胡耀邦 科学政策の作成と挫折 1975-77
《“文化大革命”簡史 3版》 中共黨史出版社 ,2006年
中國科學院《胡耀邦在中國科學院》科學出版社,2012年
《胡耀邦(1915-1989)》北京聯合出版公司,2015年
中共中央黨史研究室著《中國共產黨的九十年》中共黨史出版社,2016年
1975年7月17日。鄧小平から華国鋒さらに胡耀邦へ、郭沫若を組長とする一団を率いて、科学院の再建(整頓)し、速やかに科学技術工作を進め、国民経済の後退を食い止めることが指示された。さらに現状を把握して国務院に報告すること、科学発展計画を作成すること、科学院(再建)の核となるメムバーの名簿を作成すること、が指示された(写真は吉祥寺経蔵欄干木彫絵。経蔵は文化元年1804年の再建。)。
1949年11月に中央研究院、北平研究院など国立研究機構を基礎に設立された中国科学院は文革直前には105の研究組織、22000余りの研究者、全体では6万余名の人員を擁する大組織であったが、文革によって大きな被害を受けた。一部の研究組織は廃止され、1973年には人員は3.5万まで縮小した。北京植物園は封建的、資本主義的、修正主義的などの罪名で1970年に廃止され、植物園は中央警衛部の農場とされた。農場とされなかった温室などは荒れるに任され、多くの貴重な標本が失われた。150人あまりの規模があった心理研究所は、心理学が偽科学とされ資産階級に奉仕しているとの罪名で1969年に廃止され、所員はすべて教育として農村に強制労働に追いやられた。科学院で迫害致死が認定されている人は229名に及んでいる。その多くは中国でトップレベルの科学者であった。つまり中国科学院は、文革の被害が深刻であった組織の一つであった。
科学院での胡耀邦の行動の記録(胡耀邦整頓科学院記事)によると、胡耀邦の行った活動は主として二つである。一つは「匯報提綱(総合報告とりまとめ)」の作成。もう一つはそしておびただしい数の座談会である。座談会ではできるだけ多くの人の意見を聞き取り、状況の把握に努め、報告とりまとめに生かされた、と考えられる。またそれだけでなく、胡耀邦として意見を伝えている面もある。8月26日計算技術研究所全所職工大会での講話では、審査においての誤りを曖昧にせず、真偽を確かめ名誉回復すべきことを訴えている。9月18日半導体研究所の幹部座談会では、「知識が多いほど反動的」というのは誤った議論だとして、研究所は科学研究の第一線であるとして、勉強に励むべきこと、さらに基礎理論研究が大事だがそれは毎日催促するものではないこと、国際的な新理論、新技術に組織をあげて取り組むことを励ましている。
9月30日から10月14日。胡耀邦はこの間に科学技術情報研究所が刊行した『科技参考資料』などを読んで、先端の科学技術情報を集める機能の重要性を理解したように見える。
この間、10月6日には、文革中は唯心主義的偽科学とされ、二人の心理学者が迫害致死され、一度は解散させられた心理研究所の座談会に臨んだ。ここで胡耀邦は、マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東などが、心理学や自然科学者について、何を言っているかを把握することから始めることを提案している。と同時に、学術問題では正確、客観的であること、(議論は)大量の材料によること、軽率に批判をしたりレッテル貼りをしないことを強調している。
「匯報提綱」の方であるが、これは内容としては、科学院のことだけでなく、科学技術政策、知識人政策などに言及している。文書は何度も修正を繰り返し8月17日に第三稿が鄧小平に提出されている。9月2日に第四稿。9月26日に胡耀邦が行う国務院会議に提出されたものも第四稿。9月28日に第五稿。9月30日に鄧小平がこの五稿を毛沢東に転送し、報告したところ事件が起きる。
毛沢東は文中にある、「科学技術は生産力である」といった話を自分はした記憶がない、といいだしたのである。この毛沢東の問題は、結局、毛沢東の語録などを削除する形になる。改められた第六稿が鄧小平に届けられるのは10月27日である。他方、この時期、国務院政治研究室では鄧小平の講話を集めた、《論全黨全國各項工作的縂項》を起草していたとされる。胡耀邦の文書と併せて、重要な政治的文書が用意されつつあったともいえる。そしてこの9月から10月、毛遠新や「四人組」からの誤った情報もあって、毛沢東は心変わりをして、再び鄧小平を避けるようになったとされる。結局、この第六稿が鄧小平から毛沢東に再度おくられることはなかった。
清華大学の党副書記劉冰が学内の乱れている様子を胡耀邦に訴えてきた。劉冰は青年団で胡耀邦の部下だったことがあった。胡耀邦は清華大学は科学院に属した組織ではないとして、鄧小平に手紙を出すことを勧め、手紙は鄧小平から毛沢東にさらにわたった。この手紙を見た毛沢東は、手紙の動機は不純で、文化大革命に反対するものだとして、右傾に反撃する闘争を開始するとした。このとき、毛沢東は、鄧小平への信頼を急に失うのであるが、その一つの背景に、胡耀邦の科学院での動きがあることは間違いないだろう。
