永代橋(えいたいばし)
永代橋を訪問して、その素晴らしさに息を飲み、もっと早く来なかったことを悔やんだ。訪問が遅れた理由は、多くの案内が茅場町から歩けと指示していて歩くことが面倒だったからだ。楽に行く方法はないかと、探すとあった。東京駅丸の内北口から錦糸町行きバスで「永代橋」下車である。この方法は実に快適だった。バス停に着いたら永代橋は目の前だ。また下車して左手にすぐこれも有名な「豊海橋(とよみばし)」もあった。この豊海橋については、稿を改めて紹介する。
さて永代橋は、200m近い幅がある隅田川をまたいで、江東区と中央区とを結んでいる。ところで、この大きな隅田川について、江戸時代に、100m超の橋が5本もかけられていたことは驚きだ。そしてその中で、永代橋は最長の橋だった。つまり江戸時代から、永代橋はあり、華のお江戸の最長の橋だったのだ。
江戸時代最大級の木橋:永代橋
江戸時代の間に実に5本架橋された。当初、江戸幕府は江戸防衛の観点から、文禄3年1594年の(千住)大橋以後、隅田川に架橋を認めなかったが、明暦3年1657年のいわゆる明暦の大火で多くの焼死者が(市中から逃れられず)生じた反省から、万治2年1659年の両国橋のほか4本の橋の架橋を認めた。なかでも永代橋は最長の橋となった。これらの橋は、水害で橋が流されたなどの理由でたびたび架け替えられた。しかしこうして度々架け直したことで、木橋築造の技術が蓄積され、発展していたのではないか。というのは私の推測であるが。ただここにあった木橋はすべて現在はないので、検証はむつかしいが、例えば後期に作られた橋程、堅牢であるとか、あるいは工期が次第に短くなったことが判明すれば、一つの手がかりにはなる。
最初の橋完成年 橋長 幅
千住大橋 文禄3年1594年 66間120m 4間7.3m
両国橋 万治2年1661年 94間171m 4間7.3m
新大橋 元禄6年1693年 100間182m 3間7寸5.47m
永代橋 元禄11年1698年 110間200m 3間4尺5寸6.75m
吾妻橋 安永3年1774年 84間152.7m 3間半6.36m
資料:江戸時代における隅田川の橋梁の景観に関する研究 1986/06
なお換算率に1間=1.818mを用いた。1間は6尺。1尺は10寸。
現代の橋と江戸時代の橋とを比較する場合、架橋の位置が変化していることにも注意が必要である。永代橋の場合は、現在のものより100mほど上流に架橋されていたとされる。その江戸末期の形状や骨組みは広重(1797-1858)の浮世絵「永代橋全図」「江戸十橋之内永代橋」から理解できる。
明治期に入って以降、木橋はつぎつぎに鉄橋に書き換えられるが、ただ鉄橋といいながら、これらの鉄橋には木材使用部分があった。関東大震災により、この木材部分が燃えて、犠牲者を出すという経験を経て、震災後の架橋は、こうした木材という建材を排して不燃化を徹底するものとなった。
現在目の前にある永代橋
では現存の永代橋はいつのものか。関東大震災後、震災復興事業の核として架け替えられたもので、大正15年1926年12月の竣工である。竣工以来100年近い時が流れている。長さ184.7m、幅25.6mである。タイドアーチ橋(tied arch bridge)という形のものとして、現存最古。
永代橋はよく清洲橋と比較されるが、土木学会により平成12年度2000年度の選奨土木遺産に、清洲橋と同時に同じ理由で認定されている。それは日本で初めて「径間」100m超という大きさであること、また震災復興事業の中核であった、という2点である。また平成19年2007年には、勝鬨橋、清洲橋と同時に国の重要文化財の指定を受けている。大規模建造物建設技術の達成度を示す意義とともに、その近代的造形美が評価されたのである。
アクセス 東京駅丸の内北口4番乗り場からバス(錦糸町行き 都22)に乗車。永代橋下車。東京駅と直結ともいえる。