胡適「陳独秀の最後の論文と手紙」序文
解題
福光 寛
これは、胡適《陳獨秀最後論文和書信序》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年,pp.161-173の翻訳である。この序文には日付けがあり、1949年4月14日夜 太平洋船上とある。中国がこのときどのような状態にあったか、胡適(1891-1962)が太平洋上でどのような旅にあったかも重要である。彼は駐米国連大使として赴任するため、上海からサンフランシスコへの航路にあった。すでに共産党との内戦で国民党の敗北は確定的だった。胡適が、飛行機で北平(北京)から南京に脱出したのは前年1948年12月15日。北平は人民解放軍に囲まれていた。飛行機が飛び立った後、人民解放軍はすぐに飛行場(南苑機場)を接収した(写真は吉祥寺経蔵欄干)。
1949年新年文告で蒋介石(1887-1975)は、和平交渉を表明するが中国共産党はすぐにこれを拒絶。和平交渉による事態収束に失敗した蒋介石は総統の職務を副総統の李宗仁にゆずり、正式に下野した(1月21日)。蒋介石さらに李宗仁の意向を受けて、胡適が上海を離れ米国に向かったのは4月6日。サンフランシスコには4月21日に到着した。序文は、このように蒋介石、国民党の敗北が確定した状況のもと、駐在大使として米国に赴任するその太平洋航路の半ばの時点で書かれている(cf. 周海波《胡適 新派傳統的北大教授》中国長安出版社2005年pp.350-351;任育徳《胡適 晩年學思與行止研究(1948-1962)》稻郷出版社2018年pp.254-255)。
なお、北平(北京)が和平解放(共産党サイドの表現)されたのは1949年の1月31日。その西郊飛行場に毛沢東、周恩来、朱徳らが飛行機が降り立つのは3月25日のことである(諸天寅《陳雲與馬寅初》華文出版社第二版,2012年pp.10-11)。
すでに中国共産党による中国支配は止められない。その状況で、胡適は船上で「独秀の最後の論文と手紙」に向かい合い、この序文をまとめた。この序文は、胡適の書であるが、陳独秀(1879-1942)の記述の紹介という意味では、二人の合作でもある。内容は今日にも通じるところがある。ポイントになる点は、民主主義というものの内容は、資本主義社会で形成されるがそれは社会主義社会であっても堅持されねばならないということである。そのことを独秀は、資産階級民主のほかに無産階級民主があるわけではない、と表現している。独秀は、自身の共産党での活動での経験、情報からこうした考え方に至ったのであろう。そして独秀の結論である、反対党の問題は胡適の自説とも重なる。
陳独秀 民主主義は人類の発明 1940年9月
反対党容認求めた胡適 1946-1948
この独秀の考え方と、大変良く似た考え方を提起したのが、顧准(1915-1974)である。顧准の場合は自身の経験のほか、西欧民主主義は何かを考えるにあたり、ギリシアの歴史を検討するといった地道な努力の末に、独秀と大変似た考え方に行き着いている。また顧准はレーニンが考えた直接民主という考え方にあやまりがあり、社会主義社会は間接民主(議会制)に戻るべきだとしている。
顧准 レーニンの誤り 1973年4月
胡適については、世界や歴史の大局をみていると感じるが同時に、海外在住が長く安全な立場にいたことが彼の弱みだと思う(参照 聞一多暗殺事件1946/07)。私自身は、国内にとどまって自分の生き方から逃げなかった陳独秀の方が、人間として共感できる。胡適もその点は分かっているのではないか。ここで胡適は、陳独秀の力を借りて、民主主義について語っている。
陶希聖 陳独秀について 1964
陳独秀の最後の論文と手紙について、中国は今どのように評価しているだろうか。陳独秀の見解は、資産階級民主の肯定が特徴だが、さすがにそれを公の場では肯定しにくいというのが、現状だろう。とはいえ中華書局が2015年刊行に、陳独秀の民主制の見解を含むものをそのまま、余計な注釈をつけずに出版したことも事実である(初版4000部)。
披見できた、中国の研究者などの記述は以下の通りで中国での陳独秀の民主制について言及する内容には一定の限界があることが見える。
