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胡喬木 中國爲什麽犯20年的“左”傾錯誤 1992/05

胡喬木(1912-1992)は延安時代に毛沢東の政治秘書を務めた人物。1978年に中国社会科学院院長。この論文は1989年3月から4月米国訪問時の学術講演に手を加えたものである。書誌事項は以下のとおり。
胡喬木《中國爲什麽犯20年的”左“傾的錯誤》載《中共黨史研究》1992年第5期pp.1-4
保守派の代表のように言及される人だが、ここで述べられている分析はバランスがとれており、納得できる点が多い。六四事件の直前、アメリカでの学術講演の内容という点も注目。胡喬木は1992年に亡くなっているので事実上最後の発表論稿であろう。

p.1  中国が社会主義の道を選択した後の経済発展は曲折したものであった。比較的良好な経済発展の3つの時期があった。それは、1953ー57年の第一次五年計画時期、1961-65年の国民経済調整時期、1979年から現在までの改革開放時期である(この3つの時期の経済成長速度は、1953ー57年は1952年と比較して工業18.0%, 農業4.5%。1961-65年は1962年と比較して工業17.9%, 農業11.1%。1979-1988年は1978年と比較して工業12.3%, 農業6.5%。)。この3つの時期の経済発展の速度は過去の中国の歴史にもとよりみられないもので、世界でもまた多くないものである。もし過去40年この3つの時期のような状態で平穏に発展したなら、中国経済の現在の情況が疑いなくずっと良かった。
 しかし1958-1978年の20年間、まとめて言えば中国経済の波乱(動蕩)停滞の時期は、まさに中国の指導者のように言うなら、20年の”左”傾の誤りを犯した。1961年に開始された調整政策は1958-1960年の大躍進の失敗から救い出す(挽救)ものだった。調整政策自体は大成功だったが、しかし開始するや間もなく、中国はまず農村で後には都市に拡大して”社会主義教育”運動を進めた。この運動は一貫して”文化大革命”まで延長され、客観的にはまた”文化大革命”のための思想上政治上の準備となった、それゆえにその後期には”党内の資本主義の道を歩む実権派に反対する”とのスローガンが提起された。今この20年の歴史を叙述する準備はないし、またこの20年中の様々な誤りやひどい誤り(荒謬)の譴責を進める準備はない(中国共産党はすでに継続して動揺することなくこの種の譴責を進めている)、ただ以下の問題への客観的な回答を試みるだけである。ー結局、どのような原因からこの種の”左”傾の誤りは生み出され、またこのように長く続いたのか?
 以下私は5つの方面からこの事実の原因を探求する。
 ”左”傾の誤りを生み出した第一の原因は、第一次五年計画時期の成長速度をさらに上回る超高速度で中国経済を推進しようとの企図にあった、またこの速度は可能なものと考えたことにあった。理由は、中国には、共産党の指導があり、数億の貧困で落後した状態からの離脱を渇望する人民がおり、そして現在すでにとても役立つ(强有力的)社会主義制度がある、ということだった。中国の社会主義改造がすでに成功し、特に数億の農民が思いもしなかったスピードで合作社に参加したことから、中国革命の指導に20年以上成功してきた毛沢東は信じ込んだ、社会主義制度が群衆運動に加わることは万能の武器であると。彼は考えた、こうすることで、中国は間もなく西欧国家に勝つことが出来る、またそれほど群衆の発動を重視せず、群衆政治に依拠しないで経済を発展させたソ連にも勝つことが出来る。彼がみるところでは、第一次五年計画時期の中国工業制度と計画方法はなお多くソ連の影響を受けていた。中国は人類に多くの貢献をするべきであり、そのためには力を出して高い目標を掲げ、より早くより節約して社会主義を建設せねばならない(鼓足幹勁,力爭上游,多快多省地建設社会主義。上游:高い地位 これは八大の標語そのもの)。このような考え方はとても容易に党内の多くの群衆運動の経験と大量の幹部の呼応を得たのである。比較的堅実な指導者さえも同意に至り、ほとんど反対しようがないところに至って、新たな方法が試された。これが1958年の大躍進を生み出した。公平に言えば、大躍進はいくつかの個別領域で確かに若干の創造的な(開創性)事業を促進した。しかし全国民経済に対しては、重大な混乱と挫折をもたらした。大躍進は3年継続され、中国は苦汁をなめた。また全党が方向の改変で一致して同意するに至り、調整が実施された。
