彼は最も早く覚醒し、個人の迷信に反対した人であった。(毛主席の言うことは)すべて正しいという思想が思想界に吹き荒れていた(風靡)とき、彼は最も早く教条主義を打ち破った人であった。この一点だけからいっても。、彼は私や私のような人を、完全に10年前に進んでいた。あの時代誰もまだ彼のようにマルクス主義の著作をあのように真剣に読まず、あのように深く考えなかった。誰も彼のように前提無く自身の信念を反p.3  省しなかった中で、大胆な疑問を提起した。振り返って私が見るところ、この精神が本書の最も美しい篇章を構成している。
 ここでついでに述べておくと、抗戦初期 わたしは江办省委員会の文委指導の下で工作していたとき、顧准は私の指導者であった、そのとき文委書記は孙冶方で、顧准は文委の責任者のひとりだった。私は自分がかつて彼ら二人のもとで文化工作に従事していたことを誇りに思う。私は顧准兄弟が書いた回顧文章を見た後初めて、孙冶方が50年代に提出した価値規律が、顧准の啓発を受けたことを知った。私が幸運に感じているのは文革後、孙冶方とは再び会い、かつ何度も会話したことである。しかし私と顧准は1939年に分かれた後、再び会うことはなく、音信も途絶えてしまった。現在私の記憶の中の顧准は、依然20歳の時の青年の面影である。王安石の詩にいう。「魂となったあなたを招くことはできない 遺稿を読んで風向き(情勢)を思う 世の中にはあまりに遠いと嫌うひともいるが それ(遠く広々としていること)が慰めになる人もいる」。そうだ、世界にはこのように孤独を感じることがない人がいる。私は顧准の遺稿を読み、ようやく彼の人となりを知り、彼の思想を理解したが、すでに時は遅かった。しかし彼がまだ生きていた時、どのような困難があったにせよ、私は彼に会い、かれに学問を教わることもしなかった。これは最後まで残念なことである。
                                                       1989年2月24日寒い夜に 上海にて記す

#王元化 #顧准 #孫冶方



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