別途紹介した任建樹「陳独秀的最後見解」『社会科学報』2008年1月17日 任建樹『陳独秀與近代中國』上海人民出版社2016年pp.184-188所収は、陳独秀は「不徹底的民主制」を擁護(保護)したとしている。これは陳独秀から受ける印象からは真逆である。陳独秀は資産階級民主を不徹底的民主制とは呼んでいない。むしろ資産階級民主を肯定しているので、それをあえて不徹底=不完全な民主制という必要が任にあったように思える。
また祝彦『陳独秀思想評伝』福建人民出版社2010年は、最後の章でこの民主政治についての見解も紹介している(pp.207-212)。そして、どのような反応があったかを紹介している。トロッキー派は、陳独秀の見解は無産階級専制を根本否認するものだと批判する決議を採択し(1941年1月)、中共中央の『解放日報』は、ソ連社会主義を否認するものだなどと批判する記事が掲載したとしている(1942年5月)。祝彦自身の見解は書かれていない。最後に周海滨『失落的巅峰』人民出版社2012年は陳独秀など6人の共産党最高指導者で失権した人を扱った読み物だが、ここで問題にしている民主制についての見解の彫琢については言及されていない(pp.1-25, esp.20-25)。
以上のことは大変示唆的で、陳独秀の民主制についての見解を、手放しに評価することは、現在の中国社会ではむつかしいようだと言わざるを得ない。
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p.161 陳独秀は1937年8月に出獄しており、1942年5月27日に亡くなっている。最近私(訳注 胡適)は彼の友人たちが印刷発行した『陳独秀の最後の論文と手紙』という小冊子を読むことができた。私は彼の最後の思想、特に彼の民主自由についての見解は、彼が沈思熟慮六七年をしたあとの結論であり、我々全員が事細かく良く考える(仔細想想)に値すると感じた。
独秀は1937年11月、彼の友人たちに宛てた手紙で述べている。
私はただ重視するのは私自身の独立した思想で、誰かほかの人の意見に
引っ張られたのでない意見である。私がここで発表する言論は、すでに
人々に広く声明したことであるが、ただ私一人の意見であり、誰かほかの
人の代わりに述べるものではない。私はすでにいかなる党派にも隷属して
いないし、いかなる人の命令指図も受けていない。自作の主張であり、責
任は自ら負う。将来誰が友人か、現在は全く分からないが、私は決して
(絶対)孤立を恐れない。(給陳其昌等的信)
p.162 当時、人々はしばしば彼(訳注 陳独秀)を共産党トロッキー派の一人とみなした(看作)。しかし彼は自らこの手紙の中で明白に宣言する、彼は「すでにいかなる党派にも隷属していないし、いかなる人の命令指図も受けていない」と。
1939年9月欧州で戦争が勃発したあと、中国共産党は重慶で出版していた『新華日報』でレーニンの1914年大戦に反対する論文を訳出掲載し、毎日この度の戦争は先の大戦の再演で、帝国主義者の戦争だと宣伝した。中国のトロッキー派の『動向月刊』もまたこの種の見方に共鳴したが、(独秀は)とても強くこのようなお決まりの(抄襲老)文章の論調に強く反対し、断固として主張した。
ヒットラーに賛成し支援するあるいはヒットラーに反対する。事実上も
理論上も、いずれであるかを曖昧に両方をするのは不可能である。ヒット
ラーに反対して、同時にヒットラーの敵を同時に打倒すべきだとはならな
い。さもなければヒットラーに反対しファシズムの勝利を阻むのは、いず
れも空文句に過ぎない。(1940年3月2日給西流等的信)
彼はさらにはっきりと言う。
現在、ロシアとドイツの両国の国家社会主義(ナチズム)および
ゲーペーウー(G.P.U.すなわち秘密政治警察)政治は、現代の宗教裁判
(法廷)である。人類がもし前進すべきであるなら、まずこの中世の宗教
裁判と比べても真っ黒な国家社会主義とゲーペーウーの政治を先に打倒
しなければならない。(同年4月24日給西流等的信)
p.163 この時、米国はまだ戦争の巻き込まれていなかった。しかしルーズベルトは、英仏両国に同情と援助をとても明瞭に示した。独秀はこのとき、わずかな遅れもなく宣言している、彼は世界大戦の勝利がイギリス、フランス、アメリカのものとなることを切望している(盼望)と。
ここでもしドイツ、ロシアが勝利するなら、人類は、人類はさらに
暗黒が増した中を少なくとも半世紀歩むことになる。もし勝利がイギ