記録をみても明確ではないが、1975年11月半ばの時点で、鄧小平は事実上失権。あるいは毛沢東とコンタクトをとれない状態になっているように見える。またこの時点で、胡耀邦批判の先頭を走っていたのは清華大学。12月初旬に胡耀邦は科学院の仲間を連れて、清華大学の大字報(壁新聞)を見にいっている。清華大学が四人組の重要拠点だったことは記憶されてよいことだろう。科学院のなかにも、四人組に同調する人物が現れた。筆頭は柳忠陽という人物。柳忠陽らはこのあと1976年7月にかけて、科学院内部でたびたび集会を開いて、胡耀邦たち「匯報提綱」作成にかかわった幹部を、資本主義の復活をはかったとする批判を繰り返した。
では「匯報提綱」で実際に何が語られているのだろうか。科学技術研究と政治との分離である。科学技術の人々に、研究業務に専心させない、外国の文物を学ばせない、のは政治的に誤った方向だとしている、としている。入手した第3版から印象的フレーズを引用する。
「我々は外国崇拝にも盲従にも反対だが、排外主義や閉じこもることにも反対である。外国のすべての良い経験、良い科学技術をすべて吸収して、我々の役にたてるべきである。」(我們既要反對崇洋迷外,盲目照搬,又要反對排外主義,閉關自守。要把外國的一切好的經驗,好的科學技術,都吸收過來,為我們所用。)
「国際科学界と積極的に友好活動を行い、あらゆる機会を利用して、科学技術上の多くのものを吸収するべきである。」(必須積極開展國際科學界的友好活動,還要爭取利用一切機會,在科學技術上多吸收一些東西。)
「我々の政治工作は、もしそれが科学技術の人々を世界のトップに押し上げていないとすれば、方向がまちがっていたのである。もし研究業務に専心することに反対したり、科学技術者を専心させていないとしたら、間違った方向にあったのである。」(我們的政治工作,如果不把改造科技人員的世界觀放在首位,那就犯了方向錯誤;如果是反對鉆研業務。同樣也是犯了方向錯誤。)
このあと1976年に至る展開、そして1976年という年の展開は複雑である。1975年12月16日、多くの冤罪事件を作ったとされる康生がなくなっている。続いて1976年1月8日、四人組を抑える役割をしていたともされる周恩来がなくなっている。1月15日に行われた周恩来の葬儀では、鄧小平が弔辞を述べている。2月2日、毛沢東の指示を受けた中央政治局の通知により、華国鋒が国務院代総理とされている。2月25日、中共中央の会議で華国鋒は、鄧小平同志の修正主義の誤った路線を批判するとの講話を行っている。
3月下旬から天安門広場に群集が集まり献花する動きが生じた。4月4日には集まった群衆の数は200万に達したとされる。5日夜、華国鋒は中央政治局会議を開き(鄧小平、葉劍英,李先念は欠席とされる)、天安門での事態を反革命事件と断定。花輪や掲げられた標語の撤去を決定。1万余りの民兵を出して、群衆を駆逐、殴打の上、逮捕した。7日夜、毛沢東の提議による中央政治局決定により、華国鋒が第一副主席、国務院総理に就任すること、他方、鄧小平のすべての職務の廃止が全国に放送された。
1976年7月6日 朱徳がなくなっている。
7月28日 唐山地震。死者24万2000人。重傷者16万4000人とされる。人民解放軍10万余り、2万余りの医療関係者が現地に派遣されたとされる。
9月9日 毛沢東がなくなった。83歳。9月18日 天安門広場で追悼大会が開かれ,弔辞を華国鋒が読んでいる。
9月19日 中央政治局会議で江青が毛沢東の文書、檔案、書籍を毛遠新が処理する(清理)事を提案。議論ののち、中央辦公廳が封鎖保存することになった。
9月29日 中央政治局会議。ここで張春橋が、党中央の指導を江青に任せることを提案。また中央委員でない毛遠新に三中全会報告をさせることを提案。激論ののち、後者は中央政治局で研究解決することになった。
10月6日夜 華国鋒、葉劍英らを中心とする中央政治局が、四人組の隔離審査を実行した。招集された政治局緊急会議は、華国鋒を中共中央主席、中央軍事委員会主席とする決定を行った(なおこの決定は1977年7月に行われた党の十三届三中全会で追認された)。このとき上海では武装反乱の動きがあったが、事前に阻止されたとされている。
この時点で胡耀邦はどうなっていたか。鄧小平はどうなっていたか。鄧小平はまだ復活していない。鄧小平批判がなお生きている状態である。胡耀邦もなお復活できない、会議にも出れない状態である。
実は10月7日から14日にかけて開かれた中央の会議で、毛主席が決めたこと、そして毛主席が出した指示を守ることが確認されたことが大きい。その結果、二人はなお蟄居した状態が続いた。伝えられるところでは、華国鋒はたびたび胡耀邦をおとずれ、問題の解決には時間がかかると伝えていたとされる。そして鄧小平より先に胡耀邦に声がかかる。1977年2月、葉剣英は胡耀邦を尋ね、中央党校の再開に尽力してもらえないかと打診したのである。
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