Cai Yuanpei 蔡元培 1863-1940
By Amy Tikkanen
Britannica
1863年1月11日浙江省山陰(今日の紹興)生まれ。1940年3月5日香港で亡くなる。教育家にして革命家。北京大学校長(1916-1926)。同大学が、中国における、民族主義と社会改革という、新たな精神の発展において主要な役割を演じた決定的な時期に北京大学校長を務めた。
蔡は1890年にもっとも高位の科挙に合格し、帝国の試験制度の歴史の中で最も若い有資格者の一人になった。1904年に彼は、革命団体であり清王朝の転覆を目指す光復会の組織化をして初代総裁になった。 このグループのほとんどの人は、革命の指導者孫中山により1905年に設立された同盟会に関係するようになった。そして蔡は党の上海支部の代表になった。
2000年の歴史のある中国の帝国制度の転覆に続き、中華民国の暫定大統領として孫中山は、1912年1月、蔡を教育大臣に任命した。6ケ月後、大統領職は軍の専制者袁世凱に渡され、蔡はポストを辞して渡欧した。そして1913年の短い中断を除き、1916年までヨーロッパにとどまった。この間を通じて蔡は勤工儉學work-study programを組織した。2000人以上の中国の学生と労働者がフランスに渡り、学校で学び工場で働いた。パリにおいて共産主義者の最初の細胞組織に貢献した周恩来を含む多くの将来の中国の指導者たちが、このプログラムで訓練を受けた。
1916年に中国中央部の浙江省の知事ポストをまず断ったあと、蔡は中国で最も権威のある学校である北京大学の校長chancellerに任命された。この大学は五四運動ー1919年に中国に対する帝国主義の搾取に反対する学生のデモとして始まり、国民運動にまで高まったーの中心としての役割を果たした。当時、北京大学図書館で働いていた若き毛沢東を含めて、中国の将来の指導者のほとんどが、この時、この大学に関係していた。
蔡は1923年にヨーロッパに向けて旅立った。1926年に蔡は中国に戻り、中国を統一するため、国民党Nationalisitsの北伐を支持する革命活動に参加した。1928年に蔡は中国最高の学術研究調査機関である中央研究院Academia Sinicaの初代総裁になった。1935年に蔡はすべての公職を退き、上海に隠居した。