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毛沢東の読書リストについて

毛沢東の読書リストについて            福光 寛
 毛沢東(1893-1976)が、中国に「大躍進」や「文化大革命」など国難をもたらした一因に、彼の渉猟範囲が偏っていて、西欧で国王の王権が制限され、民意が選挙を通じて議会に反映されるようになる歴史を、そもそも学んでいないのではないか?という仮説を私は持っている。また彼が仮に読んだとしても。読んだのは中国語の翻訳を通してでありその翻訳の質の問題があり、また彼がそのとき持っていた教養の範囲で、内容をよく咀嚼できたかという問題もある。さて実際はどうだったか?
   毛沢東は1910年秋に東山高等小学堂の図書館で内外の歴史地理などの書籍を多数読んだとされる。そこでアメリカの独立戦争のことを学んで啓発されたという。1911年には長沙で出て省立一中に進学したものの、不満を感じて1912年秋に退学、下宿先から華里で3里のところにあった定王台省立図書館に毎日、焼餅2個を手に通いつめた。半年間、主として西欧の社会科学自然科学の代表的著作の翻訳を集中して読んだ。そのリストをみると、ダーウインの「種の起源」、アダムスミスの「国富論(原富)」,J.S.ミルの「論理学体系(名学)」、スペンサーの「社会学研究(群学肄言)」、モンテスキューの「法の精神(法意)」、ルソーの「民約論」などがある(毛澤東與圖書館 載 莫志斌《湖湘文化與近代中國》中華書局, 2006年,138-144, esp.138-139 なおこれらの多くは嚴復(1854-1921)の翻訳に拠ったと考えられる)。
 ただ私たちが知る毛沢東の著述に、これらを読んだ影響、封建時代から資本主義の時代にむけて、君主権が制約されるようになったことや、人権が尊重されるようになったことへの関心や問題意識は全く感じ取れない。これは一つはこの読書から大きな影響を受けなかったということ、あるいは理解が浅かったということ、あるいはこれらは単に眺めた程度の書物の名前を挙げているのかもしれない。
 その後。1914年春から毛沢東は湖南第四師範から湖南第一師範に転じて学び、社会科学方面の書籍を多読したとされる。さらに1918年8月、第一師範を卒業して間もない毛沢東は、北京に至り、北京大学教授に転じていた第一師範の恩師楊昌済から、北京大学教授にして同図書館主任だった李大釗を紹介され、月給8元の薄給ながら北京大学図書館内に働く機会を得て、李大釗から直接マルクス主義を教わる機会を得たとされる(同上,esp.140-141)。
 確かに様々な原書がならぶ北京大学の図書館での生活は得難い経験だったに違いないが、毛沢東がこの経験の結果、知識を持っている人を尊敬するようになったかは、疑問が残る。李鋭が示唆しているように、この北京大学での下積みの経験は、むしろ知識階級への敵対心を育てることになったのではないだろうか?確かに、毛沢東が北京大学図書館でどのような生活を送っていたかは、想像で書かれている部分が多いが、後年の知識階級いじめを毛沢東がしたことからすると、李鋭の指摘が実相に近いと思える。(毛泽东与反右派鬥爭 載《李锐新政见 何时憲政大開張》天地圖書有限公司,2009年,88-101 『中国民主改革派の主張』岩波書店、2013年、73-94)

