胡耀邦 混乱期の地方行政 1962-65
胡耀邦伝 北京聯合出版公司2015年 319-386
陳利明 胡耀邦 修訂版 人民日報出版社2015 282-351
満妹 回憶父親胡耀邦 天地図書2016 262-301
湖南省の湘潭の第一書記 1962-64
胡耀邦は青年団中央委員会第一書記のまま、湖南省の湘潭(シアンタン)、そして陝西(シャンシー)省、という二つの地方の責任者(第一書記)を1962年から65年にかけて勤めている。いずれも大変扱いが難しい地方で、最後は文字通り体を壊して養生のため北京に戻っている。そしてそうして自宅で療養しているときに、文化大革命が始まっている。注目されるのは地方で責任者を務める間、胡耀邦が(まずは生産力を高めることだとする)自分の考えをもって、中央の方針に抵抗し(あるいは過度の階級闘争主義を抑えて)、それが文革で胡耀邦が批判される一因に流れになってゆくことである。
まず湘潭は毛沢東の出身地であり、ここを担当することは、党幹部の胡耀邦への信頼を示すものだった。
すでに述べたように、アルバニアに友好代表団を率いて旅行していた胡耀邦が中国に戻ったのは1962年10月18日。赴任地である湖南省に向かったのは11月10日である。このとき湖南省書記所の書記。そして併せて湘潭地方委員会第一書記となっている。省委員会で説明を聞き、関連する文書を読んだあと、湘潭への到着は11月16日。前任の湘潭第一書記は、のちに総書記になる華国鋒であり、華国鋒は、胡耀邦の赴任により第二書記に下がって胡耀邦を補佐している。華国鋒という人は農村の事情に詳しく、苦労をいとわない性格で、これ以降二人は湘潭の統治で協力することになった。ここで二人の信頼関係ができたことは、注目される。
さて当時の農村の問題はどこにあったのか。指摘されているのは、1958年以降、大躍進政策が推し進められ、人民公社化が進められた(そもそも公社化による共有制や共同労働化は半ば強制だった。公社化後は生産性を上げてもその成果は共有となるため、個々人の意欲が損なわれたと考えられる。個々の家庭での備蓄がなくしたことは、農村社会を弱くしたと考えられる。労働を基準にした分配は一見正しく見えるが、老人など弱者を切り捨てることにつながった。福光)。末端幹部の命令主義などの誤った作風などが重なり(末端幹部は政治的評価を上げようと、過大な増収予測、実態から離れた成果の偽造、問題の隠蔽、さらに成果の偽造するための命令・警察権の行使、さらに立場を利用した成果の横取りに励むようになった。問題を指摘する幹部は逆に中央の方針に逆らう右派であるとの政治的攻撃にさらされた。末端幹部が事実上警察権を保有し通信も抑えているため、彼らを批判することは困難だった。福光)、農民の積極性が損なわれ農業生産力が落ちていること、暗黙の戸別責任制が過半の農家に広がる一方、個別責任制(包産到戸)は単独経営(單幹)だとして批判されることとの矛盾が広がっていることなどである。これらの問題のために農民の積極性が失われ、農村の生産性は大躍進政策を進めてから顕著に低下していた。
(単独経営(單幹)は資本主義への道で集団経営が社会主義への道で、我々は社会主義の道を歩まねばならない、というのがこのときの中国共産党内の方針。しかし実際には、集団経営化が問題をもたらし、単独経営の維持が生産性を支えていることも明らかで、実際には暗黙に行なわれている単独経営をどう扱うかが政策担当者を悩ませていた。福光)
胡耀邦はこのとき1ケ月半をかけて10の県を回って聞き取り調査をしている。湘潭での方針として4つを定めた。糧食生産の強化、牧畜業の振興、経済作物の強化、最後に植林事業である(胡耀邦伝327-328 これは生産発展を第一とする方針であり、階級闘争第一とする毛沢東の主張と乖離するっものだったであろう)。単独経営問題については、山の中など住居が散在しているところでは単独経営を認めざるを得ないこと、また単独経営を改めさせるのに強制強迫命令をしてはならない、などの方針を1963年1月、劉陽での討論で述べたとされる(胡耀邦伝330)。
