監獄大学 1927-1930年
『薛暮橋回憶錄 第2版』天津人民出版社2006年1月pp.15,17
p.15 当時私は甲監五号に収監されていた。同牢には鈡鼎祥同志と、浙江省委員会書記の張秋人同志がいた。張はかつて黄埔学校の政治教官で、世界革命史を教えていた。彼は1927年9月27日に杭州に到着し、2つの党の会議を招集した。浙江省委員会の改組を宣言し、党の工作を処理した。9月29日、西湖近くで、何人かの黄埔学校の学生と出会い、逮捕された。併せて野合した別の黄埔学生も連名で蒋介石に報告した。張は死を免れないと自身知っていたが、毎日5-6時間読書をし、かつ我々に一緒に学習することを求めた。毎晩彼は我々に内外の革命史を、一つずつを大変詳しく(歷歷如數家珍)講義した。ある日彼は方畢を読んでいたが、本を投げて耐えがたいかのように言った。「なぜまだ銃殺されないんだ?」私は驚いて聞いた。「なぜ間もなく死ぬとわかっているのに、毎日熱心に本を読むのですか?」張秋人は答えた。「共産党人は生きているなら一日革命工作せねばならない。牢屋の中で革命工作はできない。そこで毎日読書をする。読書が革命をするということなのだ(讀書就是為着革命)。」この言葉は私には終身忘れがたい戒めであり、一生忘れることのない教えになった。1928年2月7日、張秋人同志は私と鈡鼎祥に言った。君たちは鉄道労働者だが、「二七」大ストライキの歴史を知っているか? 我々二人はまったく知らないと答えた。夜の間彼は一二時間かけて「二七」大ストライキの歴史を詳しく講じた。これが彼がみんなに講義した最後の講義になった。この数日は旧暦の新年で、数日「判決」の呼び出しはなく、みんなの気持ちはまさに平静であった。2月8日午後、看守が張秋人に「判決」の呼び出しに来た。張は最後の時が来たことを知り、気持ちのこもった眼でみんなを見回したあと、ゆっくりと門を出た。規定により刑に先立って獄内の小法廷で本人確認(驗明正身)が行われる。裁判官が張に尋ねた。「お前の名前は何か?」張は高らかと答えた。「俺様は張秋人だ」。と同時に銃の前に一歩進み硯が置かれた机越しに裁判官に挑みかかった。刑務官が彼を取り押さえたが、彼は「共産党万歳」と叫び続けた。彼の声は刑務官をおびえさせ、同時にまた苦しむ友たちの琴線を震わせた。彼はこのような壮烈な行動で、我々に別れを告げたのである。
p.16 陸軍監獄はもともと管理はとても厳格で、大声で話すことさえすべて叱責された。(しかし)共産党員は死を恐れない、人はますます多く、危険を恐れない気持ち(胆)はますます盛んである。話をすることを許さないなら俺は歌うぞと。歌い始めるとき、看守がやってきて「監獄に入ってなお歌うとは、お前たちは命が惜しくないのか」とどなった。政治犯は彼の言葉は聞かず、全員が合唱した。看守は仕方なく、外に聞こえないように、少し小さい声で歌わせるしかなかった。最初は『ムーランの従軍』『蘇武牧羊』など当時の流行歌曲を歌った。あとには『インターナショナル』や『少年先鋒隊』など革命歌曲を歌った。最初『インターナショナル』歌えたのは二三人だけだった。互いに教えあい、間もなく誰もが歌えるようになった。
p.17 1928年の夏、特別法廷で続々と判決の宣告があった。私と同案の6人のうち二人はすでに釈放されていた。沈幹城の判決がまずあって、11年の収監となった。私と鈡鼎祥、丁継曽の三人は反省院入りとの判決であった。裁判官は私たちの自供を我々自らに見させて、その後、指紋を押させた。
p.17 当時の政治犯の大部分は知識分子であり、その誰もが読書したいと考えていた。百数十人の本を集めるとまるで小さな図書館のようで、互いに借覧できた。十数人の農民同志は字を知らなかったが、みんなが彼らに読書識字を教えると、半年もたつと多くは自分で自宅に手紙を書けるようになった。
