王紹光「大学の夢、期せずして実現(上)」1972-78, 2013/12
王紹光「大学夢、不期而至」『那三届 77,78,79级大学生的中国记忆』中国对外翻译出版有限公司2013年12月pp.9-19 2回に分けて訳出する。今回はpp.9-15まで。筆者は1977年北京大学法律系に進学。その後、米コーネル大学で政治学博士。王紹光には以下の著述がある。
Wang Shaoguang, Failure of Charisma:The Cultural Revolution in Wuhan, Oxford University Press, 1995.
進学の夢を抱きようもない情況のなかで勉強を続けたことが記録されている。毛沢東もまた、学校に頼らず、家にこもって本を読む青春を送ったことが知られている。
なぜこの人はこんなに多読できたのか。少し不思議だが都市部に近いところで教員として勤務したことで、知的生活を維持できたようだ。武漢に近い中学校で1972年から数学教師として働きながら自修を続け、ついに1977年12月。再会された高考で北京大学入学を決める高得点を記録。1972年から北京大学入学がきまる1978年2月までの軌跡。
p.9 今日の子供と異なり、私の小さなときは、大学(進学)の夢はなかった。というのもあの時代、大学に入学した人はかわいそうなほど少なかった。
1928年から1949年、全国では合わせて18万5000人が大学を卒業した。現在、ある人は「民国范儿(民国を代表する人)」と喜んで言うのだが、しかし5億余りの中で、数来数去何名の”范儿”になるか。民国の門面を支える(支撑)ことはむつかしい。解放後、大学生は毎年増加し、1949年から1965年までに、あわせて155万の大学生が卒業した。しかし、当時の6-7億の人口と比較してごくわずか(凤毛麟角)である。
私の両親は解放前は小学で学んだに過ぎなかった。解放後、夜学で語文単科の補習で高中水準に達した。彼らが居た単位は100人以上の人がいたが、知識分子は二人だけで、それは高中卒業生と自身だった。1961年に私は武漢市三元里小学校で学び始めた。そこは10年一貫性の試験性学校で、重点(校)だった。私の同窓生の少なくない者の理想は、小学卒業後すぐに学徒工になり「18元のため奮闘する」ことだった。この種の環境の中で成長して、どうして大学で学ぶ夢をもてようか?
p.10 自修の歳月
1966年6月、まさに武漢市実験学校の初中に入ろうとするとき、”文革”が大きな音をたてて(轰轰烈烈地)始まった。6月13日、中共中央と国務院は高等学校の入学試験方法(招生考试办法)の改革を決定、実際上は高考を廃止した。大学はすべて学生を受け入れなくなった、誰が大学で学ぶ夢を見れるだろうか?
1972年初、私は高中を卒業、城郷結合部の武漢堤角中学で数学を教えるように配属(分配)された。この時、大学は学生受け入れを始めたところ。しかしただ、労働者、貧下中農、解放軍戦士、青年幹部、上山下郷と回郷の知識青年の中から受け入れた、かつ受け入れ学生は文革前に比して更に少なかった。誰かが大学の夢を見るとして、その順番は私には回ってこない。
当然、大学の夢がないことは、自修の夢はないことは意味しない。1972年6月21日の日記の中で私は毛沢東の『湖南自修大学創立宣言』(1921年)から採録した、彼は学校は「画一的機械的教授法と管理法を用いて、人間性(人性)を傷つけている(去抢贼)」と批判する。また言う、「人の資質(資性)は一人ずつ異なる、高い才能のもの低い能力のもの、悟り理解には大きな違いがある(迥别)、学校はこれらには全く拘わらず、ただ一種同様のものを理解のためにあなたに流し込む」。毛沢東が崇拝する(方法)は「自分で本を読み、自分で考える」タイプの自修大学である。これらの正規学校批判(鞭挞),「自ら完成し、自ら発展し、自ら定める(创制)」所に対する追求はとても自分の考えに合っていた。同じ日、私はマルクスの「自白」の中の一節「私が好きな座右の銘は、すべてのことを疑え(De Omnibus Dubitandum)だ。」を最も引き付けられた話として採録した。
