人生の経営理念は…
今日の写真は,昨日の仕事の模様です。イタリアに来て5日目の朝。今晩の飛行機で帰国の予定だが,今回の任務は昨日のお昼に終えた。だが,そこから今までの18時間くらいの間にいろんなことを考えた。ので,まだ出発まで時間があるので,そのことについてメモしておきたいと思う。
10日から,新年度の講義を2つほど休講にし(補講はしますよ),学科会議の書記は同期の先生にお願いして,学会発表(http://www.eiasm.org/frontoffice/event_announcement.asp?event_id=1347%20)のためイタリアに来た。(おいしいリゾットの素持って帰ります。皆さんすいません)
業界の中では海外出張をあまり好まない私がヨーロッパに出るのは2010年のイギリス以来9年ぶりであり,ヨーロッパの学会で自分が発表者になるのはこれが初めてだった。
今回共同発表者になっていただいた先生方からは,中身や英語の書き方などをじっくり指導していただき,本番でも現地の大学の先生から大変建設的なコメントをいただいた。英語も,まだまだではあるけど,この1年くらい割とコツコツやってきたスカイプ英会話の効果が表れだしたな,と少し自分でも認識できた。という,おそらく学者としてはなかなか恵まれた機会であった。
しかし私はこの発表の12時間後,現地時間の深夜,自分のこの先の学者人生について,このうえなく鬱っぽくなってしまった。
そして5時間ほど眠った(現地時間の)今朝は,ある程度回復している(はずである)。ので,考えたことを備忘の意味もこめて記録しておく。
おそらく我々の商売の慣習なのだが,学会発表の後の夕食のときになると,今回の発表における「今後の要検討課題」についての話をする。今回は宿泊先の2件横のレストランでワインとパスタをいただきながらそんな話をした。
そのとき,思ってしまった。
自分は,今回の発表からステップアップして,何を目指すのか?
こういうことをやって,将来誰の役に立ちたいのか?
まず,正直,大して才能に恵まれているわけではない。社会における興味関心の幅は狭いほうなので,教養もあまりない。レストランでも,ヨーロッパの食事マナーもろくすっぽ分からない。イタリア語のお品書きも読めない。というか,はっきり言えば,私はむしろ「あんた本当に旧帝大出てんの?」と言われるような奴である。いや,20年前,受験勉強は割とよくできたのよ。浪人はしたけど。でも,その能力はサラリーマンや研究者をする能力とは違うと思っている(どう違うかはまたいずれ)。
それと同時に,出自的には環境も恵まれたほうではない気がした(少なくともそのときは)。前日の学会のディナー時に,ある日本人の先生が同席していたヨーロッパの学者に言っていた,「伝統的に日本では,大学院生の生活保障などが行き届いていないので,研究者は比較的恵まれた家庭の出身の場合が多い」。うーん,確かに貧乏はしないで大学まで出してもらったけど,人生であまり褒められたこともないし,何か表彰されたこともないし,大学院は2年間のサラリーマン生活で貯めた貯金を元手にして行ったし,この10年くらい実家の雰囲気は……だし,俺ってそんなに恵まれてるほうではないよな…。(実は6年前~4年前くらい,博士号いただいた直後の頃なんて,自分の目標を見失った中で周囲の同年代が妻子持ちかつ生き生きと研究しているのを尻目に,毎回研究会に行くのすら憂鬱で仕方なかった。研究もつらくて仕方なかった)
俺って,どうなるの?
一生,馬鹿にされ続けて,誰も喜ばないような紙屑を書き続けるの?
そんで自分のコンプレックスに傷つき続けるの?(正直,上述の出自ゆえ,コンプレックスは強いほうだと思っている。せめてそれによって周りの人を傷つけないようにするだけで精一杯なちっぽけな人間である)
気が付くと,広島で待ってる妻に電話していた。
色々と励ましてもらった。あなたにはこんな強みがあるじゃないか,的なことも言ってもらった。だから,あなたのやってることが役に立ってないなんてことはないんだから,「今目の前にあることを一生懸命やったらいいと思うよ」,と。
一方で,妻に電話する直前には,ツイッターの非常用(?)アカウントでグチを書きまくっていた。投稿内容を要約すると「何のために研究ってするのですか?私はもう疲れました」的な感じ。そうすると同じ業界の先輩の方から返信があった。研究は自己満足なので,何かを求めるべきではないと。
自己満足???って思った。けど,妻の言葉とこの先生の言葉が,朝になって先ほど,私の頭の中でいったん結びついた。そのときに結びついた結果として自分の脳裏に浮かんだのが,以前にすごく良い話だなという,アンドロイド研究で有名な石黒先生のこの談話だった。↓
https://youtu.be/XD_URkdyaTg
「有能でありたい」とか「人の役に立ちたい」とか,考えること自体,不毛なのかもしれない。なぜって,それは仕事の結果として相手が評価することだから。
これだけ不確実性の高い世界なので,夢とかビジョンとか戦略なんて最初から固定するのが無謀だったのかもしれない。
一番大事なことは,ただ目の前の,片付けたいと思っている仕事を一生懸命やること,それだけなのかもしれない。いや,これは学者に限らず,どんな商売でもいえることで。
自分の能力や出自に対するコンプレックスは,克服しようとする必要なんてないのかもしれない。それでもただ目の前の仕事にかじりついて,それで一生を終えるときに初めて,自分のこれまでの行動の根底にあった思想をまとめたら,それが自分の理念ということになる。それで良いのではないか。
事前に理念や戦略,目標をかっちり決めてしまうと,修正が効かない。ということは生きづらくなる。
実績が出るたびに毎回ほかの人々とベンチマーク分析をしていると,自分がつぶれてしまう。だいたい,人生においてベンチマークをすること自体,人生の価値に優劣をつけるトンデモな行為なのではないだろうか。
管理会計なんかを教えていると,他社とのベンチマークの話っていうのがどうしてもよく出てくる。が,それは企業が生き残っていくために必要なことだから。人生とビジネス,共通するところはあるかもしれないけど,すべてを一緒にするべきではない。ビジネスは社会的に価値が認められなければ(≒業績が出なければ。厳密には違うかもしれないが),存続していくことができない。それは,そのビジネスの当事者・関係者の不幸に結びつきかねない。だから,あえて,ベンチマークによって「優劣」をつける必要が出てくる。ただしそれは,ビジネスの優劣であって,その当事者の優劣ではない。管理会計の教科書に出てくる理論や技法は,ビジネスの当事者が不幸を負うリスクを回避しやすくするための,マニュアル集なのだと思う。だから,管理会計理論を人生において実践する必要はない。特に,私のような弱い人間が活き活きといきていくためには,こんなことが大事なのかもしれない。
ただ目の前の仕事をただ愚直にやっていく。
こんな性格だから,また自分を見失うときが来るとは思う。
けど,これを2019年4月14日早朝のイタリア・アッシジでの備忘録として残しておく。
また落ち込んだ時に,これを読み返せして,自分が励まされれば良いな。
そして世界の中の誰かが,たった一人でも,こんな小さな小さな投稿を読んで元気づいてくれたら最高です。