孫冶方(ソ連留学1925.10-30.9):真人品格和學者情懷 張曙光 2018
張曙光《中國經濟學風雲史 下巻Ⅲ》八方文化創作室, 2018年3月 (有名な孫冶方(スン・イエファン 1908-1983)のお話(孫冶方:真人品格和學者情懷 孫冶方:その本当の人ととしての風格と学者としての志)だが、張曙光の記述は多くの点でこれまでになく詳細である。張曙光は長時間の聞き取りをしたとしており、その内容は注目されてよい。なお最後の憲法改正の提言も、中国の知識人の間では知られていることかもしれないが私には新鮮であった。)
p.1038 孫冶方の一生は順調でなく、おおくの不幸(舛)に見舞われたと言った方がいい。まさに石西民が、孫冶方記念会で述べたように、「孫冶方の一生は曲折が多く(坎坷不平)不幸に出会う一生だった。かれは信念(信仰)を追求するため代価を払ったのだが、それはあまりに重かった(最爲沉重的)」。まさにこのようであったために、意思が強く正直で無私の人格は、苦しく生真面目で、何事にも真剣(一絲不苟)真理に献身する学者の心境に鋳固められた(鑄就)。
1923年17歳の孫冶方は中国共産党によってソ連学習に派遣された(訳注 17歳のときに派遣は正しいが1908年生まれなので年号は1925年になる。1925年10月にウラジオストックに着き、以下の経緯で帰国するの1930年9月である。詳細は以下の私の論文を参照してほしい。「中国経済学の父 孫冶方1908-1983」)。当時(派遣された中で)彼の年齢は最小で、学業の基礎は最も低く,初中の1年級課程を1年余り学んだだけでロシア語に接したことは全くなく、31個のロシア語の字母さえ知らず、複雑な語法の変化については言うまでもなかった。政治経済学の理論については基本の用語を全く聞いたことがなかった。学校の工作休憩制度がまた大変厳格だった。不屈(倔强)の孫冶方は制度に従う約束しつつ、他人の休息娯楽時間を学習に用いる方法を考えた。このため毎日明るくなると起きて戸外に行き、あるいは廊下を歩いてロシア語を覚えあるいは指定参考書を読んだ。日曜日や休日は補習や宿題に取り組む良い機会だった。彼はソ連の学者ピルチエフの時間分割法を学んだ。1日24時間を1440分として(60×24=1440)、自分の休息時間を決め1分も浪費しない。彼はほかの人より努力し、苦労もして、2年間の全力奮闘(拼搏)を経たあとは、ロシア語方面だけでなく、理論方面でも、同班同学がうらやむ高度に到達し、政治経済学のロシア語翻訳を担任しただけでなく、彼のその後の経済学領域での開拓基礎を固めた(奠定了)。
それから彼が信心でいっぱいで前進しようとしていたとき、人生で最初の攻撃(打撃)に遭遇した。これにより彼は自身を鍛えて(磨礪 研いで)信念に堅く(堅貞不屈)誓った志は動かさない(矢志不移)汚点のない人として歩み始めた(清白做人的開始)。当時「海外モスクワ(旅莫)支部」は深刻な(厳重的)セクト主義、主観主義そして経験主義に陥っており、同学の人たちの団結と学習に重大な影響を与えた。孫冶方はかつてこのことについて隠すことなく(公開)批判を提起したことがある。1927年秋、新学期が始まると、王明は「中大(訳注 中山大の略称か)支部局」を抑えることで(把持了)セクト主義をさらに強め(變本加厲), 攻撃の矛先を俞修松,周達明,そして董亦湘などの老党員に定めた。中大学生が毎月わずか10ルーブルの小遣い銭しかなかったのに、翻訳の仕事を任された孫冶方は毎月の給金が100ルーブル近くあったので、孫冶方の竹橋(竹杠 杠にはお金の意味あり竹には常緑の意味あり)に頼ろうと提案した人がいた。孫冶方は素直な(痛快)人で即座に了解し(滿口答應)、開学後の最初の日曜日、その金で酒と肉を買い、自身の宿舎で10人余りの新旧同学と会食をした。その多くは浙江の人だった。王明らはこれを知って、故意に(蓄意)いわゆる「浙江同郷会」事件を創作(製造)した。俞修松と董亦湘を計画的に陥れた(謀害了)だけでなく、孫冶方を当事者とすることで重点攻撃対象としたのであった。