その後の日々で仕事のほか、「自修」は私の生活の中の最も重要な組成部分になった。同年10月26日の日記には以下のように記載されている。「マルクスレーニンの原著を学習する時間を私は必ず毎日30分以上堅持する。時間の配分は多くできない、作り出した時間を、数学、政治、歴史さらにその他の科学知識を深く研究することに用いなければならない。現在時間は余りに足らない。しかしこれは革命の正常な現象だ。現在の問題は利用できる時間空間をすべて使うこと(见缝插针)ではなく,利用できる時間空間を探し出して使うこと(找缝插针)である。私は当然少しでも時間空間を探し出す努力を尽くしているが、未だすべてをひねり出していない、さらに努力を!」
思い出してみると、”文革”後期この数年間は私の一生でもっとも飢え、喉が渇いたように読書した。すべてが栄養になった時期だ(津津有味的)。実のところ、内外の文学の古典をすべてこれらの年に読んだ。残念なのは、”文革”以後、私は系統的にこれらの大家の本を読む機会がもうないことだ。あのとき、手に入れた本は直ぐに読んだ、どの分野かは問わなかった。詩歌、小説、歴史、哲学、美学、数学、物理、芸術、政治経済学…来るもの拒まず。さまざまな(五花八门的)ものが大脳に流入し、順序もなく混乱している(无序混乱),各種各様の道理を超えた考え(莫名其妙的假想)が生み出されたものだ。
p.11 風雲変幻1976
1976年は中国現代史で風雲変幻(訳注 変化の激しい 周恩来の死ー天安門事件ー毛沢東の死ー江青らの逮捕ー文革の収束)の一年だった。当時、私は情勢をとても悲観し、「山に雨が来ようとし楼に風が満ちている」「中原で鹿が思わず走り去った」と戯れて描いたが、併せて日記と友人への手紙の中で何度も「内戦の可能性がますます強まっている」と予測した、どこに大学への夢をみることができたろうか。政治上の面倒をさけるために、私は自ら学校に行き農場での仕事を進んで求めた。一日中、土を耕し、野菜を植え、牛を放牧し、基礎建設をし、夜、煤油の明かりのもと、読書し、思考し、異常な(诡异的)政治形勢を憂えた。私のこの種の生活は「何事もなく花鳥を愛でて、暇があると本を読む」ものではあったが、陳抟が『帰隠』で描いた「旧書を携えて旧隠に帰る、野に花、鳥は鳴きいずこも春」と似ているが、心は柳宗元が『渓居』でのべたところの「久しく簪組(官職)が煩わしく、幸いこの南夷(の国に)追いやられた(谪)。田畑の中に閑居し、たまに山林の客となる。」の心境に更に近い。
その年、田舎にいて最も読んだのは『史記』『後漢書』『三国志』であり、そこで昔の人が手段を弄したこと(翻手为云,覆手为雨:訳注 杜甫の詩から。反復して手段を弄して)を見た。陰謀詭計の様々な手段(伎俩)を当時の変化を予測できない(变化莫测的)と結び付け、常に恐ろしいこと(毛骨悚然)だ,と大変な恐怖(不寒而栗)を感じた。このほか日記の記載に依れば、私は政治経済学方面の書を幾つか読んだ。(サイ(萨伊)の『政治経済学概論』、徐禾の『政治経済学概論』、ベラント(贝兰特)とスウェイチ(斯威齐)の『社会主義移行を論じる』など);哲学方面の書(ディツゲン(狄慈根)の『弁証法のロジック』、エンゲルスの『ルードビッヒ・フォイエルバハとドイツ古典哲学の終焉(終結)』『「ルードビッヒ・フォイエルバハとドイツ古典哲学の終焉」学習通信』など);思想方面の書(楊荣国の『中国古代思想史』、吕振羽の『中国政治思想史』、各種版本の『中国哲学史』など);国際政治方面の書(ヘンリー・ブラントの『米国の力の収縮』、シュミットの『バランス戦略:ドイツの平和政策と超大国』、デール・ミドルトンの『米国は次の戦争を勝てるか?』など);内外の伝記(デユーイ・ハルボスタンの三巻本『群を抜いた人々』、ミコヤンの回想録『闘争の道』、『ボーズ(鲍尔斯)回想録』,田中角栄の『私の履歴書』、岡本隆三の『周恩来』など);内外の小説(黄天明の『辺疆晓歌』,龚成の『紅石口』、谌容の『万年青』、[米]ナイト・カルモの『アウェイマ事件』、[ソ]シェミアオ・ラシェンチンの『絶対音感』、[ソ] ファチエヤフの『青年近衛軍』など)。
