顧准 科学と民主 哲学上の多元主義 1973年春
顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社·2013年pp.109-113.
ここで顧准(グウ・ジュン 1915-1974)は、科学技術と民主主義との関係について、科学精神がすべてのベースになることを主張、また科学精神の別の表現が、哲学上の多元主義だと述べ,それをさらに政治上に及ぼすことを主張している。(写真は占春園で見かけたヒメジョオン。2020年6月6日)
顧准 レーニンの誤り 1973/04
p.109 科学と民主
一、科学精神の上に立脚した民主だけがしっかり頼れる民主である
民主の解釈は多種多様でありうる。ある人は民主を解釈して、説得(説服)方法が強迫的方法でないことだという。これはつまり説得者が保有する見解が永遠に正確で、問題はどの正確性を他人がその正確性を理解していないことにある。この種の正確な見解の方法を貫徹すること、強迫と説得の区別があり、説得する方法は、これがつまり民主的方法であると。では説得する人の見解はどうして永遠に正確でありうるのか?なぜならかれは「集中させる」方法を採用し、群衆の正確な意見を集中しているから。
ある人は民主を解釈して、下級の人が自由に上級の決定を深く討論することだとし、かつ動員群衆の積極性は、群衆に主人の感覚を強める方法だと指摘している。この定義は同時に少数が多数に服従することを強調して、反対派の存在を許さないとしている。この種の民主の解釈、そして上に述べた酒類の解釈方法は、ともに民主集中制を最高原則とするもので、実際上は両者はともに権威主義であり、民主主義ではない。
権威主義に反対する民主主義者は、通常、政治上反対派の保留が必須であること、両党制を実行することを主張しているが、しかし両党制の実際状況はこうした民主主義者の幻滅をもたらした。というのは両党制はただあなたに二者択一を許すだけで、結婚のように、選択候補はただ二つだけである。一つがだめなら、もう一つを選ぶしかない。二つとも気に入らないなら、独身を貫くまで(打光棍)-公民権を放棄して。この二つの党はしばしば内容は変えずに形をかえて(換湯不換藥)あなたの選択に合わせて歌い技を演じる。この種の民主は、飾り立てられているが、欺瞞的だ。ごく普通の人(芸芸衆生)は秩序のある生活を好むものだ。強力な権威の存在は、この種の秩序を保障する。ソ連人がスターリンを懐かしく思うのは、この種の感情からである。
p.110 再びいう。それゆえに民主を科学の前面に置けと主張する。なぜならただ民主が科学研究を発展させることができ、(民主は)科学を圧殺することがないからである。しかしここでこの一方面の話を少し見ると、前面の二種類の民主、また民主集中制は、この点で行えることがとても少ないのである。たとえば我々の原子爆弾と上空の(人工)衛星は、あきらかに民主集中制のもとでできたものである。ソ連の軍事科学、いや、武器科学、さらに多くのその他各部門科学、(その革命以来)50年来の発展はとても良いものだった。次のように言える。このような制度の下で科学研究が障害をうけたとすれば、それは人文科学の哲学(において)である。というのはこの領域は、まさに権威が保留される、独占的判断権の領域だからである。しかし、権威は集中されるためには、集中できる意見の源泉があり(その源泉は)開門もできるものである。しかし門が常に大きく開かれてなければ、その量は半開門の時の量を超えないだろう。
私は半開門には賛成できない。私は完全な民主を主張する。というのは科学精神はこの種の民主を要求するからである。
私が言う所の科学精神は、どれか一つの分野の科学上の達成を指すのではない。ではなくて(1)人の、自然、人類、社会に対する認識(の進展)は永遠に止まることがないことを承認する。(2)それぞれの時代の人は、すべて人類の知識の宝庫に(新たな)一点をなにか付け加える。(3)これらの知識に尊卑貴賎の区別はない。糞の池を研究する人も、国際関係、軍事戦略を研究する人も同等の価値、同様の崇高性があり、清掃の労働者と科学者、将軍もまた同様である。(4)ある部門の知識の一つの進歩は、小さいものであれ大きいものであれ、全て部分から全面に至るものである。前の一時期に不完全だった知識Aは、次の一時期にはより完全な知識Bに置き換わり、その次の時期にはさらに完全な知識に置き換わる。Aを根にして次第に発展したといえる。だから正しいか間違っているかの区分は、永遠に相対的である。(5)それぞれの部門系の知識技術は、その時代ごとに権威のある学説あるいは工芸制度がある。しかし皆が必ず無条件に承認すべきなのは、このような権威に挑戦(違反)してるか超越している探索や研究のみが、継続進歩を保証できることである。それゆえ権威はないわけではないが、権威主義は必ず打倒される。この点はどの領域も例外ではない。
深く言えば、これらは単に学術自由、思想自由についての老書生のいつもの議論というだけではない。学術自由と思想自由が、民主の基礎であり、(自由は)民主に頼って存在できるものではない。それゆえ、根本を述べるなら、民主は単に方法ではなく、根本の前提は進歩である。権威主義が進歩を押しつぶすかもしれないことを見れば、権威主義と科学精神は火と水(の関係で)相いれない。(そして)民主は(科学が)必ず採用する方法である。
おそらく反駁できてこう言える、民主のためにというのは科学の前提である。この種の反駁は