まずわざとある程度コントロールできる(内控)「トロッキー派」の綦樹功を孫の部屋に放った。彼を監視し綦の毎日の言動を報告させた。これに孫冶方はとても不満であった、(しかし)支部局に綦の一言一言を報告することは一度もなかった(從未去)。のちに組織の人は孫冶方に批判闘争を進めた。孫の二番目の兄薛明劍が小資本家であること、俞と董との関係が親密(密切)であり、「浙江同郷会」に参加したことがある、同室の潜入トロッキー派分子への警戒が十分でないなど3つの理由で、彼は「階級敵対(異己)分子」だとされ、党籍を解除離党させられた。孫冶方はソ連共産党中央監察委員会に再審理を出願(提出申訴),監察委員会は支部局の決定を認めなかった(駁回 差し戻した)。しかし死罪は免れたが、なお苦難は続き(活罪難逃),支部局は再度新た審判を下し、併せて政治的結論を出した。階級戦線(陣綫)に曖昧さがあり(不清)立場も安定していない(不穩)、厳重な警告処分を与え、政治上は孤立かつ排斥とする。疑いをかけられ、孤立させられ、敵視される環境の中で孫冶方はソ連の小説『忠誠』における中国共産党員の在り方(形象)を借りて自らを励ました。その革命者は無罪であるのに有罪の汚名を受け(冤曲は冤屈の誤植か 訳注)自身の同志を銃殺されてしまうが、なお高らかに「共産党万歳」と叫び「たとえ私が10回銃殺されるとしても、私の党への忠誠は変わらない」と語っている。これは孫冶方の堅い意思、信仰の堅さ(堅貞)と忠誠を鍛え上げた。
孫冶方は「厳重警告」の重い布(沉重包袱)をまとって帰国しただけでなく、この重い布をその後の人生の長い時間(大半生)ずっと背負い続けた。彼は大変な苦労をして(歷經千辛萬苦)、(接触が 訳注補語)初めてであるかのように(一次次地)党組織を探したが、連絡を取ることはできなかった。積極的に党のために仕事をし、反トロッキー派の旗幟を鮮明にし左傾路線を阻止(抵制)したが、なお党の公開された信任を得ることができなかった。6年以後(1936年以後?)陳修良と沙文漢夫婦の援助のもと、ようやく党組織を探り当てた。1958年6月中央監察委員会は幹部審査で正式に結論を出し、彼は脱党期間の党歴、党籍を1924年からさかのぼって回復した。
孫冶方は経済研究所に至って以後、わが国経済科学研究を改め進める目標を抱き、理論と実際とを結合する研究の道を開拓する決心をした。彼は『社会主義経済論』を中心になって編集執筆し、全研究所の組織の力量を上げて、一面では『資本論』その他の古典を熟読し(研讀)、一面では工場、農村、商店に行き調査研究を行い、指導者に関連する研究報告を行い、研究所の60年代前半の輝き(輝煌)を作り出した。彼が得意の絶頂(躊躇滿志)にあり、大きなことを成し遂げようと決心していたとき(決心大乾一場)、さらに大きな攻撃が彼を襲った(一場更大的打擊向他襲來)。1962年に毛沢東は重ねて階級闘争を提起、すぐに大規模にいわゆる「四清」運動(1963年から66年。毛沢東に主導された社会教育活動。当初は農村やがて全国へ。当初は幹部の腐敗を正す意味あいがあり、まず農村で工分:労働点数、帳目、財物、倉庫を清くする:不純なものを除く意味あり、として始まり、やがて政治、経済、組織、思想を清くする反修正主義政治活動に拡大)を開始した。このとき孫冶方はいくつかの内部報告を書いた。とくに利潤問題に関する報告は関心を集め、中国のリーベルマン(ソ連の経済学者 1897-1983 1962年9月9日にプラウダ紙に利潤を経済効果指標として使うことを主張する論文を発表し、中国は経済学界の修正主義の代表と批判した。訳注)として批判されることになった。1963年末、哲学社会科学部は第四次学部委員大会を招集。孫冶方は大会に出席し講演し、利潤報告の公開講義(宣講)をしようとした。しかし当時の形勢を考え、何建章、項後源、桂世鏞,張卓元らは相談して、何建章と桂世鏞を孫冶方の家に派遣して彼を押しとどめようとした。以下はそのときの会話である(研究所の部下たちが、形勢をよんで孫冶方に思いとどまるよう主張したとの記録であり、この下りは、初めて明らかにされた詳細なやりとりだ。訳注)。