ここに列挙した本は初めて読んだ本。この1年に再読(重読)したものには、『多雪
p.12 的冬天』、『上海的早晨』、『唐詩三百首』、『紅楼夢』、『聊斋志异』、郭沫若『甲申三百年祭』、劉献廷『広陽雑記』、肅涤非『杜甫研究』、『三家評注李長吉歌詩』、併せて閲読毎期新出的『人民文学』、『朝霞月刊』、『学習与批判』、『朝霞从刊』、『自然弁証法』、『摘訳<外国自然科学哲学>』、『摘訳<外国哲学歴史経済>』、『摘訳<外国文芸>』などがある。
1976年に手にした書の中で、二つの本は比較特殊であった。一冊は曹晓波の『法家詩話』、作者は初中文化程度の鋳型(翻砂)労働者(すなわちのちの『新民晩報』高級編集曹正文)。もう一冊は来歴がおもしろい、漢口武勝路新華書店の外で、自身で印刷出版した小冊子を売る若い人から買った。署名は『紅楼夢新考』。その要旨は、”考証癖”のある洋博士胡適を批判、『紅楼夢』は曹雪芹の著作でなく、彼の叔父曹頫(曹西堂)の作品だと論証するもの。小冊子の作者は黄且と言い、もともとは国防科技に属していたが、のちに《紅楼夢》の考証に迷い込んだ。1978年に紅学家冯其庸は『曹雪芹家世新考』の中で極めて長編を費やして名前を挙げずにこの「小冊子」を批評し、曹頫は『紅楼夢』の作者ではありえないとした(原注 冯其庸:『曹雪芹家世新考』上海、上海古籍出版社)、1978年、第203-216頁。)。しかし、この30年来、”曹頫説”は絶えることなく耳にする、その始まりはこの名前が伝えられていない黄且である(原注 胡文彬:『<紅楼夢>原作者考論』為台湾”甲戌年(1994)紅学会議”而作』《紅楼夢学刊》1995年第一輯、第62-63頁;陳林:『破譯紅楼夢時間密码』南京、江苏美術出版社,2006年;劉传福:『曹頫、紅楼夢中的賈宝玉』九州出版社2012年)。当年の日記を見ると、私のこの2冊の小著への評価は高いものではないが、しかしその作者たちはまさに私の自修の模範(榜样)だった。
1976年に黒く強く覆いかぶさる政治のスモッグ(阴霾)に10月10日一条の陽光が差し込んだ。私は当日の日記に書いている。「朝、社論『億萬の人民の願い』が放送された。中はおよそこのような話だ。誰が毛主席の革命路線を歪曲し作り替えたのか?分裂させ、陰謀詭計をやめなかったのか。これは一体だれを指さねばならないか?」2日後の日記は注意している。「『参考消息』に掲載された『億萬の人民の願い』の外電評述は、明らかに最も注意を引き起こす誰を指すのかという所を明らかに削除している、これはこの話のとても深い意義を側面から説明している。」果たして、次の日に良い情報伝わった。今日10月13日の日記を読むと、当時の押さえきれない狂わんばかりの喜びを感じることができる。「10年間で最も心が解き放たれた一日だった。我々が早くから恨み打倒できなかった王洪文、張春橋、江青、姚文元が華国鋒を頭(かしら)とする党中央により一挙に取り払われ、我々の党は大きな隠れた病を取り除き、”四害”を掃除できた。このことを中央は7日ー8日湖北、湖南、山東、上海で会議を開催して
p.13 伝達し、今日(われわれまで)伝えられた。街にはすぐに「打倒”四人組”」の標語があった。もう彼らに捕まえられたり、帽子を被せられると恐れることはない・・・今人々は走り回って告げている。喜びで羽根を伸ばしたかののようにトンボが市中を飛び回っている。」