p.2  毛沢東はいかに経済建設を進めるかの知識がとても少なかったこと、さらに慎重さに欠けていたこと(盲目性)がとてもおおきかったことを認め、以後(毛沢東は 訳者補語)経済建設に質問することが少なくなった。しかし中国が社会主義制度の下で通常を超える速度で発展できるという思想は、少なくとも一部の指導者の中でそれほど簡単に消えなかった。毛が逝去したあとの1977ー1978年に発生した最初の新たな冒進、そして80年代中期以後の経済過熱現象、(これらは)まさにその明らかな証拠である。
    "左"傾の誤りを生み出した第二の原因は、経済建設は階級闘争から離れることはできないと信じたことだ。中国の50年代前半期は確かに階級闘争が充満していた。下中貧農が地主を打倒し、その後はまた合作化運動の先鋒を務めた。資本主義工商業の改造は平和的であったが、緊張した階級闘争の結果でもあった。1956年の共産党の”八大”は、階級闘争が基本収束したことを宣言した。しかし続いて間もなくハンガリー事件が起こり、1957年の中国ではまた反右派闘争が発生し大きく拡大した。これらはすべて階級闘争がまだ過去のものではないことの証明と考えられた。1959年の中ソ関係の悪化は中国にとり、修正主義に反対するスローガンを加える新たな意義を加えるものになった。1962年にこのスローガンは国内と党内で用いられ始めた。同時に社会主義教育運動が始められた。この運動は農村ひとつづつから、企業と経済機構に広げられ、最後に全国範囲の”文化大革命”に昇級した。経済領域のスローガンとしては、まずは「政治が経済を統帥する」、後には「革命を手に入れて(抓革命)、生産を促す」であった。この方針のもと、経済工作の目標、方法、指導人員と工作人員の選択、具体項目と指標の決定に至るまで、すべてが階級闘争の意義を含むものに変化できた。このような観念は今日からみると、不可思議に見えるが、当時は情況にも道理にもあっている(順理成章)と言われうるものだった。それは一定程度以上多数の人が受け入れできるもので、少なくとも表面上は受け入れているのだが、これは階級闘争の思惟の慣性と行為の慣性との影響によるものではないと言うことはできない(不能不説)。実際のところ(誠然)この種の慣性は、なにがしかの誤った論点により人為的に伸ばされていたのである。しかしこの種の慣性の作用の存在は否定しがたい。
    "左"傾を生む誤りの第三の原因は、ある種の空想的社会主義目標の追求にある。1958年の大躍進とともに、中国では共産主義の理想の狂熱(フィーバー)が生まれた。1958年出現した, 工農商学兵により、政治経済社会を組織内に結合した農村人民公社は、郷村のユートピア化を企図していた。農村人民公社はかつて共産主義の過渡の最もよい形式とかつて考えられた。都市は設置の外であったが、この事実は当時の共産主義の理想がよても単純(天真)だったことを表している。人民公社が実行する「供給制」とその外の統一分配の方法は、改められたが、この政社合一の農村機構は80年代に至ってようやく解散された。
 人民公社の空想的分配方法はとても容易に壁にぶつかったが、その自給自足の経済モデルは突破(衝破)はむつかしかった。人民公社は「商」も述べたが、実際上は自給自足を強調し、農村商品経済の発展を制約した。工業企業の生産構造とサービス構造とは、同様に程度は異なる自給自足傾向を有している。全国では中央統制があまりに行き過ぎていたので、権力の下放を実行したあとは、省一級地区に対し比較独立した体裁の体系を強めた。同時に中国は1956年に等級工賃(工資)制度を実行していたものの、長期革命戦争の伝統の影響もあり、物質利益原則に対して思想上ずっと抑制的態度をとった。人民公社の供給制の試みは失敗したが、分配で等しさ(平均)に近づけることはなお基本信条となっていた。これらはみな自然経済の色彩を帯びており、商品経済の発展に不利であった。
 人民公社と大躍進はいずれも群衆運動方式に依存して推進されるものだった。この種の運動が大きな割合で本当の群衆性を持つと論じないとしても、経済工作についてのその不適切さは容易に明らかだった(顯而易見的)。文化大革命が終わるまでに、群衆運動工作方式について中国は次第に社会主義建設の必需品でないと承認するようになった。