p.111 なお力のあるものだが、上で論証したのであるから、循環論法になっている。あなたが民主を前提とすることもできるし、いわゆる科学精神を前提とすることもまたできる。しかし私は思うのだが、民主を前提とするのは、一種の危険を避けがたい。人は民主集中制を民主だということができる、またあなたになにがしか「民主」を授けることもできる、権威主義に実質を保留したまま。反対に科学精神を前提にすると、「集中から」の神話を打破することができる。貴方が主張する「集中から」は群衆の中の正確な意見からということで、あなたが帰納で得た結論は百が百正確だと主張している。しかしあなたの帰納は、別の人の帰納と比較できないもので、あなたは帰納で間違っていないと保障できるのか?この種の帰納は、しばしば「意見は本物、相談はみかけ」である。このように見てくると、ただ科学精神が人類の進歩を保証するのに足りるものであり、ただ科学精神だけが権威主義と権威主義のもとでの授けられる民主を打破することができる。
二、哲学上の多元主義
実のところ、いわゆる科学精神、はすなわち哲学上の多元主義の別の言い方である。
哲学上の多元主義は、絶対真理の存在の否認であり、第一原因といった事物、宇宙、人類の終局の目的の否認である。世界はこのような世界であり、この世界の主人は人類である。人類を主人と考えないなら、この世界の認識は不要である。人類を世界を認識するのは、人類の環境を改善するためである。人類がどのような状況から現在のこのような情況に至ったのかは、まさに多くの科学が研究を進めているところであり、これはまた人類が不断に認識を拡大している領域の一つである。しかし、人類が万物の源であると言ったり、人は神(上帝)が創ったものだと言ったり、人類の終局目的は地上の天国を作ることであると言ったり、などなどは、すべて早期人類の認識であり、すでに現在さらに進歩した認識に置き換えられている。現在、人々が認識しているところでは、人は、世世代々の努力により、一点一滴の蓄積により、その環境を改善してきた、さらに改善を進めねばならない、改善の程度には限りがない。歴史上多くの偉大な人物がかつて改善の目標を考えたが、たしかに多くはすでに超えられているからだ(例を挙げると、エンゲルスが取り上げた暖房設備のある建物、社会主義を作る目標、これらはあきらかに達成された)。それゆえにすべての第一原因、終局目的の発想、これらはすべて排除されるべきだ。第一原因と終局目的は、まさに哲学上は
p.112 一元主義の、そして政治上は権威主義の根拠である。
代替は哲学上の多元主義であるべきである。事実上、すべての唯心主義、唯物主義、唯利主義、経験主義、あらゆるすべての人類の思想は、すべてかつて、人類あるいは人類の一部が判断する段階に特徴を示されて、すべてはかつて人類が進む目前の情況に積極的貢献をしたのであり、最も有害な思想もまた思想闘争を進めたのであり、思想闘争がなければ、明らかに進歩はない。
人類の進歩は一種哲学上の一元主義だと主張することが許されよう。レーニンは相対主義に反対し、相対は主義として、一種絶対化主張であるとこのように論証した。当然、この種の反駁は禁止できない。しかし、人類の進歩を主張することは、人類の進歩を主張し、科学精神と多元主義を主張することであり、何か終局目的を主張し、一元主義や権威主義を堅持することと同じではない。もしあなたがわたしもまた一元主義だというなら、それを承認してもいよいが、私の一元主義は多元主義的一元主義である。
哲学上の多元主義は、一切の科学研究と価値判断の中を貫徹させて進ませる必要がある。これは孔子の尊卑貴賎の倫理常識礼儀道徳(倫常禮教)を打ち破るもっとも有力な武器である。ただこのようであることで、国家元首は正しく公衆に服務する人(公僕)であり、皇帝ではない。
哲学上の多元主義は、政治上又貫徹するのは多元主義である。そこに各種の政治主張が存在して良いし、政治批評―それぞれの立場の政治批評ーがある。これは当然、当時みんなが承認している一種の政治制度、たとえば我々の社会主義制度はない、というのではない。しかしこの種の制度はいつ何時でも(現在より改善できるなら)絶対さらに改善されないということはない。改善されるには批判を受ける必要がある。それゆえ、それは多元主義的である。
政府の形式については、みんなを主人とすることはできないように見えること、それは無関係だ。というのは人類社会は現在まで発展し、高度の分業は避けがたい。分業を消滅させることは、100年余りの歴史が空想であることを証明した。政治家が存在し、政治家とエンジニア、そして清潔な労働者と同様に(政治家がすることは)一種のサービスである。「時代の知恵、栄誉と良心」ではなく皇帝でもない。
加えて、経済高度発展状況の下、職務の格差(差別)、収入や特権で表現される格差はますます小さくなる。西欧資本主義国家はまさにこのように発展している(君はこれを神話のようだと聞くだろうが、これは事実だ)。そこの(西欧の)経済学は、たしかになお毛沢東思想の反響があり、彼らは後p.113 世代(傢裔)の不平等(公爵時代、資本家の遺産、すべて後世代の不平等を生み出す)貢献(功勛)の不平等をいかに縮小するかを検討している。しかしここになおマルクスの命題が適用される、物質の必要は、豊富であればうまくゆく。
事実上、私有財産権は全世界の知識界で等しく非難された(鄙棄的)。不幸にして、私有財産権が保存された西欧で、労働者の生活はソ連に比べてなんとより良い。それゆえ10月革命は全世界で十分人心を揺り動かしたが、1945年以後、トリアッテイでさえまたむしろ構造改革の道を歩んだ(訳注 イタリア共産党のトリアッテイが、第二次大戦後、議会制民主主義の枠内で、政治経済構造の改革を唱えたことを指している)。トリアッテイは正しい。もしかれがチェコスロバキアの道を選んだなら、イタリアの労働者は彼に不満を抱いたろう。しかし西欧では、私有財産権の地位は現在も決して安定しておらず、少なくとも日増しに弱まっている。
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