リス、フランス、アメリカモノとなり資産階級民主が保持されたとする
と、その後、道は大衆的民主に向かい歩むだろう。(同年給西流等的
信,約在五六月之間)
彼はここである理論を提起している。「資産階級民主が保持されたとすると、その後、道は大衆的民主に向かい歩む」――この理論はすべての共産党の目には真逆のとんでもない誤った議論である。というのは1917年ロシア10月革命以来、共産党は「無産階級独裁」(という)事実を擁護し、一組の理論を作り上げてきた。曰く、イギリス、アメリカ、西欧の民主政治は「資産階級の民主」であり、資本主義の副産品であり、大衆無産階級が求める民主ではない。彼らは「資産階級の民主」を打倒せねばならず、「無産階級の民主」を新たに立てねばならない。これはすべての共産党があの二十年余りの間記憶し熟知したお題目(口頭禪)である。トロッキーは(権力奪取に)失敗した後、党は民主が必要だ、労働組合(工會)は民主が必要だ、各クラスソビエトは民主が必要だ、と声高に叫んだが、しかし彼は実際徹底的に政治民主自由問題全体を徹底して考えていない。それゆえトロッキー派の共産党もまた二十年来の共産党による「資産階級民主」攻撃の行き過ぎ(濫調)をすべて継承(承襲)している。この重要な問題において、レーニンとトロッキーとスターリン、ヒットラーとムッソリーニは、完全に一致している。とp.164 いうのは、ファシズム一味とナチ一味は、ともに、国際共産主義による「資産階級民主」を攻撃する古い文章をすべて盗作(抄襲)したからである。
このゆえに、独秀の資産階級民主から「大衆的民主に向かい歩ま」ねばならないとの一句は、当時彼の友人たちの「一致した」懐疑と抗議引き起こした。このとき(1940年7月)独秀は闘病中であり、ただ簡単に答えることしかできなかった。彼は述べている。
君たちが誤っている根本的な理由は、第一に資産階級民主政治の本当の
(真実)価値を理解できず(レーニンにはじまり、トロッキー以下等しく
同じだが)、民主政治をただ資産階級の統治方式だとして、偽善、欺瞞
だとし、民主政治の真実の内容が以下にあることを理解できないことに
ある。
裁判所以外の機関に人を逮捕する権がないこと。
参政権がなければ納税しないこと
議会で可決しなければ、政府に徴税権がないこと
政府の反対党は、組織、言論、出版の自由をもつこと
労働者はストライキ権をもつこと
農民は土地を耕す権利をもつこと
思想、宗教の自由、などなど
このすべては大衆が求めるところで、また十三世紀以来大衆が鮮血闘
争七百余年によってようやく得たものが、今日のいわゆる「資産階級の民
主政治」であること。これがまさに、ロシア、イタリア、ドイツですべて
根本的に否定されたものである。
いわゆる「無産階級の民主政治」と資産階級の民主(これは)ただ実施
の範囲広狭の違いがあるだけで、内容上、別の一組の無産階級の民主があp.165 るわけではない。
十月(革命)以来、(ロシアでは)「無産階級の民主」という中身のな
い抽象名詞を武器にして、資産階級の現実の(実際)民主を打ち壊し、今
日スターリンが統治するソ連が生まれた。イタリア、ドイツについては続
けて学んでいるところ。今皆さんはまたこの空っぽの名詞を武器にして、
ヒットラーのために資産階級民主の英米を攻撃しようとしている。
(1940年7月31日給連根的信。段分け、行分けは、見てすぐわかるよう (要醒目)に私(訳注 胡適)がおこなった。)
この簡単な返事は、独秀の自己独立思想の結論であり、独秀の自己独立思想の結論である。実際、彼が迷った末にはっきりと自覚した(大覺大悟)見解であった。ただ彼だからこそ大胆に指摘できる”レーニンに始まり、トロッキー以下(皆同じく)等しく”資産階級民主政治の本当の価値”を未だ理解できていない。ただ彼だけが、二十年(現在では三十年)来、共産党が民主政治に打撃を与える武器としてきた、”無産階級民主”がもともとはただの無内容な(空洞的)抽象名詞に過ぎないことをあえて指摘した。
独秀の最大の自覚(覺悟)は、彼が”民主政治の真実の内容”には一組の最も基本的項目――一組の最も基本的な自由の権利があり、――いずれも大衆がもとめたものであり、決して資産階級が独占するものでも、大衆が必要としないものでもない。この”民主政治の真実の内容”として、独秀はここで七つの項目を挙げている。同年九月西流宛の長い手紙の中で、かれは二度この問題を論じている。最初のところで彼は”民主の基本内容は、無産階級でも資産階級でも同様である”として以下を列挙している。