 ところで毛沢東に限った問題ではないが、中国共産党の指導者はマルクスの書いたものを大量に読んで共産主義者になったわけではない。毛沢東は1920年にマルクス、エンゲルスの共産党宣言を読んだ。そしておそらく入門的なパンフも読んでいる。李維漢が語るところでは(李維漢《回憶新民學會》載《回憶與研究》中共黨史出版社,2013年,pp.1-24  この本は1986年出版だがここでは手元の2013年版を用いる)、毛沢東は北京での活動期間に広範なマルクス主義の書籍に触れ、1920年夏にはマルクス主義者になっていた(同前p.7)。そして、国際共産主義運動が、第二インターと第三インター(訳注 コミンテルンとも呼ばれる)に分裂する背景のもと、毛沢東はフランスで働きながら学んでいる新民学会の同志に対して、無政府主義、デモクラシーは今日通用しない。平和的手段や教育的方法で社会は改造できない、などとする1920年12月1日付けの長文の手紙を寄せた。そしてさらに1921年1月、新民学会は3日間にわたり議論を行い、大多数の会員がマルクス主義の信仰を表明したとされる(同前pp.14-15)。そしてこれが中国共産党の創設への大きな力の一つになる。問題は、中国国内にとどまった毛沢東が触れえたあるいは入手できた文献である。おそらく披見できた原典はかなり限られており、その後、特に根拠地での活動時には、国民党軍に取り囲まれた環境だったため、文献の入手は長年極めて困難だったと考えられる。
  毛沢東的故事(1)1893-1910
     毛澤東的故事(2)1911-1921
      鄧子恢(1896-1972)の場合
   劉少奇(1898-1969)の場合
   ある程度大量に文献を得たのは1932年4月に福建省漳州を赤軍(紅軍)が攻略したときだった。その後長征の途上、あるいは延安で毛沢東はようやくマルクス、エンゲルス、レーニンに触れている。(逢先知《毛澤東讀馬列著作》載《毛澤東的讀書生活》1986年,20-34,esp.20-21 この書籍についても本書が使用しているのは2009年の第二版、つまり最近の刊行版である)
 延安に入ってからは文献をあつめ、また組織的に翻訳することを進めた。延安で行われた整風運動では、こうした古典の学習を幹部に求めたものでもあった。その後も学習と政治を一体化することは繰り返され、1953年の大規模経済建設開始にあたっては、「ソ連共産党史」9章から12章の学習が中共中央により党幹部に求められた。また1958年大躍進の推進により幹部の中で思想の混乱が現れると、毛沢東は書簡を出して全国の地方の幹部にスターリンの「ソ連社会主義の経済問題」と「マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンは共産主義社会をこう論じた」の2冊を読むことを求めた(同上,  esp.28-31)。このように、熟慮はあったのであろうが、毛沢東自身が古今のあらゆる文献を精査して、共産主義にたどり着いたとは、この経過からは到底思えないこと。これをどう考えるべきだろうか。

     ここに1959年10月23日付けの毛沢東が移動に際して、持参を指示したとされる書籍のリストがある。(逢先知《博覽群書的革命家》載《毛澤東的讀書生活》1986年·,1-19, esp.18-19)ここで中国の古典などを除くという私なりの取捨をした結果は以下の通りである。このリストを見て、広範な知的関心があるとするか、偏っているとするかは人によって評価はおそらく異なるだろう。またこのリストは毛沢東でなく秘書が作ったもののようにも思えるが、中国の外の世界に対する、60代後半に入った毛沢東(1893-1976)の知的関心の幅を示唆するものであることは間違いない。

 マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの主要著作(書名省略)。
 「ソ連共産党史」。
 プレハーノフ「史的唯物論」「芸術論」。
 ヘーゲルの著作、フォイエルバハの著作。
 オーウェン、フーリエ、サンシモンの三大空想社会主義者の著作。
 「西欧名著ガイド(哲学社会科学部分)」。
 「論理学論文選集」(科学院編集)。
 JSミルの「論理学体系」。
 ミーデイン「弁証唯物論と史的唯物論」(同名のスターリンの論文あり 訳注)
 ソ連「政治経済学教科書」(第三版)。
 河上肇「政治経済学大綱」。
 古典経済学から俗流経済学までの主要著作。
 最近数年の中国経済学界政治経済学論文選集。
 法華経 大涅槃経 般若波羅蜜多心経 六祖壇経。
 西洋史(マルクス主義観点のもの)、日本史。
 ソ連大百科全書選択。
 自然科学方面の基礎知識書籍。
 技術科学方面の基礎知識書籍。
 ソ連の学者が主席に送った手紙(社会主義社会矛盾問題を論じたもの)。
 中国地図、世界地図。

    この毛沢東の読書リストに感服する人もいると思うので、以下の私の論文にある顧准(1915-1974)の読書リスト(pp.106-107)とぜひ比較してほしい。顧准はその遺著において、社会主義中国の社会システムの欠陥が、議会制民主主義を否定したレーニンに従ったことにあること、指導者の独裁を防ぐには社会主義社会でも議会制民主主義を守る必要があることを指摘している。そうした認識が可能になった理由はその経験とリストにみる広範な読書にある。
    福光寛「顧准(1915-1974):生涯と遺著」『成城大学経済研究』第222号,  2018年12月,  91-143, esp.106-107

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