湘潭の場合は、生産隊のうち3割では個別責任制を実施している。個別責任制(包産到戸)が農業の生産性回復に役立つことは証明済みだった。したがって胡耀邦の言い方は、単独経営を実質的に保存し、場所によっては肯定するものである。つまり胡耀邦は、誰もが反対しにくい形で、個別責任制が広がっている現状の固定を図ったのではないか。
1963年2月 毛沢東は中央工作会議で農村での社会主義教育と都市での五反問題を提起した。これは汚職、投機(投機倒把トウチダオバ 暴利をむさぼること)、浪費(鋪張浪費プーチャンランフェイ 浪費の限りをつくすこと)、分散主義、官僚主義に反対するというもの。毛沢東の意図は階級闘争の強化拡大にあったと思われる(胡耀邦伝338-339)。
これに対して胡耀邦は、問題のある幹部はおおくはないし、その教育には時期を選ぶ必要があり、その方法も教育という穏当な方法であるべきだ。というもの。そこで提起したのは、四査四幫(スーチャースーバン)という運動。幹部による、貧農、下中農の状態の把握、生活や生産の把握、大衆と幹部の関係、幹部の負担などについて、調べるとともに、基層幹部を支援するというもの。結果として、幹部の不正が若干摘発され、多くの幹部の負担は軽減され、大衆も満足し、大きな乱暴を起こらなかった(胡耀邦伝339-342)。これも五反運動と現実とを調整する方法だったように思える。力点を基層幹部への支援に置いたこと、運動を教育に重点を置いたことなど、賢明な判断に思える。
1963年5月。毛沢東は杭州で各大地域の書記を招集した小型会議を開催して、階級闘争を強調し、その手法として四清運動(政治、思想、組織、経済の4つを清くするという運動)を提起した。またそのあとは十条と呼ばれる文書の学習が提起されている(胡耀邦伝342-343)。
杭州会議のあと、胡耀邦は湖南省の幹部大会に出席して、杭州会議の精神を伝達し、まず四清問題の研究を促している。そして十条については、基層幹部と大衆に大会を開いて、読み上げるなど十条の学習が下層まで届くように徹底させた(これで十条の問題はクリアされている)。
四清については、幹部会を開いて、その精神は公私を分けることにあることを詳しく説明。ただ大事なことは自ら自覚して清理することで、徹底して自己批判して弁済すれば、処分を与えないこと。四清の範囲は、一般の社員まで拡大しないことも文書で明示した(胡耀邦伝344-348)。これは幹部に率先して自己批判することを勧めている。その趣旨だが、処分することを目的にせず、幹部が自覚を高めることに重点を置いているといえるのではないか。
この胡耀邦のやり方は、1963年1月に出されている「中央の社会主義教育運動中、乱暴すること(打人)を厳禁する通知」の精神には合致している(胡耀邦伝350)。またこうした運動にありがちな、乱暴、行き過ぎた強迫などを防止し、当面の重要な問題である生産の改善に人々が時間を割くことに貢献したと考えられる。
陝西省第一書記 1964-1965
1963年後半から1964年にかけて、この時期についてはどの本でもあいまいである。ただし1964年6月に中国共産主義青年団第九次全国代表大会が行われた。この前に青年団第一書記辞任を毛沢東に申し出たが毛沢東に拒絶されたと満妹はしている。そして、湘潭に戻る準備をしているときに、1964年11月、中共西北局第三書記、陝西省第一書記に発令されている。(ということは湖南省での行政は中央から評価されたのではないか。福光)