思いがけず北京大学に合格した
内戦のことを恐れることは亡くなったが、年齢を重ねて、自修の緊迫感は却って日増しに高まった。1977年初め、私は23歳の誕生日のその日に次のように書いた。「さらに次のような感慨をもった。今日私は24歳の過程に入った。エンゲルスは『イギリスの労働者の現状』を24歳で書いた。レーニンは20数歳で『”人民の友”とは何かそして彼らはどうして社会民主党の人を攻撃するのか』を書いた。しかし私はなお何もしていない。両手は空のままである。政治に対し、理想に対し、前途に対し、私はかつて期待(信心)を失った。しかし率直に(平平淡淡地)考えて、一生を平々凡々と(庸庸碌碌地)過すのはいやだ(就发慌)と思った。」この時に至っても、私はまだ大学に進学するおごった望みを抱いていなかった。
それから数ケ月後、大学の夢が期せずしてやってきた。1977年10月17日、私は再び学生を連れて農場到着した。農場は本当に外界と離れた美しい場所(世外桃源)で、漢口から数十里も離れていなかった。しかし10月21日に発表された社論、高考回復宣布の情報、私は28日に武漢に戻って以後漸く知ることになった。その日の夜、私ははるか遠くの外地にいる女友達に手紙を書いた。まるで狂わんばかりに喜んでいないかのように(落ち着いた様子で):「君もおそらく学生受け入れのことを知っているよね。僕は今数年間仕事を離れて、勉強したいとすごく思っている。それで試験に参加する準備をしているけど、すこし心配もある。一つは給与が維持されるのかどうか。二つは(大学卒業後の)今後の仕事の分配だ。三つ目は勉強に行くと、僕らはとても長く離れることになる。だけど今僕は積極的に準備し、真剣に復習している。時が来たら情況の決定に任せよう。僕は文科(哲学、法律、新聞、中文、歴史、政治、経済など)で試験を受けようと思う。君の意見はどうかな?」
私の受験の志願先は、北京大学、復旦大学、武漢大学の哲学系だった。以下四つの手紙の引用は、高考準備期間の私の気持ちの変化の軌跡である。
11月1日:「武漢に戻ってから、半月前と比較して、社会の世論が一つの中心に集まっていることを発見した。どこに行ってもどこでも皆が「高考」と「進学(昇学)」について話している。青年労働者、青年学生の間に強烈な「復習熱」が形成された。聞くところでは今年の受け入れは60が受けて一人、比率はとても小さい。私はただ真剣に復習することだけを考え、時が到れば試してみるという態度で過度に楽観しない。XXX,XX,XXX(三名の駐中学同窓生)とわが校の何人かは皆、私が高考では成功する(比較把握)と皆考えている。というのは私は文学、数学がすべてまあいい(还可以)からだ。しかし私はこのように常に自分を卑下している人なので、
p.14 彼らの賛辞に進んで気軽に同意できない(不敢苟同)。私はいつも感じる。私は大学進学がむつかしいのではと。大学への進学は、おそらく永遠に一種の悔悟の気持ちが残る願望なのだ。私の大学の決定は社会が完成する。なぜかは知らないが、私には又とても自信がある。どこの大学に進学するにせよ、決して人の後ろに立つことなく必ず優等生になると。
11月24日:「現在いわゆる「数学秘密問題漏出」という噂が流れている。湖北省で本来今年用いられるはずだった問題を、鄧副主席が来て見たあとで、とても不満足であった。彼は言った「私が必要なのは人才であって、摸底(詳細に理解している)が必要なわけではない」、題目があまりに簡単すぎたと考えた(原注 『鄧小平年譜』の記載に依れば、鄧小平は1977年11月11日広州に到り、11月20日に北京に戻っている。武漢経由で戻った可能性がある。彼の弟の鄧垦は武漢市革命委員会副主任で文京担当であった。)。実際はその一組の問題はとても難しく、おそらく49年から66年の高考の試験問題すべてに比してむつかしかった。もしそのことが本当だとしても、武漢市は30分で受験する人はいくらも点数がないように試験ができる。高考をめぐり、現在、あらゆる情報がある。復習のレジメが空を飛び交っているし、この種の受け入れ学生試験制度はすべての家庭の各個人を正にけん引するものだ。湖北省の試験時間が既に定められた:〔十二月〕六日午前語文の試験、午後史地の試験。七日午前数学の試験、午後政治の試験。まだ10日ある、空気はすでにとても緊張している。緊張しなければ、もう一度緊張。」