裁判所のほかは人を捕まえる権利、人を殺す権利を持たないこと
政府の反対党が公開されて存在すること
p.166 思想、出版、ストライキ、選挙の自由権利など
同一の手紙の後ろで、彼は一枚の比較対照表を作っている。以下のとおりである(訳注 甲乙左右対称式に書けなかったので箇条書きとする)。
(甲) 英米および敗戦前のフランスの民主制
(一) (政府と反対党を含む)各党による議会選挙、・・・選挙民の要
求に沿ったもので、選ばれる政綱と演説が発表される。というのも選挙
民が最後には投票権をもつから。開会時には相当の討論議論がある。
(二) 裁判所の命令なく人は退歩されず殺されない。
(三) 政府の反対党は共産党ですら公開して存在する(訳注 弾圧され
て秘密の存在ではない。合法的存在の意味。)
(四) 思想、言論、出版はかなり(相当 訳注 高いレベルまで)自由
である。
(五) ストライキそのものは犯罪行為ではない。
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(乙) ロシア、ドイツ、イタリアのファシズム制(原注:ソビエトロシ
アの政治制度は、ドイツ、イタリアをお手本とするものであり同一種類に
分類できる)
(一) ソビエトあるいは国会選挙は等しく政府党が(訳注 議員を)指
名(指定)する。開会時はただ挙手するだけで、議論(爭辯)はない。
(二) 秘密政治警察は自由に(任意)人を逮捕し殺人できる。
(三) 一つの国に一つの党であり、ほかの党の存在を許さない。
(四) 思想、言論、出版はともかく自由でない。
(五) ともかくストライキは許さない、ストライキは犯罪である。
この表のあと、独秀は述べている。
それぞれのコミュニスト(独秀は共産党という名詞を用いたくないよう
で、ここではこの音を用いている)はこの表をみて、なお資産階級民主に
p.167 悪態をつくだろうか(還有臉咒駡)。宗教式的迷信時代は、早く過去
のものとなるべきで、皆さんには目覚めて欲しい。今後の革命は、もし今
まで通り「民主は過去のもので、無産階級は独裁だけで、民主はない」と
考えるなら全人類を蹂躙することゲーペーウーがただあることになる!…
この西流宛ての長い手紙は独秀が闘病中に「二十日余り延々とよく書いた」もので全文5千字、その中の三千字余りは「民主政治」を議論したものである。私(訳注:=胡適)はこの手紙は、中国現代政治思想史の上で稀有の重要文献だと考える。そこで多くを、何段かを紹介せねばならない。
独秀は言う。
第二の問題(すなわち民主政治制度問題)については、私はソビエトロ
シアの二十年来の経験、沈思熟慮六七年に基づいている。(そして)今
日の意見の決定を始めたのである。
これは彼自身の書き出しである。以下の彼の意見は全部で六段に分かれている。私は今そのなかでもっとも華やかな数段を引用する。彼はこの数段の中で、繰り返し民主政治の重要性を理由を述べて説いている(陳說),しばしばロシア革命以来の政治制度の歴史を例としている。彼は言う。
もし大衆民主が実現しなければ、(いわゆる)”大衆政権”あるいは”無
産階級独裁”は必然的にスターリン式のごく少数人によるゲーペーウー制
(訳注:秘密政治警察制)になる。これは物事の勢いから当然の事であ
り、スターリン個人の心根が特別悪いからではない。
p.168 これはまことに誠実な(忠厚的)コメントだ。トロッキー派共産党によると、ソビエトロシアのすべての罪悪はすべてスターリンひとりに責任(咎)がある。独秀はこのとき「すでにいかなる党派にも隷属しない」のでった、そこで彼は党派的意見を超える(透過)ことができ、ソ連の独裁的政治制度があらゆる暗黒と罪悪の原因であると指摘した。独秀は言う。
スターリンのすべての罪悪は、無産階級独裁制の論理的発達によるも
のである。スターリンのすべての罪悪を試しに問うなら、それはソ連が
1917年10月以来、秘密政治警察の大権、党外無党、党内無派、思想、出
版、ストライキ、選挙の自由を許さない、に頼ってるからから、この一
連の反民主的独裁制が生まれたのでは?