陝西省は、生産水準の低迷が続いていること、農民の生活水準が低いこと、自留地が多いこと、文盲率がたかいこと。などのほか、高崗,彭德懷,習仲勛と陝西の指導者の失脚が続いた点で特殊であった。「四不清」に絡んで1964年に逮捕者6470人、拘留者5000人余りも異常に高い数値ではないだろうか。
胡耀邦伝は、この状態をみた胡耀邦は、幹部を過度に処分することは、必ず将来に問題を残すとして、三つ(解職・党籍喪失・逮捕)の暫時停止を決定したとする。
その後、胡耀邦は12月から1月、北京に戻り工作会議に出席している。ここで胡耀邦は西北局・党中央に対して、陝西の状況を書面で報告し支援を求めている。さらに周恩来や李先念に面会して、糧食買上げの割当量の軽減、化学肥料工場の建設などを願い出ている。
1965年1月に入り、中央書記所が二十三条と呼ばれる文書をだしたが、そこには、多くの幹部は良いか比較的良いこと、大量の幹部はできるだけ早く解放されるべきことなどの記述があった。これを受けて、胡耀邦が出したのが四条意見である。それは、過度に重い処分をした幹部への軽減措置、停職中あるいは解職処分未決の幹部の復職などからなる。そしてこの四条意見に従った措置が省内でとられた。しかしこの四条意見は、西北局から中央にあがり、中央幹部の批判的関心を引き起こした。
また容易に想像できることだが、胡耀邦のこれらの発言や行動は、省内や西北局で社会主義教育運動や四清運動を推進している側の反発を引き起こした。そして胡耀邦の発言は集められ批判が準備された。
しかし胡耀邦は、自身の信念に従い、さらに前に進んだように見える。胡耀邦には1月28日には文芸批判、学術批判の停止を決定した。また2月12日には、政治思想では大きく、生産の指導では寛く、経済政策ではさらに活きいきというように、自身の統治の姿勢を大、寛,活の三文字で示している。
実は胡耀邦を批判的だった先鋒は、西北局の劉瀾濤だった。彼は彭真,楊尚昆らの同意を得たうえで、西北局拡大会議を開いた(3月10日開始)。この会議で胡耀邦は猛烈な批判にさらされた。胡耀邦は3月17日、クモ膜下出血、肺気腫などを併発し、緊急入院となった。このあと、胡耀邦を欠いたまま、胡耀邦は階級闘争をしなかった、革命をしなかったなどの批判が拡大会議で続けられた。
5月になり西北局の指示で陝西省の工作会議開催がきまり、胡耀邦はその準備に加わるが、ここで思いがけないことがおこる。劉瀾濤自身が頭痛で倒れ、休養期間の西北局責任者に胡耀邦を指名するのである。
結局、当事者がともに倒れるという、この複雑な状態の解決は鄧小平の裁定に持ち込まれ、鄧小平は西北局の工作会議を胡耀邦が主宰することは強くは求めない、いずれ中央工作会議のときにでも、劉瀾濤、胡耀邦と一緒に話そうとして、問題の決着を後送りにした。
6月の陝西省工作会議に西安視察に現れた葉剣英元帥は、胡耀邦がすっかり痩せた様子をみて、陝西省が今年豊作なのは君の成果だと慰めた。その後、葉剣英は胡耀邦に見送りにくるように、さらに飛行機の中に入ることを勧め、胡耀邦が席に着くや、離陸を命じ、胡耀邦を北京に連れ帰った(満妹の記述によるが、しかしこれでは拉致になりかねない。胡耀邦伝が伝えるように葉剣英があらかじめ胡耀邦を説得、西北局の了解を得て北京に帰ったという筋書きの方が自然だと思える。)。
胡耀邦はその後、北京で療養を続けるが、西北局は胡耀邦批判の文書を中央に複数回上げている。1965年10月18日、胡耀邦は党中央から呼び出しを受ける。呼び出したのは、鄧小平で、西北局と胡耀邦との争いについて、処分とか結論はいずれも必要なし、ただし陝西省第一書記は交代というのが鄧小平の申し渡しの内容だった。
かくして療養しているときに、「文化大革命」が開始された。
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