三大戦役から高崗事件まで 1948-1954
(魯彤 馮来剛 黄爱文 共著《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社,2011年 全376ページ。この本は一通りの知識を得るには手頃。しかし文章は通俗的で、さまざまな資料からの寄せ集めの感は深い。ここでは気になった部分を抜き書きする)(写真は肥後細川庭園 2020年5月31日)
p.3 中国人民解放軍は1948年9月12日から1949年1月31日まで、遼沈戦役、淮海戦役、平津戦役を相次いで発動し、合わせて国民党軍154万人をせん滅した。三大戦役の勝利は国共両党の武装力量の大小(対比)に根本的変化を発生させ、人民解放軍は数量で絶対優勢を占めるに至り、国民党は長江以北の武装力量のほとんどを喪失し、江北解放区に対する戦略的威嚇(威脅)ではなくなった。
このようであったので(如此一來)新中国を成立させる歴史任務が議事日程にあがった。これはまさに1948年初めに劉少奇が予測した革命のプロセス(進程)だった。去年すでに蒋介石支配区(蒋区)の優勢に動揺を与え、解放区の力量は(蒋区を)上回っている。これは決定的な形勢変更をもたらす。今年は第二の決定的勝利を得られれば、1949年に蒋介石は倒れる(倒臺)だろう。
すぐにも全国的勝利が得られる(情況)に至って、新中国を建設することは急を要する当面の歴史任務として、中国共産党の人々に与えられた。彼らは革命闘争については極めて熟達していた。しかし国家を管理し治めること、とりわけ中国のような大国を統一管理することの経験は不足していた。しかし彼らは早くから思想の準備、理論の思考を進めていた。
劉少奇の確固(奠定)とした礎石は、新民主主義の見取り図(藍圖)だった。
p.80 劉少奇は新民主主義を一種の過渡的性格の社会段階であって堅固にまた確立する必要があり、社会主義過渡に向かうには各方面で十分な準備する。条件が整うのを待って、社会主義過渡に向かう。新民主主義の十分ば準備を重視し、堅固な段階を経るのでなければ準備が十分とすることはできないとした。
毛沢東は新民主主義を同様に一つの過渡段階として見ていたが、しかし彼は新民主主義の過渡性質を重視し、もしも社会主義の過渡的傾向そして趨勢が出現するなら、準備が十分かどうかは考慮しない。それゆえ彼は社会主義の方向をまもり、社会主義過渡に向かって、いままさに出現した社会主義の要素あるいは傾向を十分に利用することを主張している。
劉少奇や周恩来などの人々が主張する「新民主主義を堅固にする」「新民主主義の社会秩序を確立する」などの主張は、毛沢東が社会主義に向かって渡ってよいとしたなかで、すべて一種の右翼思想とされて批判されたが、それは一般の道理(情理)でもあった。この種の批判は農業の生産合作化問題の議論(争論)に伴ってあったし、資本主義工商業の調整そして 「三反」「五反」の闘争の中に伴ってあった。毛沢東がすぐに社会主義過渡に向かうことを考慮したのであり、その過渡をするには、当然党内に依然存在する新民主主義を「確立する」「堅固にする」という思想を正し、方向を変えさせねばならない。
1952年の後半、毛沢東は新たな着想(設想)を提起した。これより社会主義の過渡を始める(逐歩実行)。農業、手工業、資本主義商工業の社会主義改造を始める。1953年から数えて15年で完成させる(15年以後に一挙に過渡するのではない)。
毛沢東がこの着想を提起したのは、国民経済回復の任務がわずか3年経たずに達成(完成)されたことが理由だった。
国民経済の回復状況はどうだったか? それは確かに、毛沢東、劉少奇など中国共産党指導者の予想の範囲を超えるものだった。1952年末までに、全国工農業生産はすべて史上最高水準を超過し、国民経済は相当の回復と発展を達成(獲得)した。
国民経済の急速(快速)な回復の分析と認識に基づいて、毛沢東は3年準備の任務がすでに完成していると考え始めた。すぐに続けて大規模な計画経済建設を開始進行すると。しかしこの中間に変化がある。すなわち10年建設は新民主主義の建設なのかあるいは社会主義過渡性の建設なのか?毛沢東をの主張は当然(自然)社会主義過渡性の建設である(新民主主義の建設から社会主義過渡の建設に内容が変わった。福光)。このあと毛沢東の指示の下、中央は社会主義過渡への歩みに向けて、見取り図の作成(設計)を加速した。
