Friedrich A. Hayek 1899-1992 (1)
ハイエク By David R. Henderson
Cited from Econlib.org
もし20世紀の経済学者にルネサンスの人(広範な分野で革新を行った人)がいるとすれば、それはFriedrich Hayekである。彼は、政治理論、心理学、そして経済学で根本的な貢献を行った。当初の思考が拡張されると妥当性relevanceが消滅してしまうような領域において、彼の貢献はとても顕著で、それらが書かれて50年以上経っても、依然人々がそれを読んでいるほどである。たとえば今日、多くの経済学大学院生が、彼らの経済専門領域の先輩たちのある者はなお完全に理解していない、経済学や知識学についての1930年代から1940年代のハイエクの論文を読んで洞察を引き出している。2050年に至っても、経済学の相当数の少数派が依然、読んで学んでいるとしても驚くべきではないだろう。
Daniel Yerginはその著書『Commanding Heights』において、ハイエクを20世紀後半の「比較する物がないほど抜きんでたpreeminent」経済学者と呼んでいる。
ハイエクは今日オーストリー経済学と呼ばれるものの最も知られている支持者である。彼は実際、オーストリアで生まれ育った。(また)オーストリー学派の唯一主要な最近のメムバーである。第一次大戦後、ハイエクは法学と政治科学の博士号(複数)をVienna大学で得た。その後、ハイエクはほかの若い経済学者、Gottfried Haberler, Fritz Machlup, Oskar MorgensteinとともにLudvig von Misesの非公式セミナーーオーストリアでのJohn Maynard Keynesの”Cambridge Circus”にあたるものーに加わった。1927年にハイエクは、新たに設立されたオーストリア景気循環研究所の所長(director)になった。1930年代初め、ライオネル・ロビンズの招待でハイエクはロンドン大学経済学部に移りそこで18年過ごした。彼は1938年に英国市民になった。
1920年代から1930年代までのハイエクの仕事は、オーストリー学派の景気循環論、資本理論、貨幣理論におけるものである。ハイエクはこれら三つすべてに一つの関係を見た。どのような経済であれ、主要な問題は―と彼は論じたーいかに人々の活動が調整されるかにある。彼は、アダムスミスがそうであったように、自由市場の価格システムが、人々の活動を調整する驚くべき仕事を行っていることに―(しかも)その調整は誰かが意図したわけではないことにー気が付いた。市場は―ハイエクは言った―自発的spontaneous秩序である。自発的と言うことでハイエクは計画されていないことを意味した―市場は誰かに企図されたのではないが、人間活動の結果としてゆっくり進化する。しかし市場は完璧に働くものでもない。何度も大量の人々を失業させるのは何が原因か―とハイエクは尋ねている。
彼は言った、その一つの理由は中央銀行による貨幣供給における増加だったと。彼は『物価と生産』において、このような増加は利子率を引き下ろし、信用を人為的に安くするだろうと論じた。事業家たちは、信用市場から歪んたdistorted価格信号を得ていると理解したなら行わなかったような資本投資をするだろう。しかし資本投資は一様ではない。長期投資は短期投資より利子率に感応しやすい。それは長期債が(短期の)財務省手形より利子可能的であるのと同様である。それ故に彼は結論として述べた―人為的に低い利子率は、投資を人為的に高くする原因になるだけでなく、「悪い」投資の原因になる―余りにも多く短期より長期プロジェクトに投資が行われ、ブームが破裂するのである。ハイエクは破裂を健全で必要な再調査だとした。彼は論じた―破裂を避ける道は、それを引き起こしたブームを避けることだと。
ハイエクとケインズは同じ時に世界のモデルを作った。彼らは互いの見解を良く知っており、その違いについて言い争った。多くの経済学者はケインズの『雇用、利子、貨幣の一般理論』がその論争に勝ったと信じている。(しかし)ハイエクは自身が死ぬときまで決して(自身の敗北を)信じなかったし、オーストリー学派の他の人も同様である。ハイエクは失業と戦うケインズの政策は不可避的にインフレを引き起こす、そして失業を低く維持するため、中央銀行は貨幣供給をますます加速し、インフレをさらに昂進させるだろうと信じた。ハイエクの考えは早くも1958年に(訳注 1939年の誤植と思われる)表明されたものだが、現在では主流派経済学者により受け入れられている(フィリップ曲線を見よ)。
1930年代と1940年代初期、ハイエクは社会主義計画が機能できるかどうかの論争に戻った。彼はそれは機能できないと論じた。社会主義経済学者が中央計画が機能すると思うのは―ハイエクは論じたー彼らは計画立案者たちが所与の経済データを受け取ることが出来、それに従って資源を配分できると思ったからである。しかしハイエクはそのデータは与えられなかったと指摘している。(訳者補語 市場は存在しないので)データは存在せず、存在できなかった、どの心にも、少数の心にも。それぞれの個人は、中央計画者が持つことが出来ないような特定の資源についてのこれらの資源を用いる潜在的機会に関する知識を持っている。自由市場の良いところ(virtue)は―ハイエクは論じたー彼らだけが持つ情報をそれを使う人々に最大限与えることにある。短く言えば、市場プロセスがデータを生み出すのであって、市場がなければデータはそもそも存在しない。