何、桂は孫に言った。「あなたが出かけて報告する必要はありません。話したって役にたちません(没用)。流れが激しい以上、勇気を出して引き下がりましょう(急流勇退吧)。あなたの利潤学説は理解されないし、受け入れられないのです。」
孫冶方は言った。「歴史上すべての正確で進歩的、革命的な学説は、最初はすべて人から理解され受け入れられるのはむつかしいものだよ。」また言った。「この数年というもの、多くの企業がコストを計算せず、価値を論ぜず、経済規律を理解せず、利潤を上納したら後は知らない(了無几)また一部の企業は毎年赤字だが、国家の救済で過ごしている。一部の企業の状況はさらに悪く、長く同じ状態で(長此以往)どうにもならない(怎麽得了)。現在は激流に勇気を出して進むべきであり、大声で社会主義のため利潤を創造せよと叫ぶべきだ。」
何、桂はまた言った。「いま利潤を提起すると、人はあなたのただ利とははかりごと(図)だという、あなたは利潤の指導者(挂師)だという。あなたが利潤を説くと、人はあなたを修正主義と呼ぶことになる」
孫冶方はいう。「なにをわけのわからないことをいうのだ(豈有此理)!私が言うのは社会主義の利潤で、資本主義の利潤と本質的にべつものだ。ここにいかなる間違いがあるというんだ?」
何、桂はさらにいさめて言った。「理論上は、(あなたの言った)これはすべて正しい。しかしそれでも話さない方がいい。今外の風声はとても厳しい(很緊)。」
孫冶方は言った。「風声だって?悪いが僕は気象学者じゃない。そんな分野(玩藝)は研究したことがないし、今後も研究するつもりはないよ」
こうしたわけで孫冶方は学部大会で気分を高ぶらせて話した(慷慨陳詞)社会主義創造利潤について大いに語った(大講)。すぐに銅鑼がけたたましく鳴らされ(緊鑼密鼓 緊張切迫のたとえ 訳注)批判がすぐに開始された。まず鄧力群主宰で《紅旗》座談会が生産価格論を批判した。生産価格論で文章を公開したのは、柳堅白、何健章、張玲(張卓遠の偽名)であり、批判の調子はますます高く、帽子(指摘される罪名 訳注)はますます大きく、緊張感はますます高まったので、孫冶方は(自ら)身を乗り出してつぎのように言った。「もともと私に対してのことで私が来たのだから、彼らを批判する必要はありません(原來是對着我來的,不要批判他們了)。彼らの文章が述べているのは私の観点です。直接ぶつけるべき私がきたのですから。文章発表後、わたしも見ました。欠点もありますがそれは皆さんが話しているあの問題ではなく、まだ指摘されていない点です。今、私本人がさらに論証を加えましょう。」そこで価値規律について大いに語り、何をも恐れない気迫で(理直氣壯)社会主義利潤を提起、目の前の批判者の詰問に大声でつぎのように答えさえした。「千の規律、万の規律があってもその第一条は価値規律です。」「価値規律で事をなすとき、第一条は利潤を把握(抓)することです。」かつ人々に宣言した。「私は必ず自分の観点を書かねばならない。現在はまず「口頭文学」しているところだが、誰かが記録している。今回はこの問題を討論しにきたのは、私にすれば遭遇戦だ。私は応戦するし、策略を語らず:飾り立てない(赤膊上陣)のは好きだよ。固定資産問題で私は許毅同志になお原稿の借りがある。実際のところ、彼は全く私を打ち負かしていない。私は資料を集めて反撃の準備をしているところだ。」会が終わったあと、柳堅白は小声で言った。「これは私が批判されているのです。あなたはなんで立ち上がって参戦(報名)するのですか。」孫冶方は答えた。「彼らの意図は別にあるのさ(醉翁之意不在酒)。文章の観点は私のもので、私は責任を引き受けにきたのだ(我來承擔責任)。」鋼鉄のような意思の強さをもち(錚錚鐵漢)心の底まで澄み切った(心底透亮的)学者、人に対しても学問に対しても、孫冶方はいずれについても模範(楷模)であり目標(榜樣)である。