p.98 1952年8月、西南局第一書記鄧小平が北京に到着、国務院副総理に任命され、中共中央の指導工作に参加した。間もなく東北局第一書記高崗、華東局第一書記の饒漱石、中南局第二書記の鄧子恢,西北局第二書記の習仲勛のほか何人かの重要幹部が陸続と中央に移動したのである。
中央に移動する前、高崗は中央人民政府副主席であり、同時に中共東北局一書記、東北人民政府委員会主席を兼任していた。高崗は中央に移動後、国家計画委員会主席を兼任したが、副主席は鄧子恢、委員は陳雲、鄧小平、彭徳懐、林彪、饒漱石、彭真,薄一波など十数人である。当時の中央人民政府の体制規定によると、国家計画委員会は政務院に所属せず、直接、中央人民政府主席の指導により制定される国民経済長期計画(規劃)とその予算の最高行政機関である。
それゆえに高崗が主席を兼任する国家計画委員会は一時「経済内閣」と呼ばれた。そした高崗は中央に上がった5人の書記のなかで格が突出しているように見えた。「五頭の馬が北京に入ったが、一頭が先んじている」と冗談に言われたものだ。
高崗らとともに中央の指導幹部に上がった人の中にもう一人の重要人物饒漱石がいる。かれが中央に上がる前に担当していたのは華東局第一書記と華東軍政委員会主席であり、華東の党政を一手に握っていた。饒漱石は中央に上がり組織部部長に任ぜられ、安子文の上司になった。
1952年末、政務院は財政部と中央財政委員会が提出した修正税制の具体策を可決した。そこには保税と簡素化税制という二つの原則を定められていた。新税制が公布されると強烈な反響と震動(波動)が引き起こされ、各地から中央に情況が逐一報告された。毛沢東はこのことを極めて重視した。
1953年1月15日、毛沢東は周恩来、鄧小平、薄一波に手紙を書き、厳しく批判した。
「新税制のことは、中央ではまだ討論していない、各中央局、分局、省市委員会にまだ通知されていない、急いで(匆率)発表され全く準備がない。このことはすでに全国で騒ぎを起こしている(引起波動)、上海北京の二か所が新聞で初めて知っただけではない、私も見たがよくわからない。奇妙なことにこの方面に明るい人(明等人 明灯人の誤植?)もよくわからない。一体、税制の比較利害はどうなるのか。税制によりなぜ物価にこのように波動が起きたのか?主管機関に私に文書で報告するよう(條挙告我)に命じてほしい。」
このあと毛沢東は新税制の「公私一律平等納税」のスローガンが七届二中全会の決議に違反していること、修正税制が中央に事前に報告されなかったこと、にもかかわらず先に資本家と相談していたこと、(それは)資本家を党中央より重くみるものであり、この税制は資本家の賛意(好)を得たもので「右傾機会主義」の誤りであると、厳しく批判した。
このことがあって、毛沢東は政府工作の中に分散主義が存在すると考えた。まもなく、彼の提議により中共中央は1953年3月10日に「中央人民政府系統各部門が中央に報告を提出(請示)することをさらに強化し、中央が政府工作指導を強化することに関する決定(草案)」を作成した。
p.113 1953年12月24日 中南海・・・・この日ここで一次政治局拡大会議が開かれた。出席者は20余人。毛沢東が主催(主持召開)した。
会議において毛沢東は彼が外出休暇期間に、劉少奇に中央工作主持させることを提案(提議)した。劉少奇が謙虚にそれは受けられないという(謙讓)態度を示し、周恩来、朱徳らが毛沢東の提案を支持するなか、高崗は飛び出して反対し、交互にやることを主張した。このことで高崗の険悪な心が暴露されてしまった。
p.116 1954年2月6日 中共七届四中全会が北京で開会された。これは一届人大の準備の会議であり、また建国以来最初の重大な党内闘争を解決する会議だった。毛沢東が杭州で憲法起草を主催(主持)し、北京にいなかったので、会議は劉少奇により主催された。
開幕当日、劉少奇は中共中央と毛沢東の委託を受けて、全体会議で報告を行った。報告は中共七届三中全会以来の党中央政治局が行った仕事(工作)を概述し、第一次五年計画の綱要やその他関連問題を討論する全国代表会議の招集を提起した。また「党の団結を強化することに関する決議」を全会で討論することを提案した。
報告の中で劉少奇は高崗と饒漱石の誤りについて、決議草案で一歩踏み込んだ説明を行った。
高崗と饒漱石は(このときまで)誤りを認めなかったが(執迷不悟)自業自得(自食其果)に陥った。
2月10日毛沢東の提議により劉少奇は会議で自己批判を行った。(中略)
劉少奇の態度はとてもバランスがとれており(非常端正)、とても誠実(非常誠懇)だったので、その他の中央の指導者たち心からの敬服支持を受けることになった。