独秀は自ら注釈を加えて言う。
これらの民主的制度に違反するものは、すべてがスターリンが自ら作
ったものではない。
彼はまた言う。
もしもこうした民主制が回復せず、スターリンを継承したものは、誰
であれ「専制魔王」となる。それゆえソ連のすべての悪いことをすべて
スターリンに罪を着せ、ソ連の独裁制の不良に原因を求めないことは、
まるでスターリンさえ取り除けば、ソ連はまるでなにも問題がないかの
ようだ。――この種の個人を崇拝し制度を軽視する偏見は、合理的な
(公平的)政治家はもつべきではない。ソ連の二十年の経験、特に後半p.169 十年の苦い経験は、我々を反省させる。我々がもし制度上の欠点を
導出することなく、教訓を得て、ただ眼を閉じてスターリンに反対する
だけなら、永久に悟ること(覺悟)などないのだ。一人のスターリンを
倒したところで無数のスターリンがロシア及び別の国で生まれるかもし
れない。十月(革命)後のソ連で明らかなことは、独裁がスターリンを
生みだしたことで、スターリンがいたから独裁制が生まれたのではない
ということだ。
独秀の主張は民主制度、すなわち彼がなんども”民主政治の基本内容”として列挙したものが回復されるべきだというにある。彼は1940年11月に書いた《我的根本意見》という一篇の論文において、この基本内容について更に概括的な記述を与えている。
民主主義は人類が政治組織を生み出してから政治が消滅するまでの間
において、各時代(ギリシア、ローマ、近代から将来に至るまで)多
数階級の人民が少数の特権(階級 訳者補語)に反抗する旗幟であっ
た。”無産階級民主”は空っぽの(空洞の、内容がない)名詞ではなく、
その具体内容は資産階級民主と同様にすべての公民は集会、結社、言
論、ストライキの自由を有するというもの。とくに重要であるのは、反
対党派の自由である。これらがなければ、議会とソビエトは同様に一文
にも値しない。(《根本意見》第8条)
独秀はこの1年の間に、前後4回”民主政治の真実の内容”を列挙した。これが最後の一回で、彼の見方は一層透徹しており、一言で総括できるように鳴っている。民主政治とはただすべての公民が(有産であれ無産であれ、政府党であれ反対党であれ)誰もが集会、結社、言論、出版、ストライキの自由p.170 をもつことである。彼はさらに一句を述べる。
特に重要なのは反対党派の自由である(特別重要的是反對黨派之自由)。
この十三文字の短い一句によって、独秀は近代民主政治制度の生死の分け目(關頭)をしっかりつかんでいる。近代民主政治と独裁政治制の基本区別はここにある。反党党派の自由を承認すること、そうであって近代民主政治といえる。独裁制度は反対党派の自由を受け入れない。
独秀は「沈思熟慮の六七年」を経たことで、近代民主政治の基本内容を認識した。それゆえ彼はに二十年来の共産党による民主政治を貶める行き過ぎた言葉を放棄でき、大胆に指摘している。
民主主義であるか(民主主義并非)と資本主義及び資産階級は分離で
きない。(《根本意見》第九条)
彼はまた指摘している。
近代民主制の内容は、ギリシア、ローマに比して豊富で多くである
べきだし、実施範囲も広さが多くあるべきだ。近代は資産階級が権力
にある時代であるので、われわれはこれを便宜上資産階級の民主制と
呼んでいる。実際のところこの制度は、資産階級が歓迎するところの
ためだけでなく、数千万の民衆の闘争五六百年を経てようやく実現し
たものである。(1940年8月給西流的信)
p.171 彼は深い感慨をもって指摘している。ロシア十月革命以後、”軽率にも民主制と資産階級統治を同一とみて力でひっくり返し、民主に代えて独裁としてこと”は、歴史上最も悔しまれる一大不幸事であったと。彼は言う。
科学、近代民主制、社会主義は近代の人類社会の三大発明であり、
尊いものだ。不幸なことに十月”革命”以来、軽率にも民主制と資産
階級統治を同じものとして力でひっくり返し、独裁をもって民主に代
えた。民主の基本内容は力でひっくり返された。いわゆる”無産階級民
主””大衆民主”は実際内容がない空洞の名詞、その場限りの言葉(門面