すぐに中宣部と哲学社会科学部は72人からなる工作組を経済研究所に派遣して”四清”を進めた。孫冶方は修正主義分子とされただけでなく、”張(聞天)孫(冶方)反黨聯盟”が作り出され、批判が終わるまでは、繰り返し包囲して攻めて(圍剿)、最後には免職され、労働改造に追われた。これらすべてに対して、孫冶方は少しも頭を下げなかっただけでなく、むしろ闘争意欲を高め、少しでも機会があれば、理屈で争い(據理力爭)さらには自身の観点を述べた。さらに敬服に値するのは、このように高い圧力のもとで、彼が冷静に思考し、自身の研究工作に従事したことである。
(中略)
1975年4月10日 二人の工宣隊員が秦城監獄に孫冶方を引き取りに来た。孫は監獄長に聞いた。”昔、なぜ私を捕まえたんだ”答:”知らない。私は犯人を管理するだけで、事情は関係がない”。又聞いた。”今日なぜ釈放するんだ?”答:”知らない。われわれには理由は関係ない。ただ命令を執行するだけだ”。まことに無茶苦茶だ(真是荒唐至極)。孫冶方はこのように明白な理由なく収監され、(理由も)あいまいなまま釈放された。車が経済研究所の入り口についたとき、彼は車を降りながら出迎えた人たちに言った。「私は志を変えなった、仕事を変えなかった、観点も変えなかった。」すぐに彼は新たな戦闘に入った。
本書にとくに記録に値するのは、1980年12月13日、孫冶方は憲法改正(収改)委員会秘書長胡喬木と憲法改正委員会に書簡を送り、1978年憲法中の「党の指導」の条文の削除(取消)を提案したことである。彼は「党の政権指導を堅持・改善するため私は1978年第五届全国人大第一次会議で可決された憲法総綱部分第二条「中国共産党は全国人民の指導核心である。労働者(工人)階級は自己の先鋒隊中国共産党を通して国家の指導を実現する」の削除を建言(建議)する」あわせて3つの削除理由を挙げている。
” 1.我々の国家のすべての権力は人民に属するべきである。全国人民代表大会と地方の各クラス人民代表大会は人民が国家権力を行使する国家権力機関である。憲法第二条の規定はこの最も基本の原則をかえって曖昧にしている。国家の主人は人民なのか党員なのか、人民には曖昧である。国家最高権力機関は人大常委会なのか党中央なのか。同時に、上から下まで党と政治が区分されないこと、党が政治に置き換わる誤った傾向を促している。
2.中国共産党だけが中国人民を導いて社会主義現代化を実現できる、これははっきりと疑いない。しかし指導権の最終実現は法律規定に頼ることはできず、党の正確な政策と党員の模範的な指導力(作用)に依存すべきである。しかし1957年後、一部の同志は指導とは命令を出すことだと勘違いした。指導権を法律の規定に依拠させ、実際のところは傲慢に(盛氣凌人地)人民に服従を求め、果てはのちに林彪が提起したように「指導グループこそ政権である」「政権には鎮圧権がある」となり、党の政治思想の指導と国家強制が完全に一体化、党は人民からますます遊離することになった。
3. 1954年全国人大第一次会議で通過した憲法中には類似の条文はなかった。ただ1975年第四届全国人大第一次会議で可決(通過)した憲法にこの一条が加えられた。張春橋は彼の憲法改正報告の中でこれを特に説明している。1978年第五届人大第一次会議で可決した憲法は、ただ1975年憲法の上述した条文を受け継いだものである。人々がみな知っているように1975年当時。四人組が国を奪い取ろうと焦っていたときだ(竊國心切)(中略)憲法中の上述の条文はまさに彼らが国家権力を奪い取る護身札である。われわれの現行憲法の中にこのような条文を残すことは十分不適切である。”
このようにして孫冶方は憲法中の第二条及び類似条文の削除は、憲法の人民の心の中での威信を回復するのに役立ち、党の政権への指導を改善し、党員の工作作風を変化(轉變)に役立つとしている。
これが1980年に孫冶方が公開提出した政治建議である。(この建議は)真正の共産党員であるものの進歩的理念の表明であり、広い学識と確固とした立場、そして同時に多くの人民の心の声と時代の要求を反映している。しかしわれわれの現実は反対の方向に進んでいる。これは人の心に痛みを与えることだ。
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