12月7日:「久しく待ち望んだ高考がちょうど終わった。恐らくなお満足していない(过瘾 还没过着瘾)。今回の試験問題は思いのほか簡単だった。現在に至ってもなお安心できずに自身に問うている。このすべてが本当だろうか?僕は君が僕が試験でどうだったか知りたいと思う。僕は良かったと言って良いかどうかわからない。自身の感覚でいえば、この試験は、地理が少し悪かったが比較的良かった。
1978年1月10日:[一月]三日出勤するとすぐにXXX[市教育局工作人員]に電話をした。・・・彼女は私に言ったところでは、私の成績は合計310点。彼女の話では今年の高考は試験問題はむつかしくなかったが、点数も高くなかった。武漢市で高考に参加した人数は33000人、採用される数は1300(人)前後。最初に候補者とするのはその倍の2600人前後。200点を最初の候補者として定めたところ、200点以上のものは2600人に満たなかった。それゆえ最初の足きり点は190点となった。科学技術大学は武漢で学生を受け入れるが280点以上から選抜する。科学院も武漢で300点以上から。私の成績は上等だが、(400点近いという)最優等(最好的)ではない。かといって悪い成績でもない。江岸区で最も良い成績は320点で、わたしより10点多いだけだ。もし今回そのほかの制限がないなら、私は安心してよいし、”末流”学校の類にゆくこともない(原注 後で知りえたところでは湖北省全体では合わせて20万6000人が受験した。受け入れとなった点数は理科で165点,文科で210点。計画上の受け入れ学生数は12211人。その後6000人余り増員され、実際の受け入れ数は18396人。陳俊旺,曾方:"1977年湖北恢复高考:20万考生录取1.8万人"楚天都市报2007年5月28日)。
p.15 すでに引用したところから、高考の回復を知ってから高考の試験日まで、あわせてわずかに40日前後の時間しかなかった。当時、わたしは高中卒業班の班主任で、日中は忙しく(仕事を)終えることはできず、夜帰ってから復習するしかなかった。試験の準備時間は短かったが、試験結果を待つ時間は十分ゆっくりしていた。ずっと待った末の1978年2月19日、その日は日曜だったが、私は休みでなく班の学生を率いて学校で義務労働をしていた。昼頃だが学校の政工組長が大きな牛皮信封を振りながら事務室から歩いてきて「北大、北大」とわたしに大声で叫んだ。学校の革命委員会宛ての北大入学通知書がいままさに届いたのだ。学生たちが取り囲み、わたしもまた感動した。北京大学の《学生入学通知書》はとても簡単なもので、短く三行。公の行事のように告知されていた。2月27日から28日の間に大学に到着し報告するように。私の心を安心させたのは、手紙の中の「新生入学注意事項」が”学生待遇”に触れていたことである。国務院国発[1977]112号文を根拠として、国家職工で入学時勤務年数が5年以上のものは、在校学習期間、賃金を原単位が支給する」。これは私の後顧の憂いを取り除いた(原注 私の一人の良き友人は南京大学数学系で受け入れとなったものの、給与がどうなるかの不安から退学した)。喜んだあと、疑惑もあった。法律系で合格であれば、法律を学ぶことに(自分は)興味はあるの?
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