語)に過ぎない。無産階級は政権取得後、国有大事業を持つ、軍隊、
警察、裁判所、ソビエト選挙法これらの便利な道具を手に、資産階級
の反革命を十分鎮圧し、独裁をもって民主に代える。独裁制は鋭い刀
のようなもので、今日殺人に用いたものが、明日は自分を殺すために
使われるかもしれないものである。レーニンは当時「民主は官僚制の
抗毒素だ」と気づいたが、真剣に民主制を用いようと、秘密警察を取
りやめたり、反対党派の公開存在、思想、出版、ストライキ、選挙の
自由などを容認したり、ということはなかった。トロッキーは独裁者
が鋭い刀で彼自身を傷つけるに至って、ようやく、党と労働組合、各
クラスソビエトは民主が必要で、選挙自由が必要だと考えたが、あま
りに遅すぎた。そのほかの無知なボリシェビキ党人は、独裁制をこの
上なく尊いとし、民主をさげすんだ。このような誤った観点が、十月
革命の権威により、全世界を征服した。最初にこの観点を採用したの
はムッソリーニで、二番目がヒットラーであり、独裁制の本拠地(本
土)であると率先主張した。ソ連は以前にもましてひどくなった(變
p.172 本加厲,無悪不爲)。独裁制を崇拝する一味と子孫が世界にひろが
った。・・・(同上)
それゆえ”ソ連の二十年来の経験、沈思熟慮六七年”の主要結論は
ソ連二十年来の教訓から得られた気づきは何もなかったとすべき
で、科学的で非宗教的にボリシェビキ理論とその指導者の価値が改め
て評価されたとすべきかもしれないが。(しかし)たとえば無産階級
政権の下での民主制の問題のように、全ての罪をスターリンに帰する
ことはできない。・・・”無産階級の民主”の具体的内容は資産階級民主
と同様にすべて公民は等しく、集会、結社、言論、出版、ストライキの
自由をもつということ。とくに重要なのは反対党派の自由。・・・無産
政党がもし資産階級及び資本主義に反対で、併せて民主主義にもまた反
対であると、たとえ無産階級が世界各国で出現しても、民主制が官僚制
の消毒素になることはないので、ただ世界にはスターリン式の官僚政権
が出現するだけである。・・・いわゆる”無産階級独裁”、根本的にはそ
のようなものは存在しない。すなわち(存在するのは 訳者)党の独裁
である。結果はただ領袖の独裁である。どの独裁もいずれも残虐と暴力
で、隠蔽、欺瞞、汚辱、腐敗の官僚政治と分けがたく結びついている。
(《我的根本意見》第七、八、九条)
以上は私が文章を選んだ我が亡き友陳独秀の民主政治に関する見解であっp.173 た。彼には1941年1月19日HとS宛ての書簡がある。私はそこから幾つかの文章を引用して、紹介文のおわりとしたい。
私は立論にあたり、歴史や現在の情勢の変化を根拠とすることが好き
だが、空論は好きではないし、ほかの人の発言を引用して立論の前提に
することも好まない。…最近書いた《根本意見》はいかなる主義を論じ
たものでもない。(その)第七条はボリシェビキ理論とその領袖(レー
ニン、トロッキー共に含みます)の価値を、ソビエトロシア二十年余り
の教訓に基づき、マルクス主義の尺度によることなく、新たに再度評価
することを主張するもの。なおソビエトロシアの道理が良くないという
のは、マルクス主義に合わないということ。しかし誰がそれをきめるの
か。”教派””正統”などの言葉は中国の儒教の””道統”に由来しこれの元は
私の口に合わない。だが孔子の道理に正しくないところがあると私
は孔子の教えに反対する。第三インターに正しくないところがあると
第三インターに反対する。第四インター、第五インターと同じ。私は終
身反対派だと言われるが、実際このようだ。しかし私はわざとそうして
いるのではなく、事実に迫られてやむを得ずそうしているのだ。
かれは一人の”終身反対派”だったので、彼は独裁政治に反対しないではおれなかった。それゆえ彼は苦しんだ経験から近代民主政治の基本内容、”特に重要なのは反対党派の自由であること”を悟ることができたのである。
1949年4月14日夜 太平洋船上
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