 1958年以後、中国経済工作が追求した別の一つの重要な主題は、革命化あるいは不断革命である。1962年以後、経済工作とそのほかの工作は同様に、反修正主義、防止修正主義、批判資産階級、資産階級の復活(復辟)防止を中心とするものだったが、この種の観念は、”文化大革命”の間に発展した、いわゆる無産階級専制下の継続革命理論であった。この種の思想によれば、国内では、人々はただ革命覚悟の追求を求められ、物質享受や社会富裕の追求はすべきでなかった。というのは「富むことは修正主義だから」。国際方面では、人々はただ帝国主義、修正主義、覇権主義への反対を求められた。世界情勢の構造(格局)は革命が戦争を止めるのではなく、戦争が革命を引き起こすものとされた。とても明らかなことは、社会主義の主要目標はもとより生産力の発展であるが、純潔な生産関係に変ぜられ、
p.3   純潔な国家権力と意識形態に変じられた。不幸であったのは、ここでいうところ「純潔」の実際の含意である。すなわちそれは実際に適合する原則の代わりに空想的原則を用いることだった。純潔の程度が高まるほど、経済がますます停滞することを意味していた。このようにして、毛沢東は、国民経済を行う上で四つの現代化を実現する志(宏願)を最初から最後まで放棄しなかったが、しかし事実は社会主義事業での経済建設の地位はますます低く、障害はますます多くなり、「革命を手に入れて生産を促す」は無内容な言葉になるしかなかったのである。
   以上述べたところの中国空想社会主義の目標がすなわち平均主義であること、自給自足、不断に群集運動を発動することと不断革命、つまるところ(これらの)源はどこにあるのか?私が考えるに、比較的実際に適合した解釈は、中国は農村を基礎に長期革命戦争の中で有効だった原則と経験、(これが)人をして新社会発展推進しかつ万能の准則になるとされた。共産党が農村革命戦争を指導して人民を団結させ、強大な敵とその他の種々の困難に戦勝したのである、なぜ同様な方法と精神で社会主義を建設してはいけないのか?革命の軍隊と革命根拠地で実行したところの供給制、官兵平等、自給自足、群衆運動と革命信念と原則は、革命戦争中不敗だった(負け知らずだった)、なぜ革命勝利後これらの原則を永遠に維持推進してはならないのか?党の幹部は経済建設の中ですでに新たな歴史条件が新たな原則を求めていることを学び始めていたが、伝統的原則は結局彼らには強大な吸引力がまだあった、あるいはより正確にいうなら、なお抜けがたい束縛力があったのである。
 ”左”傾の誤りを生み出した第四の原因は、1950-1970年代の国際環境の悪化と国際環境への過度の反応である。左傾の誤りは通常すべてある種の密閉状態の産物である。米国の中国に対する封鎖、包囲と軍事威嚇は、長期にわたり中国のすべてを臨戦状態に置いた。台湾の大陸反攻の企図は中国の危機感を高めた。50年代後期、中ソ関係は悪化し、60年代後期、ソ連は中国に足し軍事包囲と威嚇の戦略をとった。中国は全世界があたかもすべてが包囲をもくろんでおり、残された革命聖地を押しつぶそう(扼殺)としていると感じた。これが「大三線」「小三線」を含む全国範囲の「三線建設」を生み出し(地理的には一線は沿海部から東北に至る部分。二線は北京ー広州鉄道あたり。三線はさらに内陸西部を指す。大三線は三線のなかで国務院直轄のところ。小三線は省直轄のところを指す。訳注)、いわゆる「山、散、洞」の原則による地点選択になった。このような状況で、中国の建設は大いに乱れただけでなく、かなりの程度で中国の建設投資の分配や新工業の配置は不合理なものになったのである。しかしなんとしても、世界最後の革命の堡塁として、中国国内は高度に革命化せねばならず、かつ各種の国際主義的革命義務を負担せねばならない。このような献身精神は、中国共産党と中国人民が長期左傾政策に伴う困難をなぜかくも長く耐え忍んだかを一定程度まで説明している。
 70年代、米国とそのほかの西欧国家は中国に対する政策を大幅に改め、中国は連合国の地位を回復し、中国と世界の交流は次第に増加し、これは中国が七十年代末期に開始する改革のための外部条件を生み出した。
 ”左”傾の誤りを生み出した第五の原因は、中国の文化の遅れと民主の欠乏である。
 中国の経済政策の中には多くの明らかに幼稚性と極端性がある。これはすでに経済の遅れ(落後)の表現であり、また文化の遅れ(落後)の表現である。貧困はある種の貧困文化を生み出す。その典型的表現は、”工農業が未発達で文化科学の水準が低いこと(一窮二白)”を中国の長所(優點)として表現することである。この種の貧困な文化は、明らかに貧困を消し去る困難を加重する。1958年の大躍進と人民公社、1966-1976年の"文化大革命"、マルクス、レーニンの学説と社会主義原則に対する誤解、(これらは)すべてこの点を表わしている。革命戦争の長期発展過程において、中国農民の直接の貢献は確実に知識分子に比べて大きく多かった。大多数の知識分子は、当時資産階級と地主の側(方面)に立っていた。共産党に加入しまた党内で影響力のあった知識分子は、1927年の革命失敗時多くの人が革命に対する信心を喪失した。また革命復興の過程で、また多くの人が極端な左傾教条分子になり、毛沢東とそのほかの革命家の努力の成果(成效的努力)は重大な損失を被った。このような状況から、毛沢東と党の相当の数の幹部には、知識分子に対して、さらに教育、科学、文化そして知識それ自身に対する長期にわたる軽視と偏見とがうみだされた。これは分化や経済が容易に損害を受けやすい情況(容易被摧殘的境地)をうみだした。
