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戦前”四行二局”国家金融体制の形成 1927-1936

王紅曼《國民政府戰時金融法律制度研究(1937-1945年)》法律出版社·2011年, pp.19-24

p.19  (1937年7月7日の)抗日戦争爆発後、国民政府が比較的短時間で、
p.20   金融の風潮を落ちつかせ、ひっくり返るような不安な局面を基本安定したものにできたのは、抗日戦争前に(以下「戦前」と略称する)金融の基礎が固められていたことによる。はやくも1927年4月、南京国民政府樹立(建立)後すぐに政府が直接統制する「銀行の銀行」を職能とする金融機構の創立に着手し、同年10月には「中央銀行条例」が発布(頒布)され、1928年10月「中央銀行章程」が交布され、「中央銀行は国家銀行であり、国民政府がこの経営を定める(設置)」と明らかに定めた。同年11月1日中央銀行は上海で正式に設立された。資本は2000万元、政府により公債形式で最初から全額出資された(一次撥足)。宋子分、孔祥熙が前後して中央銀行総裁に任ぜられた。ここに創設された中央銀行は、言葉の上では総裁が理事会決議を執行するものであったが、実質は、総裁独裁であり、理事会主席は総裁が担任することが法定されていた。幹事もまた国民政府特派であった。中央銀行の最高権力機構は完全に政府統制によるものであった。
 当時、金融界において重要な地位を占めていたのが、中国銀行と交通銀行であり、国民政府の両行の強奪(攫奪)もまた速度を速めて進行した。この両銀行はかつて国家銀行の姿態で国内金融舞台に登場した、特に中国銀行は、その実力基礎は中央銀行に比べてはるかに十分(雄厚)であった。早くも1927年に国民政府は中国銀行官股500万元を加え、交通銀行官股200万元を加えた。1928年に国民政府は前後して『中国銀行条例』と『交通銀行条例』を頒布し、法律の上から両行の国家銀行の性質を改変し、中国銀行を「政府特許の国際送金兌換(匯兌)銀行」、また交通銀行を「政府特許の実業銀行」と規定した。併せて両行本店は北京から上海に移転した。政府は両行の20%の官股を取得し、併せて財政部はそれぞれ15人の理事会(董事會)に3人を指名派遣し、また財政部は両行において5人の常務理事から一人の理事長を指名した。であるので、中国、交通の両行は、半官性の銀行になり、国家銀行と政府特許特許専業銀行の分離を試みた。しかし法律文による限り、国家銀行が中央銀行と商業銀行の二重性質を備え、政府特許銀行として中央銀行の特権をもっている、それらの間の限界は
p.21  不明確であった。というのも、この時、中央銀行の実力は中国銀行になお及ばず、またただ交通銀行実力とほぼ同じだった。
 1934年末、両行保有資産は9.757億元と4.25億円元。中国全部の銀行資産22/3にあたり、中央銀行の3倍であった。1935年に国民政府が米国の銀政策をまねたことが金融恐慌を引き起こし、中国、交通両行の条例を修正した。当時、政府は現金を一文を使うことなく、金融公債の形式を利用することで、すなわち数枚の金融公債予約券を根拠に、資本方面の主導権(主宰権)を得た、中国銀行では官私は一半ずつを占め、交通銀行内では官股は私股を圧倒した。同時に両銀行の最高政策決定層もまた徹底的に改組された。中国銀行を総経理制から理事長(懂事長)制に改め、宋子文を理事長、宋漢章を理事長とし、中国銀行はこのときからただちに宋子文が直接統制した。交通銀行の理事長胡筆江、総経理唐壽民、の二人はともに宋子文が指名派遣したもの。このようにして、交通銀行本店の管理と業務大権は、等しく唐壽民そして胡筆江の手中に集まり、交通銀行は実際、直ちに宋子文の勢力範囲に帰属した。このようにして、国民政府は中国銀行と交通銀行を完全に命令を聞く、その国家銀行に変質(變成)させた。まさに蒋介石が「(中央銀行を含む)三行で官股を増やすことは、すなわち金融統制の実施である。」と述べているとおりである。
 中国農民銀行は元の名前を豫鄂皖赣(河南、湖北、安徽、江西)四省農民(銀行?)といい、1933年4月1日の設立、本店は漢口。1935年4月1日に中国農民銀行に改組され、6月に「中国農民銀行条例」が発布(頒發)され、「農民に資金を供給し、農村の経済を復興し、農業生産を促進する」農業専業銀行として特許された。資本総額は1000万元で、財政部は250万元、各省市政府が250万元購入を引き受け(認購)、残りは民衆が自由に引き受けるものであった。事実上は私人は農民銀行株券(股票)を引き受けることはなく、農民銀行の資金全部は国民政府が支出(撥付)した。
 1935年10月には中央銀行の直轄機構-中央信託局が正式に設立された。