私は陸軍監獄にいるときに世界語(エスペラント)を学びはじめ、ここ(反省院)で上海世界語通信(函授)学校に入学した。当時、ソ連では多くの人が世界語を理解しているとされ、世界語を学ぶ同志は少なくなかった。通信学校には図書館があり、世界語の書籍を借りることができた。二三十冊あるだけでいずれも小説だった。私は3ケ月で、通信学校を卒業しただけでなく、図書館にある蔵書をすべて読み終わった。学んでからようやく世界語を用いるところはとても少ないことがわかり、改めて英文を学んだ。半日外国語を学び、半日は外国語以外の書籍を読んだ。最初に4巻本のウェルズ『世界史綱』と『欧州近代史』1冊を読んだ。陸軍監獄にいたときに張秋人の講話を聴いたことから、17世紀における新興資産階級と資産階級化した新貴族とが指導した英国革命、18世紀における資産階級が指導し比較的に徹底したフランス大革命、19世紀における資産階級の指導が徹底せず最終的に失敗したドイツ革命、1861年のロシアにおける農奴制廃止、1905年における無産階級が指導したロシアの資産階級革命、(これらを)階級闘争の観点を用いて研究した。私は土地問題の解決にはいくつかの方式があることを理解した。資本原始蓄積の時期の英国は新興資産階級と新貴族が進めた「エンクロージャ(圈地)運動」は、公有の土地と農民が与えられていた土地(份地)を大規模に略取し、大牧場と大農場を建設し、毛織物工業(毛紡績業)の迅速な発展を可能にし、対外貿易や都市の必要を満たした、これは暴力手段をもって農民土地使用権を奪い、農民階級を消滅させる土地革命である。フランス大革命は貴族の土地を没収し、安い価格で農民に売り渡した。土地を得た多くは富農である。プロイセンとロシアは農奴制を廃止した。農民と農奴の人身依存関係を取り消し、土地を買い取り封建義務を買い取ることを許して、その後は雇用労働を大量に用いることで、資産階級化した地主経営や富農経営が発展した。ただロシアの10月革命だけが、地主の土地を没収して耕作する農民に分け与えた、まさに本当の土地革命である。このような知識は、私が以後、政治経済学や農村経済を学習するうえでとても役立った。
その次に私は王世傑の『比較憲法』を読んだ。また英語でフランスの『人権宣言』、米国の『独立宣言』、米国憲法を読んだ。これで私は各国の政治制度、大統領制、内閣制、各種の選挙制度などを理解できた。1979年10月に私は米国を訪問し、フィラデルフィアで米国憲法原本を見た。夜の宴会のときに私は教授たちに「50年前(1929年)私は牢獄の中で「独立宣言」を読みましたが、あのとき50年後にその原本をみることができるとは夢にも思いませんでした」と伝えたところ、教授たちはもちろん不思議に感じた。私が青年期に牢獄にいたことを知り、私にどの大学を卒業したのかと聞いた。私は「監獄大学」を卒業したと伝えて、牢の中で苦労して読書したことを話した。一人の教授が、あなたは何の罪を犯して牢にいたのですかと問うた。私はCommunisit(共産党員)と答えた。教授たちははっと(事の真相に)気がつき、話しの輪が広がった(傳爲奇談)。
反省院の中で私が最も読んだのは政治経済学だ。当時ボグダーノフの本はすでに鉛印刷本であり、私は繰り返し精読した。日本の河上肇の『資本主義経済学の史的発展』は再読し、同時にまた数冊の古典経済学と近代資本主義経済学の著作を読み、比較して理解を深めた。
私の知識欲はますます強くなり、いつも広く書物を読みたいと考えていた。モルガンの『古代社会』、ダーウインの『種の起源』(進化論)等を読み、さらに生物学、天文学の幾つかの名著を読んだ(1931年に南京民衆教育館で働いていたとき、3万字ほどの小冊子『天文常識』『生物常識』を書いている)。このようにして自分の世界観、宇宙観を少し豊かにできた。
特別反省院での(生活が)あと1年に近くなったとき、普通反省院に移送された。普通反省院では毎週数時間の授業があった。科目の一つは『三民主義』で教員は省党部から派遣され、テキストは周仏海の『三民主義の理論体系』だった。周はもとは共産党員で、のちに裏切って国民党に入り、汪精衛派の有名な「理論家」になった。抗日戦争時、汪精衛に従って漢奸になり、日本が投降した後、処刑された。彼の本はところどころで三民主義と共産主義を比較している。唯物史観を唯生史観と変えるなど共産主義を歪曲している。この本は典型的な反面教材で、そこから私はマルクス主義理論の認識を深めた。同時に私はさらに『中山全集』(孫文全集)を通読し、『三民主義』の英訳本を読んだが、これらの本は私にとって得るところがあった。
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