主流経済学者そして多くの社会主義経済学者さえ(社会主義を見よ)、今やハイエクの議論を受け入れている。コロンビア大学の経済学者Jeffrey Sucksは次のように注記している。「もしあなたが経済学者に、どこが投資に良い場所か、どの産業がこれからの伸びるか、どこで特化が生じるか、を聞くとすれば、その成果はかなり悲惨だ。経済学者は企業家がするように実践的on-the-ground情報を集めていない。いつもポーランドは質問する。さて我々は何を生産できるだろうと。私は、私は知らないと答える。」
1944年ハイエクはまた社会主義をかなり異なる角度から攻撃した。オーストリアの管制高地vantage pointから、彼はドイツを1920年代そして1930年代前半 、とても近くから観察した。英国に移ってのち、彼は、多くの英国の社会主義者たちがかつてドイツで1920年代に鼓吹されるのを見たのと同様の政府による人民生活の統制政策を推奨しようとしていることに気が付いた。彼はまたNazisが実際は国家社会主義であり、つまり彼らは国家主義者でかつ社会主義者であることを見てきた。そこで彼は『The Road to Serfdom(注意 全文266pのPDFです)(隷従への道)』で彼の仲間の英国市民に、社会主義の危険を警告した。彼の基本的な議論は我々の経済生活への統制は、全体主義totalitarianismまで高まるということにあった。「経済統制は、人間生活の単に一部を統制するもので、その残りは分離できる」というものではない、「それは我々の最終目的のためのすべての手段の統制である」と彼は書いた。
一部の人には驚きであるが、John Maynard Keynesは本書を高く評価した。本書のカバーにケインズの言葉が引用されている。「私見では素晴らしいgrand本である。道徳的かつ哲学的に私はその全体のほとんどについて意見が一致する。(また)意見が一致しただけでなく、深く同意せざるを得なかった(in deeply moved agreement)。」
ハイエクは『隷従への道』をただ英国の聴衆に向けることを想定していたが、同書は合衆国でも販売された。実はReaders Digestは要約版を作った。同書により世界の指導的古典的自由主義者として自身を確立した。今日彼は自由主義者libertarianとか市場自由主義者と呼ばれるだろう。数年のちにMilton Friedman, George Stiglerそしてその他の人々とともに彼はthe Mont Pelerin Societyを設立した。その結果、古典的自由主義者は2年に一度会合ができ、何か重要なことが失われるときには互いを支えることができるようになった。
1950年にハイエクはシカゴ大学の社会及び道徳諸科学の教授になった。そして1962年までそこにとどまった。その間、彼は方法論、心理学、そして政治理論についての仕事をした。方法論においてハイエクは科学主義ー物理科学の方法を社会科学に模倣したものーを攻撃した。彼の議論は、経済学を含む社会科学は人間を研究するもので物objectsを研究するものではない、人の目的human purposeに注意を払うことによってのみそれができる、というもの。1870年代のオーストリー学派は課題itemの価値は、人の目的を満たす能力からくることを示唆していた。ハイエクは社会科学はより一般的に人の目的を考慮すべきだと論じた。この点についての彼の考えは、The Counter-Revolution of Science :Studies in the Abuse of Reasonにある。心理学では彼はThe Sensory Order :An Inquiry into the Foundations of Theoretical Rsychologyを書いた。
政治理論においてハイエクは、政府の正当な役割についての自身の見解を、その『自由の原理(The Constitution of Liberty)』で書いた。それは実際、彼の仲間の古典的自由主義者の主張よりも拡張された、政府の正当な役割論だった。彼は自由の原理を論じ、その政策提案をこれらの原理に基づかせた。たとえば、彼の累進税への主たる異論は、非効率を生み出すということではなく、それが法の前の平等に反するところにあった。その本のあとがき「私はなぜ保守主義者でないか」で、彼は自身の古典的リベラリズムを保守主義から区別した。保守主義を拒否する理由付けとして、道徳的宗教的理想は「強制の正当な対象objects」ではないこと、そして保守主義は国際主義に敵対的で、さわがしい国家主義に忠実であること、を挙げている。
1962年にハイエクは西ドイツBreisgauにあるフライブルグ大学に経済政策の教授としてヨーロッパに戻った。そしてそこに1968年までとどまった。それからオーストリアのザルツブルグ大学で9年後の退職まで教えた。彼の出版(活動)は1970年代前半かなり少なくなった。1974年彼はノーベル賞をGunnar Myrdalとともに「貨幣と経済変動の理論、そして経済、社会、そして制度現象の相互依存についての鋭い分析」に対して共同で受賞した。この受賞は、彼に新たな生命を吹き込んだように思われる。彼は再び経済学と政治学で出版を開始した。
多くの人は年齢とともにより保守的になる。(しかし)ハイエクはより急進的になった。彼はその人生のほとんどの間、中央銀行業に好意的だったが、1970年代に彼は貨幣の非国有化の推奨を始めた。私企業が発行する誰もが知る通貨はー彼は論じたーその通貨の購買力を維持する誘因をもつだろう。顧客は競争する通貨から選択できる(から)。それが金本位に戻るかは、ハイエクが自発的な秩序の信者だということからすれば疑問であった。東ヨーロッパの共産主義の崩壊とともに、何人かの経済コンサルタントはハイエクの通貨制度を固定相場通貨の代替物と考えた。
ハイエクは89歳でなお出版した。その本The Fatal Conceitで彼は、社会主義に知識人が関心を寄せる理由を説明し、彼らの信念が正しくないことを示している。