p.21  資本は1000万元、中央銀行が最初から全額を出し(一次撥足)独立会計で、孔祥熙が理事長を兼任した。設立会の席で、孔祥熙は本局の設立理由を次のように説明した。政府は多くの方面で商業機構に処理を委託する必要があるが、中央銀行は国庫の地位を代理する国家銀行に限られるものであり、事実上手続上表に出ることはできない、そこで中央銀行の下、この方面の事務を行う信託事業独立機構を組織した。1935年7月政府は郵政儲金匯業局を掌握した。交通部、財政部の二重の指導とした。担当業務は随時(活期)そして定期預金、郵政小為替(郵政匯票)、電報送金(電報匯款),担保貸出(抵押),割引貸出(貼現放款),公債、蔵券の買い入れ、保険事務など。
 ここに至って国民政府の「四行二局」の金融独占体系は完全となり、国民政府の金融支柱となった。(それは)国民政府が金融経済統制政策を実現する重要な基礎であり、同時にまた国民政府の財政、金融合一にとって条件と機会を作り出した。
 このとき同時に国民政府は中国の貨幣の統一に着手した。まずは「廢兩改元」である。1933年3月に財政部は「廢兩改元令」,それは4月6日からすべての公私の支払い項目の収受と書面契約証書他すべての取引は、すべて銀幣で行われ、もはや銀両は用いることはできないと規定したーを発布した。これは人民生活を大いに便利にした、銀行の活動範囲を拡大し、銀行の機能を増強し、法幣制度の基礎が固められた。しかし、廢兩後の銀元は、なお銀本位であった。中国は銀産国でなく、世界の銀価格を統制したり影響したりできなかった。1934年5月に、米国が銀買い上げ法案を実施すると、国際銀価格は高騰した。中国に存在した銀は、継続的に流出し、銀本位制はとても大きな打撃を受けた。
 国民政府は各方面の利益を検討したあと、銀本位の放棄を最終決定した。1935年11月3日に「施行法幣布告」を発布。法幣政策を実施し始めた。中央、中国、交通の三行の銀行券を法幣とし、すべての支払い受取は法幣に限る、現金を使えるとした。銀本位あるいはその他の銀貨幣、銀の現物は等しく指定された銀行で法幣に兌換された。対外為替レートを一元を一シリング二ペンス半に等しいと規定、中央、中国、交通の三行は無制限に為替を売買した。法幣政策の実施に合わせて国民政府財政部は
p.23  「發行準備管理委員會章程」「兌換法幣辦法」「銀製品用銀管理規則」(11月15日)「兌換法幣收集現金辦法」(12月9日)「生金銀折合國幣辦法」など一連の法令を陸続と発布し、法幣政策が順調に進むことを確保した。
 法規によれば、法幣は不換(不兌現)紙幣であり、法定の含金量はない。その価値は外国為替相場であらわされる、典型的な外国為替本位制である。これについて、国民政府は別の表現を試みている。孔祥熙と宋子文は何度も談話を発表、財政部も「新貨幣制度説明書」を発表、法幣政策の実質主要は四点あると明確にのべている。発行の統一、準備の集中、銀現物の保存(銀の対外流出の防止)、産業の復興である。「新貨幣制度は銀本位の放棄ではないこと」を強調し、むしろ「銀本位の健全さを増すもので、紙幣政策ではなく、法幣流通が充実することを企図するものである」。といのは「法幣の準備は、現物の銀を基礎とするもので、以前の準備方法を保持している。どれだけの準備によりどれだけの法幣が発行できるのか、法幣と現物銀とには密接な(未脫離)関係である。」事実上、法幣政策の施行の指標は、中国が銀本位制をやめ匯兌本位制の実行を開始したことにある。
 のちに米国は落ちぶれることができず、銀の購入を通じて法幣の外国為替準備を掌握し、法幣の支配地位を取得し、法幣は米ドルと関係せざるを得なくなった。このようにして法幣は英ポンドと米ドルの波動に従うものになった。一種の虚偽的な金為替兌換本位貨幣、あるいは金為替兌換本位貨幣である。
   法幣改革の後はただ三つの銀行(中央、中国、交通)の銀行券だけが法幣として使われ、そのほかの十二の商業銀行の銀行券発行権は剥奪され、銭庄の倉庫にある銀はその輝きを一掃された。国民政府は貨幣発行独占権を遂に完成し、中国貨幣史上、紙幣政策がここに始まり幣制と銀価の完全分離が実現したが、その意義はとりわけ深遠である。同時に法幣政策の実施は、中国金融業と工商業に倉庫にある貴金属貨幣に束縛されず、貨幣危機から解放されるようにし、1934~35年の
p.24  通貨緊縮金融危機から成功裏に抜け出させた。しかし法幣政策の実施は中国をして大量の銀の喪失と、英米両国の資本金融力量の高まりを招き、両国の貨幣の中国での地位を高めた。国民党政府は、当時この種の貨幣制度を採用せざるを得なかった。まさにケインズが定義したのと同じく、金為替兌換本位貨幣は、十分な発行準備を保持する必要はない。さらに金貨幣の流通を必要としない。しかし国外保有外国為替基金により貨幣価値は安定されねばならない、これは一種植民地性質の貨幣制度である。この種の貨幣政策は、英米帝国主義が長く得たいとしてきた対中国貨幣支配の願望を実現した。中国に対する金融統制を達成し、中国に対する経済侵略目的を強固にした。

新中国建国以前金融史

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