鄧力群 七千人大会 1962
鄧力群(1915-2015)の七千人大会のときの劉少奇の発言について書いた部分である。これもよく使われる話ではあるのだが、毛沢東などの会議での発言については、書面報告と口頭報告があり、またその内容がかなり違うことがある。口頭報告の内容として伝聞で伝わることが、正式の記録では見たらないことがままある。冒頭のところはその事情を説明している。つぎに劉少奇の問題の発言(口頭報告)の裏にある、彼の大躍進=大飢餓への反省の気持ちがかなり激烈でしかも強固であったことが、この鄧力群の記述から知られるのである。以下は鄧力群《鄧力群自述(1915-1974》人民出版社2015年356-357より。毛沢東と劉少奇の確執、劉少奇の悲惨な最期もよく知られた話ではあるが、とりあえず以下を参照。
ユン・チアン+ジョン・ハリデイ 土屋京子訳『真説毛沢東』講談社+α文庫2016年 下巻 343-363, 463-483
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鄧力群p.356
七千人大会が終わってから、少奇同志の口頭講話を整理せねばならなかった。この任務が私(の頭上)に割り当てられた。
すでに述べたことだが、大会前、少奇同志は工作報告の起草を担当していた。毛主席は言った、工作報告の起草が出来たら、それをみんなに送ってくれたまえ、みんなが意見を出し、訂正したあと正式に印刷発表だ。少奇同志は大会において、原稿を読む必要はないよ、自身で思うところ、解釈、表現(發揮)、強調するところ、(それらを)別途口頭説明していいよ。(毛)主席は自身、原稿を読む習慣がなかった。延安で開かれた七大、その後の多くの全国大会、原稿は七八回書き直し、印刷して全員にわたした。(しかし)大会では自分が話したいことを話し、表現し、解釈した。正式の原稿上は不徹底なところ、そして全く書かれていないことを。彼は少奇同志にもその世にすることを望んだ。かくして7000人大会では1月27日に印刷発表された正式報告(報告と称する)があり、同じ日にまた口頭講話がある。整理するときにあとから一定まで結論が(両者が 訳者補語)まとめられている。
かれの「口頭講話」中の話は、深く考えたがゆえに(感受深切)隨口而出(自然に言葉となったもので)多くはうなづかざるを得ない(難免不大中廳)。三面紅旗(社会主義化の総路線、大躍進、人民公社の三つを指す 訳者補語)に対して。三面紅旗はなお歴史の検証(考驗)が必要であり、現在いましばらくは三面紅旗を掲げないことにしよう,と話している。「三分天災,七分人禍」は農民の言葉だが、大会で話された言葉でもある。整理、改定の過程で、少奇同志は彼の家の会議室に我々を集めて会議を開いた。「大躍進」後の困難時期の餓死者の話に及んだとき、かれは気持ちが高まった(很激動)。当時話した幾つかは私に深く刻まれた。彼は言った。人が人を食べる、歴史上このようなことが生じたことは、史書に記載されるべきだ。私が国家主席であるときに、このような悲惨な現象が生まれるとは思いもしないことだった。我々がこのようなことを生み出したこともまた、史書の記されるべきだ!さらに言った。我々がこのような大きな誤りを犯したこと、人民にあのような大きな損失を与えたこと、これが我々の最初の総括(總結)だ。一度の総括では十分ではない、以後毎年、最初に立ち戻って総括するようにして、第二、第三、第四、五、六、七とひたすら10年総括を続け、我々の誤りがどこにあったか、教訓はどこにあるか、をはっきりさせ、総括
p.357
と実際との符合をはかり、教訓を正面から受け止め、大躍進の誤りを再び犯さないようにせねばならない。
国家主席を務める上で、人民が災難を受けたとき、この種の感情は、とても尊い。しかしこの話が毛主席の耳の中に伝わらなかったであろうか(伝わったかどうかは明らかではない。が直訳)。主席が聞けば、そして誰かが脚色誇張すれば(有人添油加醋 也説添枝加葉)、(少奇同志に 訳者補語)マイナスの影響を生んだのではないか。
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