   しかし左傾の誤りが生まれる原因は、一般的にも(無論)存在した。中国の左傾の誤り、特にその極端な形式の長時間の誤りは避け得たものであり、避け得ないものではなかった。社会主義中国は迅速に経済と文化を発展させなかったわけではなく、経済文化方面で指導者と広範な群衆の支持が欠乏したいたわけでもなかった。1956年以前、中国経済政策の左傾の誤りは存在しp.4   なかったと言えるかは、少なくとも明らかでない。この時期の中国の改革と発展は全体として言えば、実際から出発し人民の支持を得ていた。中国共産党は団結一致し、党内にはまた正常な民主があった。この時期、人民の中と党内政治において毛沢東の権威は日増しに高まった。1957年以後、中国の革命の任務はすでに完成し、社会主義のメインテーマ(主題需要)は、革命闘争から和平建設に転換した。この時、党内のある勢力(趨勢)は歴史の変化に適応し、実際から出発して継続して、中国経済を新たな制度のもとで安定して発展させ、同時に新たな制度を継続して完成させようとした。これは党内そして国内の大多数の人の願望であった。別のある勢力(趨勢)は歴史変化に適応できず、過去の長期革命路線(軌道)に沿っての前進の要求を堅持した。毛沢東は1959年前半と1961年から1962年前半、左傾の誤りの修正を指導あるいは支持した。彼の二番目の勢力の代表として動く意思(作爲)が上回った。このようにして彼は、実際から脱離し、群衆からも脱離し、個人の力と威信に頼らざるを得なくなり、最後には個人独裁(専断)と個人崇拝に至った。それでは、第一の勢力はなぜ1957年以後、その優勢を保てなかったのか?第二の勢力はなぜ個人の悲劇を民族の悲劇に変えてしまったのか。とても明らかなのは、これは制度の欠陥であり、国家民主と党内民主の強力な制度が欠けていたからである。そしてこうした制度の建設は複雑な歴史過程である。この種の(強力な民主的 訳者補語)制度が一旦建設されれば、個人独裁と個人による明らかで重大な誤りは発生しえないものである。大躍進の誤りは1959年に制止できたものであり、大躍進の1959-60年の継続は明らかに群集の支持(基礎)を持たないものだった。1966年に開始された"文化大革命”は、燃え上がったが次第に狂熱は冷め、党内にも社会のいずれの階級からも真正の支持を得たことはなかった、ただますます群衆の反感に会っていた。1976年の天安門事件は群衆の正確な判断を示すものだった(原文注 中国”左”傾の誤りの教訓を総括するにあたり、同時に中国で80年代にある重要な時に右傾の誤りを犯すことがあったことを同時に指摘しないわけにゆかない。この種の誤りは社会主義事業を台無ししかねない、もし制止されなかった場合には。この事実が表すことは、正確に”左”傾の誤りを正すことは軽々しく行うことではなく、必ず”左”傾にもまた”右”傾にも反対すべきだということである。本文はこの問題の議論を予定したものではなく、これは本題の範囲に入らないのであるが。)。
 中国人民と中国共産党が自己の意思を表現するにあたり、種々の条件の制限をうけてきたこと、種々の戸惑い、困惑、誤りがあったが、しかし客観的に人民共和国四十年の歴史を検討するなら、彼らが選択したところの社会主義が”左”傾の誤りと連携しているのではなく、経済進歩、文化進歩、政治進歩と連携していることを発見できるであろう。この種の根本趨勢は1949-1956年の中国、とくに1979-1989年の中国である。1979-1989年の中国の発展は特別に重要である。とくに中国が20年にわたる動乱と停滞の中から覚醒したからである。中国は過去の誤りをただし、さらに一段上へと、改革開放の新政策採用を決定し、社会主義に新たな血液を注入した。中国内外の新たな形勢がここに一つになった。”左”の傾向なお警戒が必要であるが、全体から言えば、改革開放は不可逆転であり、それは成熟した大人が放蕩を繰り返した若い時に戻れないのと同様である。(本文原載『学習』雑誌創刊号)

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